第44章 ~イワン~
「はあ~あ、疲れたあ……」
午後12時頃。セルドレア学院の中庭、色とりどりの花が植えられた花壇の側のベンチに腰かけて、ロアは伸びをしていた。
終わった、ようやく終わった。今日のアスヴァン史の授業は異様に長かった気がする。疲れを感じていたものの、同時にロアは嬉しさも感じていた。
なぜなら、この昼休みが過ぎた後は待ち焦がれた剣術の授業だからだ。
購買で買ってきたハムとレタスのサンドイッチをかじっていると、喉が渇いてきた。
水分補給をしようと思ったその時、ロアは気付いた。飲み物を買い忘れていたことに。
(……仕方ないな)
ロアは立ち上がった。もう一度購買に戻るのは面倒だったが、それよりも今は水分を摂りたかった。
ジュースでも水でも、とりあえず喉を潤せられれば何でもいい。もう一度購買へ戻ろうと、ロアは歩き始める。
「ロアー!!」
後ろからの呼び声に足を止めて、ロアは振り向く。
彼を呼んだのはアルニカだった。オレンジ色の髪をたなびかせながら、彼女はロアへと走り寄って来る。アルニカは、両手に学院の校章が入った紙コップを持っていた。
ロアの側に来ると、アルニカは右手の紙コップをロアに差し出しながら、
「お疲れ、はいカフェラテ。私のおごり」
「ん、ありがと……」
少年に紙コップを手渡すと、アルニカはベンチに腰かける。
ロアも、彼女の隣に腰かける。アルニカは、
「購買でこのブラックコーヒー買ってたら、ヴルーム先生に呼び止められてね。ロアに伝えて欲しいことがあるって」
「伝えて欲しいこと?」
アルニカは「うん」と頷いて、
「今日の剣術の授業、槍術と合同だって」
「合同? 本当に?」
初耳だった。通常、授業が合同になったり教室が変更されるような事があれば、掲示板にでもその内容が掲示される筈だが、
アルニカによると、ヴルームが唐突に合同授業をすることに決めたらしい。
何で急に合同授業なんか? ロアは真っ先にそう思ったが、同時にある人物の名が浮かんだ。
それは、ロアもアルニカもよく知っている少女の名前。槍術と合同ということは、彼女と一緒に授業を受けることになるだろう。
「もしかしたらロア、リオちゃんと戦うことになるかもね」
そう。リオだ。
ロアやアルニカは剣術、リオは槍術。専攻している科目が違う為にこれまで剣を交え合う機会はなかったが、合同授業となれば話は別だ。
「いや、アルニカが戦うことになるかも知れないよ?」
「ん~、だとしたら私は勝てないかなあ、リオちゃん、強いらしいし……」
遅刻居眠り常習犯という不名誉な名で知れ渡っているリオだが、彼女の槍術の強さも同時に有名だった。
聞いたところによると、男子三人がかりでも彼女に敵わなかったらしい。
「まあ、リオは貴族の娘だから。きっと小さい頃から槍術の練習を積んできたんだろうし」
そう言うと、ロアは紙コップに口につけて、中の液体を口に含んだ。
「それにリオちゃん、なんたって『あの人』の妹だもんね」
アルニカはそう続けた。
「……ん?」
隣に座っていたロアが、その一文字を呟いた。
どうかした? そうアルニカが問いかけようとした瞬間だった。
「んぶぅっ!!」
まるでタコがスミを吹くかのごとく、ロアは数秒前に口に含んだブラックコーヒーを吹き出した。
そう、ブラックコーヒーを。アルニカはカフェラテと言っていたが、彼女がロアに渡した紙コップには、とてつもなく苦い液体が入っていた。
カフェラテだと信じて疑っていなかったロアは、無防備にも紙コップのおよそ半分程のブラックコーヒーを口に入れてしまった。
ロアは、超が付く程にブラックコーヒーが苦手なのだ。
「けほ、けほ、に、にが……!! これって、ブラック……!!」
瞳に涙を浮かべながら、ロアは口の中の苦い味を吐き出す。
「え!? あれ? あれ?」
驚いたのは、ロアよりもアルニカのほうだったかもしれない。いたずらを仕掛けたつもりはなかった。
ロアに渡したのは、確かにカフェラテ……と思っていた。
「あ!! ま、間違えた……」
アルニカは気づいた。カフェラテではなく、ブラックコーヒーの入った紙コップを渡していたことに。
カフェラテとブラックコーヒーならば色の違いで普通は気付く筈だが、話に気が傾いていた為か、ロアは気付かなかったようだ。
