第156章 ~進み行く~
再び、緑色の光の中に踏み入る一歩手前で、ルーノは足を止めた。
彼の後ろに立つロアからは、ルーノの表情は見えない。しかし、ルーノがどんな気持ちでいるのかは容易に想像がつく。
躊躇わない訳がない。見る分には美しいけれど、この光はルーノにとって毒と同じ。下手に吸い込めば彼の肺を壊し、命を奪い去る凶器なのだ。
もしかしたら、『やっぱり引き返す』という言葉が兎型獣人族の少年の口から発せられるかもと思った。実際その方がロアにとってもいい、友人であるルーノを命の危険に晒すなど、絶対に避けたい道なのだから。
何だかんだ言いつつも、きっとリオも同じ考えを抱いているに違いなかった。
しかし、ルーノは言った。
「よし、行こうぜ。こっからオレは喋らない、身振りで意思を伝えるからな」
ロアの予想通り、彼はやはり自分の答えを曲げようとはしなかった。
昔から、ルーノはある種の頑固さを持っていた。口は悪く素直じゃないが、根は真っすぐで良い奴、そして何だかんだ言って友達想い――ロアから見て、ルーノはそんな少年だった。
こんな最中においても、それは変わらなかったのだ。
ロアは頷き、
「ルーノ、何かあったらすぐ教えてよ、喋れないなら……そうだ、手を叩いて音を鳴らすとかでね」
これからルーノは息を止めていなければならない、そこで言葉に代わるやり取りの手段を提示する。
「ああ、分かったよ」
ルーノはすうっ、と大きく息を吸い込んだ。青い毛並みに覆われた彼のお腹が膨れる。
そして左手で栓をするように口を押え、右手に剣を持った。このネヴルムの洞窟には魔物が住むという話を聞いた、戦闘態勢を整えて然るべきだろう。
振り返ると、ルーノは口を押えたままロアを見て頷く。
――行くぞ。言葉には出さなくとも、ルーノがそう告げたのが分かった。
返事も待たず、兎型獣人族の少年は歩を進め初め、光の中へと踏み入った。ロアもその背中に続く。
「あ、ちょっと!」
慌てた様子で、リオも追ってくる。
光の中に踏み入っても、ルーノが心身に異常を来たす様子は特に見受けられなかった。息を止めている為喋る事は出来ないものの、先程のように苦しみだしたりする様子は無い。
この緑色の光――エドラムの胞子を吸い込みさえしなければ問題ない、というのは本当のようだった。
きょろきょろと辺りを見回しつつ、リオが言った。
「この胞子、本当にあたしたち人間には害は無いんだね……」
薄々、ロアも考えていた事ではあった。獣人族であるルーノは、この胞子を少し吸っただけでも苦しみ、倒れ込んだ。獣人族の体は、人間よりも遥かに強靭で頑丈だと聞いた事がある。その獣人族を卒倒させる程の毒性を備えた胞子なのに、人間には何の害も成さないというのはどこか腑に落ちない話だった。
しかしロアもリオも、心身に何の異常も来たしてはいなかった。この胞子が作用するのは、獣人族の肺のみ。どうやら本当のようだ。
ロアはふと、
「ルーノ、大丈夫?」
先を歩くルーノに声を掛けてみる。
息を止めてから数分経ったが、振り返った彼の表情には特に変わった様子はない。小さく頷いたと思ったら、ルーノは口を塞ぐ手を一旦離し、サムズアップを見せてくる。
ロアの隣を歩くリオが、安堵したように言う。
「とりあえず、平気みたいだね」
そう言いつつも、彼女は両手でしっかりと槍を握っている。
この槍がリオの武器、剣よりも遥かに長いリーチを備える分取り回しが難しいが、その難点を補うだけの技量をリオは持ち合わせている。
重ねて、ロアはルーノに問う。
「息は続くのか?」
ルーノは今度は、2本の指で輪を作って見せた。
少なく見積もっても3分程は経過しているが、彼が息苦しいような素振りを見せる様子は無かった。もしかしたら獣人族であるが故、人間よりも優れた肺活量を備えているのかもしれない。
道が続いている方向を、ルーノは指さす。
「『早く行こうぜ』って?」
ルーノが伝えたがっている意思を、ロアは挙げてみる。
するとルーノはこくりこくりと頷いた。身振り手振りが口ほどに物を言う、というのはこの事か。
「分かった、進もう」
そうして、ロア達は出来うる限り急いで、かつ慎重に洞窟の中を進み続けた。
道中で見た事もない生物を見かけたりもしたが襲ってくるような事もなく、道に迷ったりもせずに特に問題はなかった。最大の問題だったあのエドラムの胞子さえ、無害な存在と認識すれば幻想的で美しく思えた。
そしてふとルーノが立ち止まり、洞窟のどこかを指さした。
「ん?」
ロアが彼が指さす先を視線で追うと、洞窟の壁の一部分が砕けて穴が開き、外からの光が差し込んでいた。風に煽られるように、その周辺では胞子が吹き散らされているのが分かる。
ルーノがそこへ走っていき、思い切り息を吸い込んだ。そして洞窟に入ってから初めて、彼が声を発する。
「ふー……」
この洞窟に入る前、ルーノが言っていた外からの空気が流れ込んでいる場所とは、これの事なのだろう。
ルーノの話では他にもこういった場所が洞窟内に点在しており、彼にとっては息継ぎポイントとなる。
新鮮な空気を堪能した後、
「行こうぜ、まだ半分も進んでない。先は長そうだ」
兎型獣人族の少年は、休もうともせずにそう促した。
どうして、来た事もない洞窟の地形が分かるのか、とロアは思った。きっとその優れた聴力で、空間把握まで出来るのだろう。
ルーノの身を案じて、ロアは言う。
「休まなくていいの?」
ルーノはまた澄んだ空気を吸い、
「こっからも息継ぎ出来る場所は何か所もある。それに分かっただろ、オレ達獣人族は人間よりも長く息を止めていられるのさ」
獣人族にはそんな特徴もあったのか、とロアは思った。
リオが言う。
「でも、少しくらいは休んだ方がいいんじゃないの?」
純粋に、ルーノの身を案じて言った言葉だった。
「そんな暇ねえよ。さ、行こうぜ」
そう言うと彼はまた思い切り息を吸い、左手で口を塞いだ。
迷う事もなく、再びエドラムの胞子が舞う洞窟内に歩を進め始める。
その後も同じようにして息を継ぎつつ、ロア達は洞窟の中を進み続けた。ルーノが倒れる事も何かに襲われる事もなく、特にこれといった問題はなかった。
(危険な気配は、特に感じない……)
周囲に気を配りながら、ロアは思う。
安心感から、剣を握る手の力が弱まりつつあった。
しかし、状況が一変するのはそれから間もなくの事だった。