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Episode25;エリザベスの目覚め

§ヨーロッパ連合イングランド ノーフォーク ノリッジ近郊 2108年12月(到達年月)2367年5月(現在年月) 


 エリザベス・コータは誰かに起されたように思った。寸前まで悪夢を見ていた。目覚めた瞬間忘却してしまい内容は分からないが、悪夢に相違あるまい、と思った。彼女の人生で夢と言えば悪夢以外あり得なかったからだ。

「エリザベス」

 再び声が聞こえた。毛布で身体を覆ったまま、まだ虚ろな頭をベッドから少しだけ起こし寝室を見廻す。夫は出掛けていていない。いたとしても彼女の寝室を訪れることもない。そういうことは結婚当初から全くなかった。

「エリザベス」

 男の声だ。落ち着いて低い多分中年男性の声。彼女は漸くその姿を捉えた。灯りを消し、微かな夜光に寒々と沈む室内。寝室は一人で使うには呆れるほど大きかった。ベッドの向い側、化粧台の隣に置かれた小間使いが座る控えめな椅子。そこに男が腰掛けていた。

「エリザベス。気付いたかな」

 普通なら闖入者に恐怖し、叫び声を上げるところだ。しかし彼女は落ち着いていて、じっと男の顔を見定めようとした。暗いので良く見えないが、大柄な体格で黒いスーツを着ているように見えた。

「だれ?」

 彼女は漸く問い掛ける。男は立ち上がり、彼女のベッドに寄る。深夜。三十代の女の寝室に侵入した男。物取りか彼女が目的かどちらかに違いない。それでも彼女は落ち着いていて、じっと男の顔を見ている。

 男はベッドサイドに来ると膝を折る。まるで古風な騎士の仕草でお辞儀をし、

「私の名はノイエ・シギスムント・カチンスキー。物理学の学者をしている」

 男は暫く彼女の顔を見つめた後、

「驚いていないね」

 彼女は声に較べて若い印象の男を見つめたまま、

「充分に驚いておりますよ、博士ドクトル

「ああ、いい響きだね、ドクトルか。我々の世紀ではもうその言い方はほとんどしない。DRダーアーと呼ばれる。先生程度の意味だ。科学が生活と同期し、その発展は好奇心のためでなく商業主義に捧げられる世界では、我々学者は博士ではなく技術者に過ぎない」

 カチンスキーは立ち上がると、

「深夜の闖入、まことに申し訳ない。でも、こうしなくてはならなかった。これも歴史なのだろうから」

「何を仰っていられるのか、分かりかねます」

 彼女の落ち着いた声はとても三十代のものではなく、カチンスキーの年上といっても通るくらいだった。

「では直裁に言おう。宜しければ、私と一緒に来て頂けるだろうか?とりあえず、私のリビングに。そこで詳しい話をしたいのだが」

 カチンスキーは再び膝を折ってお辞儀をする。エリザベスは暫く彼を見つめていたが、

「少し向こうを向いていらして、博士」

 そう言って毛布を抑え半身を起すと、

「これは失礼した。準備が出来たら呼んで頂きたい。隣の部屋にいる」

 彼はそう言うと、足早に部屋を出た。彼女はその後姿を見送ると、毛布を外してベッドサイドに降り、シルクの夜着の上に厚手のガウンを羽織った。室内はひんやりと冷え、息が白い。一晩中暖房を入れることを彼女は嫌った。世の女性は乾燥を嫌うのでそのせいだと召使いたちは思っていたが、そういう理由は彼女の頭にはない。夜の闇に漂う暖炉の熱は、彼女の悪夢の根源に繋がっているからだった。


 静かにノックをするとドアが開く。カチンスキーはまたも膝を折ると、今度は彼女の手を取って甲に唇を当てる。彼女はされるがままにした。幼少時よりそういう紳士たちの行動をよく知っていたからだった。

「これからあなたを私の『オリジナル』へ案内する。少しの間眩暈がしたり身体が火照ったりするが心配しないで。あなたは電脳化していないのでこれを頭に付けて。いいかな、私の手を取り決して離さないように」

 そう言うなりカチンスキーは彼女の頭に奇妙なカチューシャ状の機器を取り付け、右手で彼女の手を取り、左手を上げる。すると。

「なに?」

 彼女は思わず一歩引く。数メートル先、婦人の居間の中央に光る四角い枠が現れる。その色は溶鉱炉のような赤。

「ああ、恐れることはない。これは虚数域の入り口だ。ゲートと呼ぶ」

「ゲート……」

「この先の虚数域を亜空間と呼ぶ。生も死もなく、過去も未来もない宇宙のようなものだ。さあ、行くよ」

 エリザベスの手を引いたカチンスキーはゆっくりとゲートを潜る。彼女が振り返った瞬間、ゲートは消失し後には主を失った部屋が暗闇に沈んでいた。


 エリザベス・コータ、旧姓エリザベス・テイトは合衆国でも指折りの富豪の一家に生まれた。二十一歳で父の勧めに従って英国の貴族ジェイムス・コータと結婚。この年で十二年目を迎えるが子供はいない。夫は少なくない領地と貿易会社の経営でほとんど屋敷に寄り付かず、常に複数いる愛人のペンションや海外で過ごした。