つまるところ、故意ではないにしても、ブラックコーヒーをカフェラテと偽ってロアに渡してしまった、アルニカのミスだ。
「アル二カ~っ!!」
口の中に充満しているブラックコーヒーの味にむせびながら、呻くような声でロアは言う。
「ご、ごめんロア!! 口直しにこっち飲んで!!」
アルニカがカフェラテの入ったコップを差し出す。ロアはそれをひったくるように受け取ると、甘口のカフェラテを一気に口へ流し込んだ。
そのカフェラテはとても甘かった。角砂糖三つ……いや、四つは入っていたかもしれない。ブラックコーヒーの苦い味を中和するには十分な甘さだった。
購買でこのカフェラテを買った時、ロアは苦い味が苦手だということを知っていたアルニカは、角砂糖を多めに入れてもらっていた。
「もう……僕の舌はアルニカのみたいに頑丈じゃないんだ。気を付けてよ」
「ははは……ごめんごめん。今度から気を付けるね」
ロアの使った「頑丈」、という表現は若干気になったものの、紙コップを渡し間違えたこちらに落ち度があったと思うので、アルニカは突っ込まないことにした。
「よお、元気だったか二人とも」
真後ろから聞こえてきたその声に、ロアとアルニカは同時に振り向いた。声の主の男は背が高く、長めに伸ばした髪を金色に染めている。
その胸元についた数本のペンダントが触れ合い、チャリチャリと音を立てている。そのペンダントといい金髪といい、男の見た目を一言で言い表せば、「チャラ男」だ。
「あ、イワンさん」
アルニカはそう返事をした。「イワン」、それが彼の名だ。
その容姿や背の高さから人によっては20歳以上に見えるかもしれないが、彼は18歳だ。
セルドレア学院の高等部三年生で、ロアやアルニカにとって彼は先輩的な立場にあたる。
イワンはリオの実兄、すなわち彼は貴族の御曹司なのだ。
リオ同様に、彼も肩に家紋の刺青があるが、左肩に刺青があるリオに対し、イワンは右肩に刺青がある。
彼は左利きだ。もしかしたら、そのことが関係しているのかもしれない。
「ロア、今日リオのやつはちゃんと遅刻しないで学校来たか? いくら叩いてもつついても踏んづけても起きねーからほっといて一人で来たんだよ」
イワンは、自分の妹がロアやアルニカと同じクラスということを知っていた。
「ちゃんと来てましたよ。遅刻寸前でしたけど」
今朝のことを思い出しながら、ロアはそう答えた。
「そうか、ありがとな」
と、イワンは返す。
……というか、叩いたりつついたりするのはわかる気がするが、踏んづけるというのはやりすぎではないか、とロアは思ったが、
そこまでされても起きないリオは、どれだけしぶといのだろうとも思った。
昼休みの終わりを示す鐘の音が鳴り響いた。
「んじゃ、午後の授業頑張れよ」
ロアとアルニカに手を振って、イワンは走り去って行った。
授業頑張れよ、そういうイワンも午後の授業はある筈だが、まるで他人事のような言い方。
「イワンさん、また授業サボるつもりかな?」
ロアはアルニカに問いかける。
「……多分。あの人大分面倒くさがりだから」
苦笑いを浮かべ、アルニカは答えた。
遅刻居眠り常習犯という異名を持つリオ。そして彼女の兄のイワンは、「サボり常習犯」という異名を持っていた。
聞いたところによると、出席日数ギリギリでどうにか高等部まで進級してきたらしい。
妹のリオと兄のイワン。貴族という極めて高貴な育ちの二人だが、兄妹揃って学院では問題児扱いされている。
しかしながら、リオと同じくイワンも嫌味がなく誰とでも分け隔てなく接する性格の持ち主で、学年や種族関係なく、友人は多い。
さらにこれもリオと同じく、イワンはその不名誉な異名よりもむしろ、剣術の強さで有名だった。
セルドレア学院の2000人の生徒達。剣術だけを見れば、イワンはその中で最も優秀な生徒だ。すなわち、学院の生徒達の中で一番強い。彼の強さは、「100年に一人の逸材」と呼ばれる程。恐らくは、ロアですら敵わないだろう。
普段の生活態度に難があるという共通点を持つ兄妹。
それと同時に、リオとイワンは「強い」という共通点も持っている。
「ロア、もうすぐ剣術の授業始まるよ? 行こう」
アルニカはロアに促してベンチから立ち上がり、歩き始めた。
ベンチの脇に置かれていたくず籠に紙コップを投げ入れて、アルニカに続く。