第32章 ~ダルネスの囁き~
煙にむせながら、岩の上でノイは下の様子を見つめていた。
先ほどまではルーノがダルネスを圧倒していたが、一体ダルネスに何をされたのだろうか、ルーノは地面にねじ伏せられている。
「(にいちゃん……!!)」
何があったのかはわからない。
ただ幼いノイにもはっきりと理解出来るのは、このままではルーノが危ないということだけだった。
「(どうにかしなきゃ……!!)」
ただ手を拱いて見ていることなど出来なかった。
ノイは出来るだけ音を立てないように、ぎこちなく岩の上から降り始める。
どこへ向かおうと言うのか、彼は洞窟の中から走り去っていった。
ルーノの頭の中には、未だに先ほどの音が響き続けていた。頭の中をかき回されているような感覚、さらに吐き気がする。視界が歪み、立つこともままらない。
「オマエ、まさか……マンドレイク玉を……」
地面に這いつくばりながら、ルーノは目の前に立っている男に言った。
マンドレイク玉とは、獣や獣人族の聴覚に強烈なダメージを与える程の周波数を持つ音を放つ玉。
本来は獣を威嚇し、追い払う為に用いる品だ。
「……フン」
ダルネスは鼻で笑う。ルーノに答えは返って来なかった。
答えの代わりに、ダルネスはルーノの腹部目がけて蹴りを放った。命のある者に対して向けられたとは思えない、無慈悲な蹴りだった。
「ごほッ!!」
腹部にダルネスのつま先がめり込む。
腹部から背部にまで突き抜けた痛み、呼吸が苦しくなった。咳き込みながら、ルーノは両腕を腹部へ当てようとする。
その瞬間、彼の頭が踏みつけられた。
「ぐッ!?」
未だに音が響いている頭を踏みつけられ、気を失いそうになる。
だが、ルーノはこらえた。ここで意識を失ってしまえば、自分は負ける。
それに、あの岩の上にいるノイの身も危うくなる。
「なあお前、獣人族の能力が時には仇になることもあるって知ってるか?」
ルーノの頭を踏んだまま、ダルネスが言った。
「何……だと……!?」
頭と耳、そして腹部の痛みを堪えながら、ルーノは絞り出すように言った。
「つまりはだ、今お前が置かれてる状況は、お前の能力の所為じゃねえか」
ダルネスが、ルーノを見下ろしながら言う。
獣人族は、人間が持っていない能力を持っている。兎型獣人族のルーノは、強靭な脚力と、優れた聴覚。
それらはとても便利だ。実際、ルーノはこれらの能力を駆使して、ノイの窮地を救った。
聴覚でノイの居所を突き止め、強靭な脚力を駆使してノイの元へ駆けつけた。
これらの能力がなければ、間に合うかどうか以前に、ノイの居場所を突き止めることすら出来なかっただろう。
それに、ルーノの能力は日常の中でも大いに役に立っている。
強靭な脚力のお蔭で梯子を上る手間など必要ないし、鋭敏な聴覚のお蔭で人の話を聞き逃すこともまず無い。
しかしながら、ダルネスの言う通り、時には獣人族の能力が弱点となることもある。
ルーノのような兎型獣人族は、鼓膜を開いた状態で大きな音を聞かされると耳や頭に多大なダメージを受けてしまうし、他に例を挙げれば、犬や狼の獣人族は刺激の強いにおいをかがされると鼻が潰されてしまう。
そう、獣人族は人間が持っていない能力を持っているが、同時に人間が持っていない弱点も持っているのだ。
「だから何だってんだ、このクソ野郎が」
ダルネスを睨みつけ、ルーノはそう吐き捨てる。
彼の態度が癇に障ったのだろうか、ダルネスはルーノの頭を踏みつけている足に一層の力を込める。
「うッ……!!」
ダルネスは、
「お前、今自分がどういう状況に置かれているのかわかってないのか?」
と、ルーノに向かって憎々しげに問いかける。
返事は返ってこなかった。代わりに、ルーノが呻く声が返ってきた。
「まあつっても、お前はなかなか頑張ったと思うぜ? なんせ俺の手下を二人も叩きのめしたんだからな」
ルーノの返事を待たず、ダルネスは続ける。
「けどよ、一つわからねえことがある」
「……?」
ダルネスの言葉に、ルーノは視線をダルネスの方へと向ける。
「それだけの力を持っているのに、何でお前はあんなガキのお守なんかしてんだ?」
ルーノには理解が出来ない、意味不明な言葉だった。
「ああ……?」
痛みに耐え絞り出すように声を出し、ルーノは返事を返す。
「一体何言ってんだ、オマエ……」
「(やはり分かってないようだな)」
ダルネスは心の中で呟き、大きなため息を漏らす。
「わかんねえか、それだけの力があれば何だって思いのままなんだぜ?」
ルーノの頭を踏む足の力を弱めつつ、ダルネスは、
「この村には俺に敵う奴どころか、逆らおうとする奴すらいねえ。だから金も物も好きな時に欲しいだけ手に入る」
アルカドール王国で何年も剣術を学んできたダルネスは、それなりに剣術の腕が立つ。
そのダルネスの剣の腕の前では、ルナフ村の人々は無力だった。
ルナフ村の人々の中に、剣術でダルネスに敵う者は誰一人としていなかったのだ。
誰もがダルネスを恐れ、彼に畏怖の念を抱いていた。
そしていつしか、ダルネスに挑みかかる者はおろか、彼に逆らおうとする者すらも、ここ数年は現れなかった。
この洞窟に一人で乗り込んで来たノイと、そして今目の前にいる青い兎型獣人族の少年、ルーノを除いて。
「なあお前、俺と手を組まないか?」
ダルネスはルーノにそう言った。
目の前で倒れ伏している獣人族の少年は、自分と互角に渡り合える程の強さを持っている。
殺すよりも、仲間にしたほうが自分には有益だ。ダルネスはそう考えた。
「どうだ、お前にとっても別に悪い話じゃないだろ?」
ダルネスは姿勢を低くして、踏みつけられて砂だらけになったルーノの顔を覗き込む。
「あんなガキのお守をしているより、よっぽどおいしいと思うぜ?」
ダルネスの顔を見て、ルーノは思った。
この男は、今まで自分の力を奮い、逆らう者だけでなく、気に入らない者も例外なくねじ伏せて来たのだろう。
そう考えると、ルーノには思うところがあった。
「……」
何も言わず、彼はただダルネスの目を見る。
《ひ弱な人間のクセに、オレをイラつかせるんじゃねえ!!》
ルーノの頭の中に、その怒鳴り声が過る。
それは何年も前、まだ幼かったルーノが学校で同級生の人間に向かって放った言葉だ。
「……ダルネス」
暫く口を開かなかったルーノが、ダルネスに向かって口を開いた。
ルーノは、
「オマエ……友達いなかっただろ?」
同刻、ノイはルナフ村の中を走っていた。
息を切らせながら彼が向かっているのは、自分の家。
ノイは勢いよく家の扉を開いた。
「!? ノイ……!?」
その音に驚き、ライラは振り向く。視線の先には、弟のノイがいた。
「あんた、一体今までどこに……!!」
「大変なんだ!! ねえちゃん!!」
ライラの言葉を遮って、ノイは怒鳴った。
「にいちゃんが、あの獣人族のにいちゃんが……!! このままだと、死んじゃう……!!」
「何だって……!?」ライラはそう返す。
ノイは確かに、「このままだと死んじゃう」と言った。
ライラはノイに駆け寄り、彼の両肩を掴む。
「まず落ち着けノイ!! いいか、何があったのかあたしに話すんだ」