エピローグ
§南米連邦・ブラジル マナウス州 TP本部 2369年9月
再びグラスの音と歓声があちらこちらから上がる。乾杯が幾度となく行なわれ、最初は静かに始まった宴会はエンドレスで続いていた。眠らない組織に合わせ、引っ切り無しに参加者も入れ替わり一夜が明ける。ドンちゃん騒ぎもお開きが近かった。
『ティーゲル・アイ』レーダー少佐の機動執行からの引退、中佐への昇進、そして教導作戦団隊長就任を祝う宴会だった。
広い機動執行班のリラクゼーション施設内のバー。会の主役は静かにソファに座り、シュナップスを飲みながら、傍らに座るアチソンと話し込んでいる。
そんな騒ぎの中で、ジョーは擬似スクリーンが映し出すリアルな雨のジャングルを見つめながら、グラス片手に物憂げな様子だった。
「それで?」
「それ以上は何も。まったくの行方不明さ」
ジョーの相手をしているのはリチャーズ捜査官だった。今回の騒動後に起きた人事異動で数人の上司を飛び越し、調査課に三人いる課長補佐のひとりとなったリチャーズ。彼は古風なタキシードを着て、傍らにコークの入ったグラスを置いて、ガムを噛んでいる。全く酒が飲めない体質なのだ。
「手掛かり一つもないのか」
ジョーががっかりして琥珀色の液体が入ったショットグラスを窓辺に置くと、
「まあ、ないことはないが」
「何だ?もったい振らずに教えてよ」
「共同墓地に眠ってるジョシュアの墓宛てに、無記名で二週間毎に花が送られて来る。彼は我々と同じ過去人だから、この世紀に知人がいるとも思えない。花の発送元はその都度違うようだ。先週はアフリカからだった。インターポリスの知り合いを使って調べたんだが、東洋系の美人が現金で支払ったそうだ。ただしそれ以上は追っかけられず、情報もない」
「じゃあ、元気でいるんだな」
「だといいがね」
リチャーズも物憂げだった。ジョーは何度も頷くと、
「二ヶ月も家に閉じ篭っていたからどうも身体が鈍ってさ」
「それは謹慎って言うんじゃないのか?」
リチャーズの笑いの蟲が蠢き出す。ジョーは苦笑して、
「この後も干されそうだったら、少し彼女の痕跡を追ってみようかと思う」
「そっとしておく方がいいんじゃないかい?」
やんわりとリチャーズが言うと、
「それもそうなんだけれどね。胸に支えた魚の骨みたいでさ」
「それは分かるよ」
その時。
ビー!ビー!ビー!
ブザー音が三回。作戦部員なら誰もがすぐさま反応する出動要請。
「出動要請。長官直属特別査察隊総員は直ちに発着場五番ゲート前に集合せよ」
一瞬、場が白けるが、すぐさま一人が立ち上がり大声で吐き捨てる。
「よりによってこんな時に!」
どっと笑いが起きた部屋の隅では、上着を取って袖を通す女性士官が一人。
「ワインを飲みすぎちゃっみたい。どうしよう」
その反対側の隅では、これも女性士官が小さな身体を眠そうに起して、
「え?どこ?何処へ出掛けるの?」
窓際に座っていた青年士官は大きく吐息を吐く。
「干されてないってか」
緩めていたネクタイを締めなおすと、
「大体、こういうもんだな。人生って」
バーを飛び出して行く四人に励ましや冷やかしの声が掛かる。それは執行班待機所のいつもの光景と相違がない。ドア口でふと振り返ったジョーは、見送る皆にくだけた敬礼をする。彼が駆け出して行くと、古風なドアがバタンと閉まってその姿を消し去った。
『ティーゲル・アイ』が立ち上がり、閉じたドアに向って透明な液体の入ったグラスを掲げる。彼は元ドイツ国防軍士官そのままに音高く踵を揃えた。
「Auf Wiedersehen. Treffen wir uns wieder.(それでは。また会おう)」
忙しい一日の始まりだった。
本作に登場した歴史上の重要人物『ファンクションキー』たち
釈迦 ガウタマ・シッダールタ 前463〜前383(諸説あり)
