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幸江

「おい、幸江、だいじょうぶか」

「え」

 意識がふいにもどってきて、はっとする。ガタゴトという機械的な音と、足裏に伝わってくる不規則な揺れ。

 電車の中だった。

「またぼうっとしていたぞ。無理もないと思うがな」

 隣に立つ夫は、労わるようにそう言いながらも、わたしの方を見てはいなかった。吊革につかまったまま、流れるような景色を映している窓ガラスを見つめているだけだ。まるでそこにこれからどうしたらいいかという問いの答えが書いてあるかのように。

「ごめんなさい」

 かすれる声でわたしは夫に言った。夫は何も返さない。無意味な言葉だ、とわたしは思った。謝ったって、なんにもならない。


 わたしが謝らなければならないのは、雛子なのだから。


 雛子、いや雛子だけじゃない、舞子もだ。わたしは二人の母親として、二人に謝らなければいけない。


 仕事が忙しいのは事実だった。しかも実家の母が三年前から体調を崩し、定期的に実家にも顔をださねばならなかった。

 けれどもそれらはいい訳にはなるまい。自分の娘たちが一体どんなふうに中学生活を送っているのか、わかっているつもりになっていた。それが真実だと思っていた。娘たちの言葉を鵜呑みにして、ささいな変化やサインに気付かなかった。ときどきおや、と思っても、たいしたことではないだろうと、軽く考えていたのだ。


 気がつかなかった。

 雛子が、学校でいじめられていたなんて。そのいじめに、舞子が積極的に加担していたなんて。


 舞子を事故で失って、雛子に変化が表れたのは分かっていた。だけどわたしは舞子を失ったことがあまりにも悲しくて、絶望の中に落とされたと言っても過言ではなく、またそこから這い出る意志も気力もそのときは微塵も無かった。思考が停止していた。

舞子は明るくて、なんでもすぐ出来てしまう子だった。自分の意見をしっかり言え、我が子ながら頼もしく思っていたほどだ。しっかり者の舞子、でも舞子は舞子で闇を抱えていた。舞子は学校での出来事や、遊びに行ったときのことなどの自分の話を、わたしが真剣に聞かずわかったふりをするので、空虚に似た気持ちを日々抱いていたのではないか。

 雛子が突然あんな風になって、わたしはなにがなにやらさっぱり分からずすっかり動転してしまい、なにか手掛かりがないかと、舞子の携帯電話のメールを見た。

 舞子は、学校で雛子をいじめて日々楽しんでいる、といった内容のメールを大量に、大勢の友達と交わしていた。その動機はわたしへの不満にあるということも読みとれた。


 自分が情けなくて、消えてしまいたかった。自分が今まで積み上げてきた母という誇りが、音を立てて崩れるようだった。ほんとうに耳鳴りがして、自分まで真っ暗な穴の中に崩れ落ちてゆくようだった。


「おい、着いたぞ」


 夫の声でまたしても我に返る。自宅の最寄り駅に着いた。電車が停車する瞬間、大きく揺れた。


「まったく、下手な運転だな」

 夫がわざと明るく言ったが、すぐにその明るい調子を引っ込めた。その下手な運転に舞子は殺されたのだ。

 わたしは今でも車に乗ることができない。舞子を轢いた「車」というものに乗ることができない。だから病院の行き帰りはこうして電車を利用する。夫も何も言わずに付き合ってくれる。

「あんまり自分を責めるな。子どものことを放っていたのは俺も同じだ。お前だけが悪いんじゃない」

 雛子がああなってしまってから、夫は繰り返しそう言ってくれる。素直にうれしく思う。


 けど、だけど、わたしがあのとき、雛子にああ言わなければ、雛子はもしかしたらこんな風にまでならなかったのかもしれない。そんな思いが、わたしの心臓をわしづかみにして、離さない。


 あのとき、舞子の部屋にいた雛子に向かって、「舞子?」とわたしが問わなければ。

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