誰彼刻 沈む刻に
夕食の時間だから、どの家からもとてもいい臭いが立ち込めて、鼻孔を刺激してくる。早く帰らないと。
自然と歩みが速くなる。
公園の前を差し掛かり、もうすぐ家に着く。
だが、違和感に気づき、足を止める。この違和感は何だろう。
辺りを見回すが、いつもと変わらない町並みがあるだけ。
気のせい……?
赤い陽が射し、赤く染まる町並み。いつもと変わらない……。
いつもと……?
体に電気が走ったかのように鋭い痛みと共に違和感に気づいた。
人の気配がしないことに。
おかしい。風景は変わらない。でも、気配がない、家族団欒の笑い声もテレビの音も風も吹くこともない。不気味なほどに静まり返っていた。
音を失った世界。何もない空間に風景を写しているだけの部屋に閉じ込められてしまったかのような錯覚に陥りそうだ。
嫌な汗が背中を伝う。自分はどこに迷い込んでしまったのか……。
「うっ…………」
急な目眩に襲われた。持っていた鞄を手放し、両手で頭を抱える。体が重い。まるで泥の中に沈みこんでいくみたいだ。
いや、事実。体が地面に沈んでいた。
「あっ! な、なんだこれ!! 誰か……誰か助けて!!」
静まりかえた町並みに僕の声はひどく響き、誰にも届くことなく虚空に溶けて消えた。腰まで地面に沈むと黒い液体が湧いてきた。
それは、湧き水のようにこんこんと湧き上がり、辺りを赤から黒に染め上げていく。何がどうなっているのか、頭が、思考が、心が追い付かない。
「くっ…………」
胸まで沈んだ。
最後の力を振り絞って抵抗をしたが、無意味だった。
何一つ現状を変えることが出来ない。理解不能のこの状況から抜け出すことを諦める。
死ぬんだ。そう直感した。
だけど、不思議なことに冷静な自分がいる。人は死を受け入れるとこんなにも穏やかになれるか、走馬灯一つも見ることもないのか。
フッと視線を感じ、目を動かしその方向を見る。垣根の隙間から何かが覗いていた。真ん丸の暗い瞳。白い体に赤いトサカ。
そう。鶏だ。
ああ、本当に鶏が近所にいたんだ。
頭の中でぼんやりと思った。これが僕の"この世界"での最後の思考となった。
視界が黒く染まり、ほんの数秒後に意識を手放した。
完全なる暗闇。音のない世界に身を落とす。