仏教開祖。現在のネパール・ルンビニでシャーキャ族の王、シュッドーダナの男子として出生。幼い頃よりこの世の無常を感じ、『四門出遊』の故事により出家を決意、29歳、12月8日夜半、王宮を抜け出し三人の師に学ぶが、これでは真の悟りは得られないと自ら苦行を重ね、遂にブッダガヤの菩提樹の下、49日間の瞑想により悟りを得た。その後多くの弟子を教化し仏教は大教団となる。前383年2月15日マッラ国サーラの林(沙羅双樹)にて入滅。
ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ 570頃〜632
イスラム教開祖。軍事指導者、政治家。アラビア半島ヒジャーズ地方メッカにて支配部族であるクライシュ族ハーシム家に生まれる。両親共に彼が幼い頃亡くなったため伯父アブーに育てられる。成長後は商人となり、富裕な女商人ハディージャに認められ後に結婚。610年頃、悩みを抱えてヒラー山の洞窟で瞑想に耽っていると大天使ジブリールに出会い、唯一神の啓示を受け、預言者として目覚める。613年頃から布教を始め、最初の信者は妻であったという。アラビアの伝統では多神教だったため迫害を受けるが次第に勢力を増し、622年頃から敵対者と戦闘状態となる。630年遂にメッカを支配、632年、メッカにて没する。大変な猫好きであったとも伝えられている。
ナザレのイエス 紀元前4頃〜28頃
ベツレヘムで母マリアが処女懐胎し誕生したことになっているが史料は福音書しかないため、詳しいことは不明である。父ヨセフとマリアはヘロデ王の迫害を逃れエジプトに住む。史実ではこの後、イエスが神の子として目覚め教えを説くために布教するまでの期間、詳しいことが分かっていない。28年(諸説あり)、ユダヤ教を非難する彼を、ユダヤ教神殿貴族のサドカイ派は政治犯としてローマ帝国行政官ピラトに訴え、抵抗もせずに捕えられたイエスは十字架刑に処せられ、永遠の存在となる。
メフメト2世 1432〜1481
オスマン帝国第7代皇帝(在位1444―1446、1451―1481の2回)。コンスタンティノープルを陥落させ東ローマ帝国を滅亡させる。オスマンの支配領域を拡大し「征服者」と呼ばれた。後のスレイマンから見れば曽祖父に当たる。
セリム1世 1465〜1520
その酷薄な性格と情け容赦のなさから「冷酷者」と呼ばれたスレイマンの父。オスマン帝国第9代皇帝。
即位に当たっては父バヤズィト2世を退位させ、当時の慣習とは言え兄弟やその子供たちを次々に殺害、父も直後に没しているため殺害されたのではないかと思われる。
西アジア方面に侵攻し諸イスラム王朝を次々に破り、メッカ、メディナのイスラム教聖地を確保、イスラム世界の盟主の地位を確保する。エジプト征服の後、ロードス島侵攻を準備するが病に倒れ即位後わずか9年で没する。
スルタン・スレイマン1世 1494〜1566
オスマン帝国第10代皇帝にしてオスマン帝国を絶頂期にした英雄。46年間の在位中13回の外征を行い数多くの勝利を獲得する。その支配地域はヨーロッパ中部ハンガリー平原から北アフリカ地中海沿岸、黒海沿岸、イラクからアラビア半島にまで及ぶ。ヨーロッパ諸国と敵対するも、フランス王国とはハプスブルグ家(スペイン・神聖ローマ)への対抗から手を結ぶという外交手腕にも長けていた。軍事的成功が続いたため家臣団、特に親衛部隊であるイニチェリの力が強まり、後のオスマン衰退の原因を作る。晩年は政争が相次ぎ、皇太子を反逆罪で処刑するなど家庭的には恵まれなかった。1566年ハンガリー遠征中の野陣で没する。
ナポレオン・ボナパルト 1769〜1821
