第154章 ~胞子の舞う洞窟~
「うっ……」
不鮮明ながら、アルニかは意識を取り戻しつつあった。
身動きしてみて、自分が地面の上に寝そべっている事に気が付く。土や木の枝や、落ち葉が指先に触れるのが分かる。
どうして、こんな所に……そう思った時だった。化け物の鳴き声が、アルニカの鼓膜を揺らしたのだ。
(ひっ……!?)
眠気が取り払われるかのように、意識が回復する。
そしてアルニカは思い出した。そう、彼女はヴァロアスタでの戦いの際に、魔物に連れ去られたのだ。今彼女の側には、あの恐ろしい魔物が居るのだ。
アルニカはとっさに息を殺し、自分が意識を取り戻した事を悟られないようにした。もしも気付かれれば、大変な事になるかも知れなかったからだ。
(そうだ、武器は……)
ふと、アルニカは自分の両腰を調べてみる。そこには彼女の武器、二本一対で扱うツインダガーが革製の鞘に納められている筈だった。
右腰の鞘には、ダガーは間違いなく収められていた。
――しかし、左腰に収められている筈のダガーは、無い。
(そうだった、あの時……)
アルニカは、先程の出来事を思い返す。そう、塔の崩落に巻き込まれる際に彼女は片方のダガーを落とし、紛失していたのだ。。
一本だけでもダガーが残っていた為、丸腰になる事は免れた。しかし二本無ければ、アルニカには本来の実力を発揮出来る自信は無い。彼女が駆使する剣術は、二本のダガーがあってこそ使える技なのだから。
地面に寝そべったまま、アルニカは考えを巡らせる。
逃げる事も考えたが、早々に断念した。自身の足で魔物から逃げ切る自信は無かったし、本来の実力を発揮出来ないと分かっていて戦うのは無謀過ぎる。
意識を取り戻した事を悟られないよう、息を殺す事……今の所、アルニカにはそれ以外に、打つ手は浮かばない。
(どうすれば……)
ふと周囲を見渡してみると、どこかの森の中のようだった。鬱蒼と生い茂った木々に、湖が視界に入り……そして、その魔物も居た。
真っ黒な体色に、ミミズを何倍にも膨張させたような首を持つ不気味な化け物、ガジュロス。状況的に、あの魔物によって連れ去られたと考えるのが妥当な所だった。
どうやら水分を補給しているらしく、ガジュロスは鳴き声を上げながら、何度も叩きつけるようにその首を湖に入れていた。魔物でも水は必要なんだな、アルニカはそう思った。
(とにかく今は、チャンスを待つ事くらいしか……)
考えてみれば、ガジュロスがアルニカを連れ去ったという事実には疑問が浮かぶ。
魔物は魔族が使役する生き物、魔族同様に敵を殺害する事しかしない筈なのだ。しかし、あのガジュロスはアルニカを捕縛し、連れ去った。
少なくとも、即座にアルニカを殺害する事を目的としてはいないらしい。もしかしたら、捕虜にする為に幾人かの人間を捕らえるよう命令されていたのかも知れなかった。
気を失ったふりを続けていれば、少なくとも殺される事は無い……確証には乏しいが、アルニカはそう結論付ける。
直後、水分補給を終えたガジュロスがアルニカの方へと歩み寄って来て、アルニカはまた身を伏せ、気絶を装った。
「ん、あれは……?」
特に何の問題も無くネヴルムの洞窟を進み続ける事数分程、ロアはふと前方に見慣れない光景を目にした。
ルーノとリオもそれに気付いたらしく、ロア同様に疑問の声を上げる。
先んじたのはルーノだ。
「なんだありゃ、緑色の光……?」
ロア達が向かう先には、蛇行するように曲がった道があった。その先から緑色の光が漏れ出て、その周囲をぼんやりと照らし出していたのだ。
炎の明かりではない、ならば魔法か何かによる光だろうか。一体何の光なのか、想像も付かなかった。
リオが炎を灯した槍を掲げながら、問うてくる。
「何かの罠かも……ロア、どうする?」
判断を委ねられたロアは、逡巡する。
もしかしたらリオの言う通り、あの光の先には何者かの罠が仕掛けられているのかも知れない。恐ろしい魔物でも巣食っていて、ロア達が罠に嵌るのを今か今かと待ち続けているのかも知れないのだ。
しかし、ロアの答えは決まっていた。
「行こう、引き返している時間は無い」
ルーノとリオにそう告げつつ、ロアは剣を抜いた。
彼がそう答えを出すのを予期していたかのように、ルーノは続ける。
「それしかねえよな、アルニカを助けるためだ」
ロアと同様に、ルーノも剣を抜いた。
危険だという事は重々承知している。それでも、アルニカを救う事の方が大事だった。その為にはこの先に何があろうと、突き進む以外に無い。
ただし、十分に警戒した上で進むつもりだった。
リオも頷き、ロアの決定に同意する。
「分かった、それじゃ決まりだね」
謎の光の方へ、ロア達は歩み始める。
