序章
こちらの作品は、作者の気まぐれによって徐々に執筆されます。
忘れた頃に更新されるでしょうが、何卒宜しくお願いします。
ふわりと。
蚊取線香の香りが夢現の夢を現実へ引き寄せる。
今はもう誰ももてはやさなくなった赤翡翠がキョロロ、と鳴く声にのそりと身体を起こした。
それでもまだ名残惜しく、くたびれた布団の温もりの余韻に浸っていれば湿気を含んだ六月の風が線香の香りを絡ませ枕元に置かれている原稿用紙を攫うようにカサカサと音を立てる。
やはり布団に入っての執筆は無理か、と1頁も進んでいないそれを手に取り視力の悪い自分の目を目一杯に近づけミミズの這ったような文字を睨むが、どうやら解読は不可能に近そうだ。
深く息を吐きながら身体を仰け反らせていると、引き戸の向こうから私を呼ぶ声がした。
まだ動きたくない思いはあったが、いい加減行動を起こさねばと布団から出るとずり落ちていた丸眼鏡をかけ直し、着崩れた桑色の着物を整えてから戸を開けた。
丁度左手には一階に向かう古びた木製の階段があり、そこから唇に紅をひいた端正な顔立ちをした彼女が顔を出していた。
私がそちらに顔を向ければ、艶のある漆のように深い色の長い髪を揺らしながら困ったように微笑んだ。
「先生、もう八時ですよ。朝ごはんも出来ていますから、早く下に来てくださいね」
絹のような柔らかい、水面を静かに揺らすような声でそう告げると艶やかな髪を翻して姿を消した。
もし、彼女が近くにいたら私は櫛が流れるように通るであろうあの御髪を指に絡めていたに違いない。
……なんて馬鹿な事を考えるのはよそう。
大きく欠伸をしながら襟に腕を突っ込み、腹の虫が鳴くそこを搔く。
それから布団が敷いたままの自室を一瞥する。
風がそよぐ窓際には渦を巻いた蚊取線香が色を変えた場所からぽとり、ぽとり、と灰を落としていた。
緋色に光る先端がまるで尺取虫が葉を食べるような光景を思い出させる。
腹を搔く手を休めないままその様子を見ていたが、また彼女が痺れを切らせて呼びに来るかもしれない。
私は襟から腕を出すと軋む階段に足を乗せ、彼女の元へと向かった。
十畳程の居間へ行けば、足の短い机の上には十分すぎる程の朝食が用意されていた。
「今日も随分量が多いですね」
率直に言えば「そうですか?」と溟渤よりも深い色をたたえた目に睫毛の影を落としながら紅が映えるその唇で緩やかに孤を描きながら、彼女はふわりと微笑んだ。
流れるような動作で割烹着を脱ぐと、革色の着物を整え机の前に正座をする。
私も向かい合う形であぐらをかいて座ると、彼女と共に手を合わせて「いただきます」と言った。
「……ところで夕美さん。私は蚊取線香を出すにはまだ早いんじゃないかと思うのですが」
ツヤのある立ち上がった白米に箸を入れながら彼女、八幡夕美の瞳を見る。
白雪を纏ったその細い手で箸を持っていた夕美さんは、猫が可愛らしく首を傾げるように小さく頭を傾けた。
「先生は蚊取線香がお嫌いですか?」
よく彼女は私の質問を質問で返してくる。
そして気が付けば上手いことはぐらかされてしまうのだ。
最も、彼女の動作の一つ一つが綺麗やら美しいやらで見蕩れている間に私の質問などどうでもいいものになってしまうのだが。
「別に嫌いじゃあないですよ。ただ、まだこの時期じゃ蚊なんか居ないんじゃないかと思いまして」
「私は、あの香りが好きなのです。だからついつい置いてしまうんです」
さらり、と溢れた髪を耳にかけ直しながら彼女は苦笑する。
手首から肘にかけて巻かれた包帯がちらりと目に入るが、それは彼女が私の家に来た当時から両腕にされていたものなので、特に気にはしなかった。