フランスの軍人、政治家。フランス第一帝政皇帝(在位1804―1814、1815)。コルシカ島アジャクシオにて生誕。家族、特に母親の奮闘でフランス本土に渡り陸軍幼年学校に学ぶ。優秀な成績で卒業すると1784年パリ陸軍士官学校に入学、砲兵を志望し、僅か11ヶ月で卒業する(開校以来の最短記録)。指揮能力は当時から認められたが、普段は読書に励む寡黙な少年だったという。
1785年に砲兵士官として任官するが89年フランス革命勃発、一時は弾劾され追われるが、93年には国民公会議員に認められて軍に復帰、トゥーロンの反革命軍を降伏に追い込む手柄を上げ将軍に。以降、若き英雄として各地で殊勲を上げる。95年パリでの暴動を鎮圧、96年にイタリア遠征、連戦連勝でイタリア各地をフランスの勢力下に収める。98年エジプト遠征、99年帰国すると民衆の圧倒的支持によりクーデターを敢行、統領となる。反革命を唱えるヨーロッパ諸国に囲まれるがオーストリア、ロシア、プロシア、イギリスと戦い、遂に1804年皇帝に即位する。その後、東方遠征でモスクワへ、南方ではスペインを属国化し絶頂期となるが、ロシア遠征の失敗を機に守勢となり、1814年退位。イタリアの沖合いエルバ島の領主として流される。その後、ヨーロッパ各国の会議(ウィーン会議)の紛糾に乗じて復活、王制を廃して再び皇帝となるがベルギーのワーテルローにてイギリス・プロシア連合軍に大敗、今度は南大西洋の孤島、セントヘルナ島へ島流しとなる。1821年病没。胃がんとされたが毒殺を主張する歴史家も多い。
ルイ=ニコラ・ダヴー 1770〜1823
ナポレオン戦争で活躍したフランス軍人。不敗のダヴーと呼ばれ軍事面での指揮・管理能力はナポレオン軍の中でも一二を争う。革命期には貴族出身の共和主義者として様々な浮沈を味わうが、ナポレオンと出会い、その非凡な才能を認められて遂には最も若い元帥(34歳の時)にまで昇進する。特にオーステルリッツの戦いでは桁外れの機動力でロシア・オーストリア軍を翻弄し、アウエルシュタットの戦いでは2倍以上の戦力差を跳ね返しプロシア軍を撃退している。しかし、人間性に問題があり粗野な言動と冷淡な態度で同僚からは忌み嫌われていたという。1823年肺結核で死去。
ピピン3世 714〜768
フランク王国国王(在位751―768)。彼の祖先であるピピン1世との対比で小ピピンとも呼ばれる。メロヴィング朝キルデリク3世を廃して、宮宰であった自らを王としてカロリング朝を起こした。その際ローマ教皇に己の地位の確認を行い、その見返りに戦争によって得た北イタリアの地を献上する(ピピンの寄進)。768年サン=ドニで死去。
カール大帝 シャルルマーニュ 742〜814
フランク王国国王(在位768―814)。ピピン3世の子で弟のカールマン(在位768―771)が急死したため、以降半世紀近く単独王として君臨する。後に西ローマ皇帝と称した。外征では妻の父であるランゴバルド王国デシリウスのローマ攻撃に対し、教皇を守るため戦い、勝利して自らランゴバルド王も兼ねる。この時にランゴバルドから奪ったものが有名な「鉄の冠」である。
772年ドイツ・ザクセンに侵攻、804年に完全制圧し領土を拡大、778年にはスペインカタルーニャ地方に遠征、イスラム軍を蹴散らした。その後、バイエルン、スラブ、アヴァール人などを攻めてウィーン付近も所領に加えた。これにより島であるイングランドやアイルランド、回教徒に支配されるイベリア半島やイタリア南部を除きヨーロッパを初めて政治的に統一した。内政ではカロリング・ルネサンスと呼ばれる文化運動が知られる。長身でスポーツ万能であり特に水泳を好んだと伝えられる。文盲であったことも事実のようである。814年アーヘンにおいて死去。現在も遺骨は世界遺産であるアーヘン大聖堂に安置されている。
※あと一名、非常に高名な英雄が登場しますが、ネタバレであり伏せることとします。
出典;ウィキペディアほか