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悲劇のいきさつ 雛子が舞子になったとき

 その日は土曜日で、雛子ら生徒は休日だった。

 母親幸江は今日も祖父母の家に行く予定で「もしかしたら泊まりになるかもしれない」とぶつぶつ言った。

 祖母がここ数年体調を崩していたことは知っていた。そんなに悪いのだろうか? そんな話は普段特にあがらなかったが。

 雛子は自室のベットの中で布団をかぶってそんなことを思っていた。けれども雛子にとっては祖母の体調のこともテレビのニュースで聞くそれと同じ感覚で、どこか他人ごとだった。

 隣の舞子の部屋から母親と舞子の声が聞こえる。祖父母のところへと出発する幸江が、しっかり者の双子の妹に、いつもどおりの様子で話していた。「戸締りしっかりね。」「舞子、たまにはおじいちゃんのところに顔をだしなさいよ。おじいちゃんもおばあちゃんも、舞子に会いたがってる」「じゃあ行ってくるわね」そう言って、母親と、母親を見送るために舞子は玄関に降りていった。

 

 いつもと変わらない雛子の休日だった。


 友達など一人もいない雛子は、よくこうして自室で一人休日を過ごす。自室ですることといえば、ただこうやって布団にくるまっているか、布団の中で読書をするかだった。不必要に眠るのは怖かった。雛子の見る夢は、いつも灰色の悪夢だった。色がない空間にひとりぽつんといると、手には鎌をもち仮面をつけた集団が次々と現れる。逃げだそうにも彼らは圧倒的な支配感をもって雛子を威圧し、雛子に僅かに残っている勇気だとか、自分であることの意地だとかを濃い灰色に塗りつぶしてしまう。

 そうした後の雛子はまるで中が空洞になっている置物だった。移動されるも、放置されるも、たたき壊されるもされるがまま。そうした空虚ななか、泥沼の渦を這い出るように現実へと目覚めていく。ここのところ、毎日そんな夢を見ていた。

 やがて舞子が母を見送り終えて、上に上がって来る足音がした。楽しそうな声をあげて早口に何かしゃべっている。携帯電話だろう。

「うんうん、今ママ出てったからー。え? うそ? ホント? わかったすぐ行くから。西口集合ね」

 舞子は雛子の部屋にはやってこなかった。雛子の部屋よりも手前にある、階段に近い自室にもどるとなにやら慌ただしく出かける準備をして、さっさと出て行ってしまった。

 雛子が今この家にいるということを、全く忘れているかのようだった。

 舞子はボロが出るのを恐れているのか、根底では慎重な性格がそうさせるのか家に友人を呼んで雛子をいじめるということを、今まで全くしなかった。親がいるときは姉を愛するしっかり者の可愛い妹を演じ、いないときは隅にたまった埃でも見るような目つきで雛子を見た。見ないようにしているときもあった。

 

 父親は休日出勤、このところ会社が忙しくいつもそうらしい、で朝早く出たから、雛子は家にたった一人になった。雛子に声をかける家族は誰もいなかった。雛子も雛子でその方が気が楽だと思っていた。


 雛子は目覚まし時計の時を刻む音をじっと聞いていた。規則的に、確実に時を刻む音だった。外から主婦たちが挨拶を交わす声が聞こえる。車のエンジンの音、犬の「わん、わん」という鳴き声。

 この雛子の部屋という箱の中をおいてきぼりにして、確かに世の中は回っていた。


「舞子、たまにはおじいちゃんたちに顔合わせてよ。おじいちゃんもおばあちゃんも、舞子に会いたがってる」


 ふいに、さっき母親と舞子が交わしていた会話を思い出した。雛子の耳に布団のなかでもはっきりと聞き取れた部分だった。


「おじいちゃんも、おばあちゃんも、舞子に会いたがってる」


 外から子どもの笑い声が上がった。ボールをボン、と蹴りあげる音がした。

 雛子は唐突に死にたくなった。

 今まで自分というグラスに溜めてきた何かが、グラスの大きさをこえて、溢れてしまった。

 気付いたらカッターナイフを手にしていた。いつ布団から這い出たのか覚えていない。カッターを握る左手の感触だけがはっきりしていた。自分の白く生々しい手首にそれをあてる。

 これで死ねるんだろうか。

 雛子は特に何の感情もなくそう思った。死ぬ……。カッターナイフの感触以外、何も現実味がなくて、確かではなかった。電話が鳴っていることにも気付かなかった。続いて玄関の鍵を開ける音がして、ドアが慌ただしく開けられ、幸江が自室に飛びこんで来たときも、雛子は中身のない置物のように突っ立っていた。


 幸江は声にならないかすれた声で、背を向けて立っている雛子にこう言った。

「舞子が、事故に」


 舞子は即死だった。

 暴走したワゴン車に轢かれたのだった。

 幸江は家を出て駅に向かう途中、両親へのお土産として買い物をしていたため、舞子とほぼ同時に駅に着いていた。舞子は駅前で、事故に遭った。すぐに近くにいた幸江が駆けつけたが、誰がどう見ても舞子の生存は絶望的だった。


 幸江がしゃくりあげながら「だからあんたもすぐ病院へ」とか「はやく支度して」とか言う間、雛子はまだカッターナイフを握りしめていた。幸江はそのことに気がつかなかった。


 舞子が死んだ。

 雛子は母親と一緒に病院へ行き、すぐに父親も合流した。二人は最愛の娘の死に号泣していたが、雛子は突っ立ったままだった。「舞子が死んだ」その事実を、頭でわかっていても、心が理解しなかった。


 死のうとしていたわたしが生きて今ここに立っていてあんなに生き生きして電話していた舞子が死んで白い布を顔にかけられ横たわっている。


 通夜も葬儀も雛子にとっては淡々とした不思議なものだった。

 両親はお悔やみの言葉をかけるのを誰もが諦めるほどに憔悴しきっていて、こちらのほうがまるで死人のようだった。自慢の娘があっという間にいなくなったのだ。戻ってきてほしい、夢であってほしい、と願っているのは明らかだった。


 雛子は舞子の葬儀が終わると、舞子の部屋に初めて入った。舞子はいつも遠慮なしに雛子の部屋に入るのに、雛子は舞子と部屋が別々になってから、それはいじめがはじまったころからと同じ時期である、一度たりとも舞子の部屋を訪れたことは無かった。

 舞子の部屋はいい匂いがした。年頃の女の子らしい、清潔で、甘い匂い。カーテンからベッドシーツに布団、ドレッサーまですべて淡い青色に統一された部屋だった。

 雛子はドレッサーに座ると水色にラメのはいったブラシで髪を丁寧に、丁寧にとかした。それからクローゼットを開けて舞子の学校の制服を取り出し、それに着替えた。雛子の制服よりもスカートの丈が短く、膝頭が見えた。それにブランドのハイ、ソックスを合わせる。再びドレッサーに戻ると、舞子がいつも学校に付けていくヘアピンで前髪を留め、色のついたリップを付けた。長かった前髪をこうしてヘアピンで留めると、そこには舞子と瓜二つの顔がそこにあった。多少やつれて、色白く不健康な感じではあるが、雛子は手近にあったファンデーションを駆使して、なんとかした。

 

 そこに雛子の様子を心配した幸江が入って来た。目をはらして精気がなかった母親は、ドレッサーに座る我が子にあっけにとられた。現実と希望が一瞬だけ混同して、

「舞子?」

 と思わず口に出してしまった。

 振り向いた我が娘は「なに? ママ」としっかりした口調で答えた。

 まるで舞子のような、天使の笑みを浮かべて。

次で完結します。

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