蛇行する道を進んでいくごとに光は強くなっていき、それこそが光の源へと近付いている事の証明だった。
この先に何があるのか、何が待ち受けているのか。気付けば、剣を握るロアの手に力が籠っていた。
ルーノもいつでも剣を振れるよう身構え、そしてリオもすぐさま突きを繰り出せる体制に入っているのが分かる。
リオが呟いた。
「んっ……眩しい」
そして、蛇行する道が途切れ――ロア達は、光の向こうへと足を踏み入れた。
そこには、想像を超える光景が広がっていた。
「これは……?」
ロアは思わず、剣を下ろしていた。
蛇のように曲がりくねった道を抜けた先、そこには天井の高い場所があった。岩肌が剥き出しになっていたのはこれまでと同様だが、圧迫感や閉塞感はまるで感じない。
そして何よりも、これまでと一線を画していたのが……見上げる程の洞窟内全体が、淡い緑色の光に包まれていた事だった。明かりがなければ進む事もままならなかったが、この場所は明かりなど必要無い。
心奪われたように、リオが呟いた。
「わ、何ここ……すごくきれい」
ロアも、同じ感想だった。洞窟内の隅々までを照らし出す緑色の光は、本当に美しかったのだ。
しかし、この光の正体は一体何なのか。
その時だった。ガシャン、という耳障りな金属音が、ロアのすぐ側から発せられた。
驚いて音の方を振り向く。ルーノが剣を落とし、その両手で胸を押さえていたのだ。彼の両目は見開かれていて、口からは「っ、ぐっ……!」という苦し気な声が発せられていた。
驚いたロアは、ルーノに駆け寄る。
「ルーノ、どうした!?」
ルーノは突然踵を返し、来た道を引き返した。
そして彼は地面に倒れこみ、咳き込む。
「げほっ、ごほっ……!」
リオも、ルーノに駆け寄って来る。
「ちょ、ちょっとどうしたの!? ここに入った途端いきなり……!」
何度か咳をした後で、ルーノはロアともリオとも視線を合わせないまま言った。
「うっ、けほっ……分からねえ、ここに入った途端、急に胸が苦しくなったんだ……!」
ロアが助け起こすと、ルーノはゆっくりと立ち上がった。
以前咳き込みつつ、彼は問うてくる。
「ロア、リオ……オマエらは何ともないのか? 何でオレだけが……」
ルーノと違い、ロアとリオはこの緑の光で満たされた場所に足を踏み入れても、何ら異常は無かった。
どうしてルーノだけが、体調に異常を来したのか。もしや緑の光とは無関係に、偶然にルーノが体調を崩しただけなのかとも思ったが、それにしては偶然が過ぎるだろう。
この緑の光、恐らく何かがある。リオも同じ事を考えたのか、彼女は再度緑の光で満たされた場所へと踏み入る。やはり彼女は、変わらず健常だった。
リオはすくい取るように、緑の光の中に手の平を泳がせる。そして彼女は何か思い当たったように、顔を上げた。
「もしかしてこれ、エドラムの胞子じゃない?」
聞きなれない言葉がリオの口から発せられて、ルーノは眉間にしわを寄せながら答えた。
「エドラム……? 何だそりゃ」
するとリオは、答える。
「洞窟に生えてる光苔の一種だよ、緑色に発光する胞子を無数に飛ばすんだけど、その胞子は有毒で、吸い込むと肺を傷付けるんだって」
すらすらと説明するリオ。貴族の娘故か、意外にも博識なようだ。
しかしロアは、直ぐにある矛盾点に気が付く。どうやらルーノも気付いたらしく、
「ちょっと待てよ、それが本当なら何でオマエらは平気なんだ? どうしてオレだけ……!」
確かにルーノの言う通り、胞子の光の中に立ち入って苦しみだしたのはルーノだけ、ロアとアルニカの体調には何ら変化が無い。
なぜなのか。ルーノにあって、ロアとリオには無い物……ロアにはふと、思い至るものがあった。
ロアが、もしかして、と口に出そうとした時。リオはルーノの言葉を遮るように言った。
「獣人族だけなの」
彼女は話の主導権を握ったように、続けた。
「この胞子が作用するのは、獣人族の肺だけなの。あたし達人間と獣人族では、体の構造とかも色々違うから……」
ロアの予感は当たっていたらしい。
胞子が効くルーノと、効かないロアとリオ。その違いは何かと問われれば、真っ先に挙がるのは種族だ。ルーノは獣人族で、ロアとリオは人間。胞子の影響を受けるか否かの鍵は、やはりそこに存在したらしい。
ルーノが、リオに問うた。
「どうなるってんだ、その胞子とやらを吸い続けたら……」
リオは言いたく無さそうに、眉間にしわを寄せた。
しかし、最終的には答える。
「肺が使い物にならなくなって……死んじゃうよ」
それを聞いたロアの答えは、決まっていた。
「ルーノ、リオ」
二人がロアに視線を向ける。ロアは返事を待たずに、続けた。
「この先には行けない。引き返そう」