第146章 ~終局の一撃~
その瞬間、周囲の空気が重く、そして冷たくなった。
風が肌に触れる、それだけでも痛みを感じる。魔族の力はこれ程の物だったか――モロクは前方のゴライアを見つめながら、そんな疑問を抱いた。
ゴライアの雰囲気が禍々しさを帯びていく。言いようのない危険を感じ、モロクは僅かたりとも恐怖を覚えた。
「どうした老いぼれ……来ないならば、こちらから行くぞ!!」
ゴライアが地面を蹴った、それを確認した次の瞬間には、彼は既にモロクの眼前に居た。
(速い……!!)
モロクは、驚きを隠せない。
先程までとは比べ物にならない速さで迫って来たゴライア、その拳が自身に向けて突き出されたのを、モロクは目で追う事すら出来なかった。
「ぐッ……!!」
腹部を貫く衝撃に、モロクは思わず体を折り曲げる。苦い液体が口の中に充満し、痛みに思考を奪われそうになる。だが気を抜く事は許されなかった。ゴライアがさらに接近し、続けざまに攻撃を仕掛ける体制に入っているからだ。
これ以上喰らえば、戦闘不能の状態になる事は免れない。モロクは太い両腕を目の前で交差させ、防御を固める。
「無駄だ!!」
モロクが自分の攻撃を防ぎ続ける選択肢を選んだ事を、ゴリラ型獣人族の男は察したに違いなかった。
最初の一発よりも遥かに威力が込められた、そして素早い攻撃がモロクの腕を打つ。
「ッ……!!」
一発、二発、三発、四発……ゴライアが魔族の力を発揮する以前とは比べようのない攻撃が、モロクを打ち続ける。だがモロクはひたすらに防御を固め、耐え続ける。
「抵抗の一つもしねえとは観念したか、老いぼれ!!」
ゴライアの言葉には、自らの勝利を宣告しているという意味も含まれているように思えた。
もう何発喰らったのかも分からなくなり、モロクは自身の両腕にかなりのダメージが入っている事を感じていた。既に痛いという段階は超えており、徐々に感覚が薄れつつある。
しかし、モロクは諦めていなかった。
(ワシの記憶通りなら、そう遠くない内に……)
ある事が、モロクの脳裏に引っ掛かっていたのだ。
それは60年以上もの間生き、そしてアスヴァン大戦に参戦し、魔族と戦い抜いた経験を持つ彼だからこそ見出す事の出来る、『機会』だ。
彼の読みが正しければ、必ずその時は訪れる筈なのだ。しかし、もしもそれが間違いだったら、モロクの思惑が外れていたら、恐らく彼はここで終わりだろう。ゴライアによって討ち滅ぼされる、その結末以外に、モロクの行き先は存在しない。
だがモロクの目は確かに、希望を見出していた。
「何だ、その目は……何が可笑しい!?」
ゴライアの言葉で、モロクは自分が無意識に微笑んでいた事に気付いた。このような最中で何故笑っているのか、自分自身でも分からない。
分からなかったが、ほんの数秒考えただけで見当はついた。
「……ああ、可笑しいとも」
ゴライアの攻撃を受け続けたモロクの両腕は痣だらけで、傍目には非常に痛々しい事になっているに違いなかった。しかし当人は気にする様子も無く、口元に笑みを浮かべてすらいる。
「魔族の力に溺れ、そんな物に頼らねば戦えもしない……勝利を確信している目の前の大馬鹿者がな!!」
その言葉で、モロクはゴライアの全てを否定した。
強さも、自信も、何もかも全ては魔族の力があってこその物なのだと。魔族の力に屈し、魅せられたゴライアは何者にも及ばない弱者であり、臆病者であり、愚か者なのだと言い放ったのだ。
ゴライアが、爆発した。
「貴様……殺す!!」
姿勢を低め、ゴライアが弾丸の如き速度で突進してくる。次の一撃で、この戦いを終わらせる気でいるに違いなかった。これまでで最も重く、強い一撃が繰り出される。モロクの両腕はもう、攻撃を受けられる状態では無かった。
(くっ……!!)
