第105章 ~窮地~
「くっ……!!」
ジェドに側頭部を踏みつけられ、地面に押し付けられつつも、リオは逆転の手口を探っていた。
視線を自由に動かせない状態ながら、彼女は気付く。
自身の手の先に、先程落としてしまった槍が落ちている事に。
(少しでも触れれば……!!)
頭の痛みに耐えつつ、ジェドに悟られぬようにリオは手を伸ばす。
彼女の炎の魔法は、槍が無ければ使えないのだ。
だが、逆に言えば少しでも槍に触れれば使う事が出来る。
指一本でも槍に触れていれば、槍から炎を発し、この状況を打開する事が出来る――彼女はそう考えた。
徐々にリオの手が槍に近づき、彼女の指が槍の柄に触れようとした瞬間。
「ああッ!!」
痛々しい声が、リオの口から発せられた。
リオの側頭部を踏みつけている足、そしてもう片方の足で、ジェドがリオの手を踏みつけたのだ。
ジェドの靴の踵がリオの手の甲にめり込み、骨が軋むような音を立てた。
「虫ケラが、ジタバタするな……!!」
片足でリオの側頭部を踏みつけ、もう片方の足で彼女の手の甲を踏みつけるジェド。
全く以て、容赦の気持ちは無かった。
本人の言うように、本当にリオを虫ケラのようにしか思っていないかのようだ。
そして、まるで虫ケラを踏み潰すかのように――ジェドは、リオの片手を足裏で踏み躙り続ける。
「い、痛いッ!!」
再び、リオは痛々しい声を発する。
表情をしかめつつも、リオはジェドの顔を見上げた。
(女に向かって平気でこんな事出来るなんて……こいつ、どんな育ち方してきたっての……!?)
ジェドは冷酷な瞳でリオを見下ろしつつ、鎖鎌を鳴らす。
抵抗できないように、彼はリオの側頭部を踏みつける足に力を込めていく。
「うっ……!!」
鎖鎌少年の足と地面に頭を挟まれ、リオに成す術は無かった。
ジェドの靴裏から落ちた砂粒が、ショートヘア少女の顔にかかる。
「痛いか、だったら……今楽にしてやる」
リオが槍に手を伸ばした際に一度降ろした鎖鎌を、ジェドは再び振り上げた。
鎌の柄尻と鉄球を繋ぐ鎖が、ジャラジャラと耳障りな音を鳴らす。
(く……ヤバい……!!)
そして、リオの頭に向けて刃が振り下ろされた。
持ち主のジェドと同じく、凶悪で冷酷な雰囲気を思わせる凶器――まるで悪魔が持つような、鎖鎌の刃が。
「!!」
リオは固く目を瞑り、視線を逸らす。
夜闇の静寂の中、ジェドが振り下ろした鎌が風を切り裂く音が響く。
一瞬の後――。
「っ!?」
耳に響く程の大きな音が、リオの頭上から発せられた。
彼女には分かる、これは――金属同士が激しく打ち付け合う音。
剣と剣が、正面からぶつかり合う音に似ていた。
ジェドに頭を踏まれつつも、リオは視線を上に向ける。
「……!!」
夜闇の静寂が中庭を包む中、そこには居た。
ジェドの振り下ろした鎖鎌を剣で受け止め、リオを守った者。
空色の毛並を持つ、犬型獣人族の男性が。
「せ、先生……!!」
アルカドール王国騎士団副団長、ヴルームだった。
ジェドの鎖鎌を受けつつ、彼はリオに、
「深追いをするなと言っただろう、本当に死ぬことになるぞ」
ヴルームは、ジェドに向く。
鎖鎌少年の冷酷な瞳が、犬型獣人族の男性を映した。
「ここからは、俺が相手だ」
そう宣言すると、ヴルームは全身の力を込め、ジェドを押し出す。
リオの側頭部と彼女の手の甲を踏み躙っていた足が動き、リオから離れた。
「っ!!」
ようやくリオに自由が戻る。