 彼女は孤独だったが、孤独は彼女の人生で当たり前の状況であり、寂しいと思ったことはない。旅行や外出もほとんどなく、日長一日読書や手芸で過ごしていた。この手芸は唯一彼女の趣味と呼べるもので、特にパッチワークキルトの腕は際立っていた。しかし、作品を人目に晒す事もなく、彼女の世界はこの屋敷の中で終始完結していた。

 そんなエリザベスだったが、彼女の人生で大きな影を落としていたのは父親の存在だった。一年に一度、彼女はワシントンDCへ里帰りする。広大な敷地に建つ実家には彼女専用の部屋とコテージがあり、専用の馬もいた。八月の一ヶ月、彼女はこの屋敷に帰って来たが、それは彼女にとって地獄のような日々だった。


 父親のオレグ・A・テイト氏は、先祖代々受け継いだこの屋敷を始めとする土地建物と国際企業の優先株式とで長者番付上位に必ず顔を出す富豪。八十を越えても威厳を失わない岳父で、未だに人の手を借りずに株式の売買の指示を屋敷から出していた。

 相場師としての彼をアナリストたちは影で『コンドル』と呼んだ。その尖った顎と鋭い眼光や、眉間に刻まれた深い皺などの様相から付けられた渾名と言われたが、市場では死の匂いを嗅ぎつけて誰よりも先にやって来て獲物が死ぬのを待ち、おいしい所だけを食べて去って行く、猛禽類の帝王と同じ行動を得意とすることの意味の方が大きい。『コンドル』が介入したと知られれば、その株式は天井高になるかストップ安になるかの二つしか行く末がない。オレグ氏の資産は先祖のそれと合わせて中南米の小国三、四ヶ国分の総資産に匹敵した。

 

 そのオレグ氏唯一の娘であるエリザベスは、彼にとって数ある所有物のトップだった。幼少の頃から執務の間も常に膝に置いて可愛がり、それは彼女が学校に通うようになっても変わらず、帰宅した彼女は父の部屋に直行した。父と娘が一緒にいる時間は、オレグ氏が後妻のアリスと過ごす時間よりも多かったはずだ。後に後妻の子として生まれた弟のことも大層可愛がったが優先順位は変わることがなかった。

 彼女がそれを望んだのではなく、父がそれを望んだのだ。そしてそれは父と娘という関係と呼ぶよりも主人と奴隷の関係に近いものだった。その証拠は彼女の左足の付け根にあった。


 それはまがまがしい刻印だった。まるで枯れた花輪のようなタトゥが彼女の右太腿を一周している。血が乾いた跡の色にそっくりで、陽に晒されたことのない彼女の青白く透き通る肌に、鉄錆色の野薔薇の環として描かれていた。


 それが刻まれた日の事は忘れようにも忘れない。傲慢で権勢を誇り、英雄を神格視したサディストの父は、エリザベスが十二歳になったある日、彼女を地下にある秘密の部屋に閉じ込めた。恐怖に戦く彼女に対し、高額で雇われた当代一流の彫師が三日三晩かけて丹念に彫り上げた。

 エリザベスに枯れない薔薇を与え、そしてヨーロッパとアジアを初めて融合した男や、逆にアジアからヨーロッパに侵入した男、世界を相手に奮戦した男たちの叙事詩を夜毎読み聞かせた父。そして彼女が疲れ果て、眠りに着く寸前、必ず呟く言葉。


「おまえは薔薇だ、永劫咲き誇る薔薇だ。おやすみ、私の野薔薇」


 薄闇と埃の匂い、揺れる灯火、踊る影。その皺枯れた声、その痛み、その音、その色、その形。狂気の父が娘に与えた焼印。永遠に刻印された悪夢。夜の浅い眠りに繰り返し表れては消えるあの一瞬。逃れようのない夜毎の罠。

 焼き付いた薔薇と記憶は、毎年の里帰りで父と過ごす悪夢の再現を経る毎に降り積もり、何時しか熾火のような恨みを抱かせ、彼女に確かな目的を与えていった。

 しかし、それは彼女の中だけで完結する呪い。彼女は念じこそすれそれを実行することはなかっただろう。カチンスキーと会うまでは。


 三時間後。エリザベスはカチンスキーと別れ部屋に戻る。彼は時間を合わせて彼女が部屋を後にした瞬間に彼女を戻したので、彼女は時を失うことなく彼女の時代に戻って来た。

 午前二時。全く夢の出来事のようだったが、夢ではない証拠を彼女の身体が覚えている。独り佇む彼女はもう眠れるはずがない。

(復讐……)