これ以上受ければ、もう防ぎようが無い。それでもモロクは余力を絞り、防御を固める。そんな事が何の意味も成さない事は、誰に言われる必要も無くモロク自身が分かっている。それでも、何もせずただ倒されるという選択肢は存在しなかった。
そして、終わりを齎す拳がモロクに向けられる。
その瞬間だった、全く想定外の事が、起きたのだ。
「ぐっ……!?」
突如、ゴライアは拳をモロクの寸前で止めた。
モロクは異変に目を細める。次の瞬間、ゴライアが胸を押さえ、地面に膝を崩した。
「がッ……何だ、どういう事だ!? 力が……!!」
両目を見開き、搾り出すかのように発せられる言葉。そこには苦悶の色が滲んでいて、尋常ならざる様子だった。 圧倒的優勢な立場に居たモロクが、苦しんでいるのだ。それもモロクの行為による物でも無く、突然として。
ゴライアの身に、一体何が起きたのか。モロクは既に確信めいた答えを導き出していた。
「『代償』だ。魔族の力は確かに強大だが……同時に多大な負担を強いる」
「何だと……!?」
憎悪と執念の瞳に睨まれながら、モロクは続けた。
「魔族の力を使いこなせるのは魔族だけ、他の種族がおいそれと手を出すべき代物ではないという事だ。分かりやすく言えば……『諸刃の剣』だ」
もう何十年も前、モロクがアスヴァン大戦に参戦した時、彼は幾人も目にした。魔族の力に頼って多大な力を得たものの、反作用によって命を落とした、無数の人間や獣人族達の姿を。
苦しみぬいて息絶えた者、狂乱に陥って自害した者、それらは例外なく、『酷い』としか言いようのない死に様だった。敵対する立場にあるとはいえ、思わず同情の念が芽生えてしまう程だったのだ。
「少しは変わったかと思うていたが、どうやら奴らはやり方を変えるつもりは無いと見える。魔族にとって、他種族など所詮下等種族、使い捨ての道具か……」
眼前で苦しむゴライアを見つめながら、モロクは口にする。
頭の中には、魔族の力に手を染めて破滅の道を歩んだ者達の事が浮かんでいた。そう、誰もがモロクよりも若い者ばかりだったのだ。もしかしたら、魔族に下る事を自分で選んだわけではなく、強制されていたのかもしれない。
目の前のこの男も、そうなのか。
「降参しろ、命までは奪わぬ」
もしかしたら、まだ助かるかも知れない。そう思って発した言葉だった。
だが、逆効果だったらしい。
「寝ぼけるのも大概にしろ……糞ジジイ!!」
無理矢理に体を従わせるようにして、ゴライアはなおも襲いかかってきた。
どんな言葉をかけても無駄だと、判断せざるをえない。ならば、モロクのとるべき方法は一つだった。
「……そうか」
諦め、そして決断の言葉を発し、モロクは一旦目を閉じ、そして開いた。その眼差しには、既に慈悲の色は無かった。
次の瞬間、モロクの太い腕が、ゴライアの腹部を突き上げる。
「がはッ……!!」
地響きを発生させる程の衝撃が、辺り一帯に広がる。
「ヌシは、三つの過ちを犯した……!!」
モロクは拳を引き、次の攻撃の構えをとった。
彼の次の言葉と同時に、再び彼の拳がゴライアの腹部に突き入れられる。
「一つ目は、魔族の力に頼った事……!!」
ゴライアが反撃に、大振りのパンチを繰り出す。だが、構えもなってない一撃は、モロクにとって容易に回避する事が可能であり、攻撃とすら言えなかった。
そのままモロクは、追撃を浴びせた。
「二つ目は、ワシの警告を無下にした事」
ゴライアの胸を捉えた一撃が、男の巨体を大きく後退させる。モロクは即座に間合いを詰めた。
「そして三つ目……!!」
まずは右から、ゴライアの顔面めがけてモロクの拳が振り抜かれる。
「喧嘩を」
次は、左から。
「売る相手は……!!」
そして最後は、下から。
「慎重に……選べ!!」
モロクの全身の力を込めたアッパーカットが、ゴライアの顎を直撃した。
「ぐあああああああッ……!!」
苦悶の声を発しながら、ゴライアの巨体が宙に浮いた。そして、背中から地面に打ち付けられる。
白目を剥き、脱力するゴライア。状態を確認する必要など、僅かも無かった。