寧ろ、今では薄く巻かれたそれですら彼女の一部に見えてくるのだから不思議だ。
「まぁ、私は一向に構わないですが……店の方にはまだ置かないで下さいね。万が一にも燃え移ったら大変なことになりますから」
「勿論。心得ております」
目を伏せ笑いながら、彼女は焼き目のついた鮮やかな色をした鮭に箸を入れた。
──八幡夕美は、二十代前半の年齢だと私は推定している。まだ若さが残る冗談めいた言動や清楚な身振りを見れば、どこかの女学校の出身であると考えた方がいいだろう。
しかし、年齢には合わない妖しさ……妖艷さが彼女にはあった。
艶やかな黒髪。
溟渤よりもなお深い色を称える瞳。
天鵞絨にも似た光沢の羽二重肌。
鼻梁や唇の端整さは、古代の名工が手にかけた彫刻を想わせる。
まるで深い黒と汚れを知らない白のみがその美しい姿を保っているようにも見え、私は出会った当初は恐怖に似た何かを憶えた。
その中で唯一その白の上に存在することを赦された、唇に塗られている紅。
男女問わず、その美しさは全ての者の目を惹く。言うなれば絶世の美女という言葉がよく似合う。
そんな彼女が、何故私の元に来たのかは分からない。が、ひとつ屋根の下で毎日を共に過ごしているという事実は私を優越感に似たそれに浸らせていた。
「先生、私は先にお店の方に行って支度をしてきます」
そう言って立ち上がる彼女を見れば、完食した皿を重ねて台所に置きに行く所だった。
私の横を通った彼女からは、線香の香りが香水か何かのように漂った。
「ええ、お願いします。私も食べ終えたらそちらに向かいます」
そう言えば彼女は笑みを浮かべてから居間を出た。
私も残っているそれを掻き込めば、食器を重ねて台所に向かう。
心なしか残っているように感じる線香の香りに身を潜らせながら皿を片付けていく。
ふと、彼女が使った箸を見ると男児が好きな女児が口をつけた物に自身も触れたくなるような衝動に駆られる。
しかし、私ももう二十九といい大人だ。理性も兼ね備えていると自負していた。
濡れた手を払えばそのまま自身の癖の強い髪に持っていき、ある程度整えていく。
「……さて、今日も始めましょうか」
もう一つ大きく欠伸をしてから言う。
私はゆっくりとした足どりで彼女の通った線香の香りを追うように引き戸を開けた。
そこから正面の入口までには、天井にも届く程の本棚が左右に十二列ずらりと並んでいる。
その一つ一つに梯子が掛けられており、上の棚まで届くようになっているが……掛けた本人である私でさえ正直こんな頼りない梯子にはあまり上りたくないものだ。
数冊の本を抱えながら本棚の整理をする彼女の横を通り抜け、入口の鍵を開ければ湿ったような空気が入ってくる。
扉を大きく開き立て掛けておいた看板を表に出すと、くるりと正面大通りに向けて置いた。
『開館中』と達筆な筆使いで書かれたそれを見てから、正面入口を見上げる。
堂々と立てかけられた『橘貸本屋』と書かれた看板が、朝日を柔らかく受け止めている。
「よく晴れてますね」
声がして見れば、ゆったりとした足取りで店から彼女が出てきていた。
それから隣に並ぶと黒髪を揺らしながら私を見上げ、柔らかく微笑んだ。
「では、本日も宜しくお願いします。橘 右京先生」
「……こちらこそ。宜しくお願いします」
いつも通りの挨拶を交わせば、私の時間は動き出す。
そう。何かの詩から引用するのであれば「世界が色付く」瞬間である。
──この貸本屋が、色を付け忘れこの世に生まれ出た唇に紅をひく彼女が、私をこの場に確立させているのだ。