 あの男はそう言った。

(永遠の痛みから逃れるために、復讐を誓わないか)


 改めてカチンスキーと名乗った男は、未来からやって来た、と言った。

 そこは彼が『オリジナル』と呼ぶ黒い部屋。最初は空間が意識出来ずに、巨大な洞穴にでもいるのか、と思った。床は固い石かコンクリートのようで、空気は乾燥し寒くも熱くもなかったが、床からはひんやりとした冷気が昇って来る。カチンスキーは彼女の手を取ったまま、部屋の中央に置かれた四柱の寝台の脇、背の高い腰掛が極端に小さい椅子を勧める。彼女が言われるままに腰を降ろすと、彼は上着を脱いで丁寧に畳み、向かい側に同じ椅子を持って来て座る。

「貴女のことは数年前に知った。興味深い。実に興味深い」

 カチンスキーは視線を彼女の顔から一瞬たりとも動かさずに話し続ける。

「私は何でも知っている。貴女が夫に愛されていないこと。そもそも結婚は貴女の父が決めたこと。その理由は、夫が父に多額の借金をしており、それを帳消しにするための契約だったこと」

 カチンスキーは身を乗り出す。

「貴女が夫から結婚の誓いのキス以外触れられたことがないこと。夫が元より男色であり、女の貴女を愛するはずがないこと。それを貴女の父が知っていること。いや、知っていたからこそ夫に貴女を娶わせたこと。そして貴女の知る男は父親だけだ、と言うこと」

 エリザベスは思わず立ち上がる。誰も知るはずのない、墓場まで持って行くべき恥ずべき痴態。どうしてこの男は……

「私は……誓ってそのような背徳的な行為をしていない!」

 カチンスキーの表情は穏やかで変わらない。

「最近は、だろう?貴女は十二の歳に薔薇の金輪を左脚に刻まれ、それ以来父親の慰み物となった。その関係は貴女が家を離れた二十歳まで続く。一年一度の里帰りでは、夜毎貴女は父により薔薇の金輪を愛でられる。そこで貴女は最早起つことのない父の――」

「止めてぇ!」

 彼女が発する叫びは洞窟のような部屋に響き渡った。耳を塞ぎ面伏せた彼女の肩にカチンスキーの手が掛かる。はっと顔を上げた彼女は両肩を掴まれ、引き摺られるように押され、四柱寝台へ。

 カチンスキーは恐れおののく彼女を押し倒し、夜着の裾をたくし上げる。薔薇は彼女の忌むべき印、進んで他人ひとに見せることなどなかった。過去、偶然やアクシデントで二人の女と一人の男が目にした。三人ともその薔薇を目にするや嫌悪か偽りの同情を示し、目を背けたが、四人目となったその男は薔薇を愛で、その花びらに触れ、女王の差し出した手の甲に唇を押し充てる騎士のように、まるで忠誠を誓うかのように薔薇に唇を当てた。

 カチンスキーは見かけと違い力強かった。抗うことも出来ず、のしかかる男の重みを感じ……

 やがて長らく経験しなかった痛み、それは薔薇を受けた痛みに似て、彼女の記憶に新たな傷を残した。


 事の後、呆然と寝台に横たわる彼女の耳元にカチンスキーは囁いた。

「私は君に復讐の機会を与えることが出来る」

 彼女はじっと天蓋の模様を眺めるだけ。

「君が繰り返し見る悪夢。その永遠の痛みから逃れるために、復讐を誓わないか」

 天蓋の模様は、薄い青の空と渦巻く白い雲を背景とした天使の乱舞。

「リズ、君は何を望む」

 天蓋の模様が動き出す。彼女はホーンを吹き鳴らし乱れ飛ぶ天使を見る。それは最後の審判の到来を告げ、次第に激しさを増して行き――

「……英雄たちに復讐を……」

 殆ど聞き取れない位の囁きだったが、カチンスキーは大きく頷いた。

「承知した」

 再び彼は覆いかぶさり、彼女の視界から天使を消し去る。

 鈍い痛みは繰り返された。

 だが彼女は叩き付ける男の肉体越しにぼやけた世界を見つめ、そこに確かな目的を見入出す。


 この悪夢は終わらないだろう。そういう予感があった。しかし目的を忘れないためには構わない。すると上気した火照りの先、鈍い痛みの先に、むず痒いような感触を捉える。彼女は上下する男の肩に手を伸ばす。それは契約の確認あかし。男が呻き絶頂を迎えようとしている。その肩の先、熱を帯びぼやけた視野に、再び踊る天使を見る。乱舞する天使は彼女をいざない天へ駆け昇る。

 そして思った。これも案外悪くはない、と。



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