彼女は立ち上がり、側頭部に手を当てようとして、手が鋭い痛みを放つのを感じた。
ジェドに踏み躙られていた手の甲は、血が滲んでいた。
「ありがとう先生、助けてくれて」
リオはポケットから包帯を取出し、手の甲へ巻き付ける。
特別な薬草を煎じた液体を染み込ませた包帯で、エンダルティオの携行品の一つだ。
かすり傷程度の怪我ならば、数分で消毒・治癒する事が可能である。
「リオ、お前はユリス様の警護に戻れ」
「え?」
ヴルームは、ジェドに視線を向ける。
ジェドもまた、ヴルームを見つめ返した。
「こいつの相手はお前には荷が重すぎる。何よりも、ユリス様の側に誰も居ない状況はまずい」
まるで、ジェドの力量を察知したかのような言葉が、リオには気になった。
「どうしてあの包帯男が強いって……?」
ジェドが巻いている口布に準えて、リオは鎖鎌少年を「包帯男」という呼称で呼ぶ。
厳密には包帯では無く口布なのだが、ヴルームは咎めなかった。
「雰囲気で分かる、あの鎖鎌の餓鬼が発している殺気……生半可な物じゃない」
犬型獣人族の男性は、剣を構え直した。
銀色の輝きを持つヴルームの剣、柄尻の部分には青い球状の魔石がはめ込まれている。
「俺の長年の癇が言ってるんだ、あの餓鬼は危険だとな」
ヴルームの向かいに立つジェドが、鎖鎌を握り直した。
どうやら彼は、これ以上リオとヴルームに言葉を交わす猶予を与えるつもりは無いらしい。
「とにかく、こいつの相手は俺に任せろ、早く行け!!」
「……分かった、お願い先生!!」
リオは自身の槍を拾い上げて、先程飛び出してきた窓の方へ走り去って行った。
それを横目で確認し、ヴルームはジェドに向き直る。
「何処の誰だかは知らないが、俺の教え子を痛め付けてくれた礼はさせてもらう」
眼前に立つ冷酷な瞳を持つ少年に向け、ヴルームは言葉を紡ぐ。
中庭に吹く風が、彼の空色の毛並を緩やかに靡かせていた。
「レーデアル・エルダ……」
呟くように、ヴルームは呪文を唱えた。
魔法の力を使って、剣に魔力の光を宿す呪文を。
彼の呪文に呼応するかのように、ヴルームの剣の柄尻に付いた青い球状の魔石が光を放つ。
同時に、銀色の剣身もまた、青い光に包まれていく。
「…………」
ヴルームが魔法の力を使ったのを目視で確認したジェド。
彼は、鎌に右手を翳した。
途端――鈍い輝きを持つ鎌の刃に、暗い紫色の光が纏う。
ヴルームが剣に纏わせた光とは違い、まるで煙のように瞬く光。美しさは一切感じさせず、禍々しい雰囲気を帯びた光だ。
(無詠唱の魔法か。まるで悪魔のような殺気と言い、こいつ、出来るな……)
ジェドが使ったのは、無詠唱の魔法だった。
呪文を唱える必要が無い分、習得難易度は高い筈の魔法である。
空色の毛並の犬型獣人族の男性と、紫の光を纏った鎖鎌を持つ少年。
少しの睨み合いの後、沈黙を破ったのは、ジェドだった。
「睨めっこをしている気は無い……さっさと来い」
彼は、暗い紫の光を纏った鎖鎌をヴルームへ掲げる。
「自身があるようだな、ならば遠慮なく行かせてもらおう」
ヴルームは青い光を纏った剣を振り上げる形で構える。
そして右足を一歩後ろへ下げ、地面を蹴る体制を取った。
(……この犬型獣人族、まさか……)
眼前で剣を構えるアルカドール王国騎士団副団長の顔を見つめつつ、ジェドは心中で呟く。
ヴルームに対して、まるで何かに気付いたかのような面持ちである。