Episode35;女王の眠り
§虚数域
西日が眩しい地中海から見れば、そこは間逆の世界だった。
闇は深いが、部屋の構造は直ぐに分かった。電脳のセンサーは既にこの『オリジナル』がおよそ五十メートル四方の正四角形で、天井高は十メートルもある密室であることを示している。しかし、そこに人の気配はなかった。
ここはエリザベスの潜んでいたオリジナルに違いない。しかし、逃げ込んだはずの彼女の気配はない。
その彼女のオリジナルには奇妙な歪みが見られた。壁は不規則に脈動し、そこに存在する者に、巨大な生物に飲み込まれ胃袋の中にいるような恐怖心を沸き立たせた。
(この不安感がベールの代わりだ。歪みは憎悪か。この空間はエリザベスの心そのものなのか)
ならば。
ジョーは床に座る。その床もふわふわと落ち着きがなく、脈動するように安定していないが、その上で彼は胡座をかき、両足の間に両手を持って来て座禅を組む。
目を瞑り虚無となって心を安らかに保つ。この方法はまだ十三の年に作戦課の体育教官から教わった。
二分後。目を開き、その格好のままで空間の中央を見つめてみる。すると朝が忍び寄り、いつの間にか夜が明け、辺りが黒から灰に変わるように、空間の闇が薄れて行く。まるで黒い霧が晴れて行くように辺りが見え始めた。
彼女は部屋の中央、黒衣を纏い背凭れの高い椅子に浅く腰掛けていた。それを認めるや、ジョーは立ち上がった。
「エリザベス」
彼女がにやりと笑う。その黒衣姿は古き良き時代の英国貴婦人そのものだったが、その目は異様に輝いていた。ジョーは視線を外し、その目を避ける。
すると突然、右側の壁が金色に輝く。同時に雪崩れ込む複数の影。
「ジョー」
「アチソンか!」
「全く、焦ったわよ」
「ミシェル!」
「一人で飛び込むなんて」
「キャシーもか」
三人はそれぞれ自身のピッカーを引き連れ、ジョーの横に並ぶ。
「それにしてもよく」
「探せたな、かな?」
「そうだ。何の発信源もない。私の識別子はこのおかしなオリジナルのせいでシグナルを発していないのに」
するとミシェルが得意げに例の黒箱を取り出す。
「これの効能はね、スクープを探すだけでなく、スクープを持つ者を探すことにもなるのよ。ジョーが亜空間に消えた後もこの箱は振動し続けていた。良く見ると座標表示が動くの。もちろん三次元表示だから虚数域では意味がないけれど、こちらが移動すると振動が強くなったり弱まったり。箱はまるで人感センサーと同じ役目を果たすのよ」
「それでマックスゲージになる方向へ向ったんだ」
アチソンがエリザベスを睨む。
「目を見るなよ。シンディの報告にもあっただろう?」
ジョーの警告にアチソンは、
「分かってる」
そして一喝。
「お前は自分が何をしているのか、分かっているのか?」
アチソンはエリザベスの肩口を見つめて、
「こんなことをしても何の意味もないことを、カチンスキーは教えなかったのか?」
すると、エリザベスは立ち上がり、
「意味はあるのよ?あなたたちにはなくても」
「どんな意味だ!」
「分からないでしょう?分かる訳がない。これは私の痛みなのだから」
エリザベスが右手を上げる。それはさようならと手を振る直前のように見えたが……
「おい!」
「気を付けろ!」
エリザベスの周りに燐光のような淡い光が。それは次第に数を増し、やがて形を取り始める。
「こいつらか。こいつらなんだな」
ジョーは誰に言うともなく一人で合点している。
「こいつらがマーチンたちをやったのか」
3D偽装を施さないメタルグレーの身体を剥き出しにしたピッカーの群。数は五十を下らないだろう。それがエリザベスを護るように扇型に展開する。そして四人と四体を取り囲むように歩き出した。
「おい、ケイト」
ジョーは人型から目を離さずに自分のピッカーに声を掛ける。
「何?」
「お前、同類を潰すのは趣味でない、とか言ってたな」
「常に言ってるわよ。嫌々やってるの」
ジョーは皮肉を思い口元を歪めると、
「なら、心配するな。こいつらには『こころ』がない」
「え?」
「良く見てみろ。装甲が外され、『指令受信装置』もしていない。胸の穴はAIに物理的衝撃を与えた跡ではないか?AIの制限機能を破壊したんだろう。こいつらは全く遠慮をするはずがない」
そこでジョーは両手を組み合わせ指をポキポキと鳴らすと、
「だからこっちも遠慮なしで行くぞ!」
言うやいなや、ジョーは個人装備の違法アタッチメントで四連に固定したスティックを取り出す。
「何時の間にそんなもの!」
ミシェルが驚く間もなく、両足を踏ん張り両手で支えた四連スティックをフルバーストで撃ちまくるジョー。たちまち数メートル先まで接近していた四体がハイスペックのビームを浴びて火達磨となる。
後はもう乱戦だった。
アチソンは、相手が重量百五十キログラムのメタル製では得意の徒手格闘に持ち込めず、スティックを短距離ショットガンモードにしてプラズマ弾を一発ずつ確実にピッカーに浴びせる。距離がないので百発百中だったがその顔はどこか不機嫌そうだった。
対照的にミシェルは久々の戦闘を楽しんでいるように見える。優雅な仕草でスティックを片手に一本ずつ持ち、アチソンと背中合わせに押し寄せる銀色のゾンビといった風の群を文字通り四分五裂にする。
キャシーは自身のピッカー『フリント』の活躍を後ろで見守っていた。『パーソナル・コンピュート・レイドロイド』と言う正式名を持つピッカー、高機能人型思考端末は持ち主の趣向により様々な形態をとり、またそのAIは持ち主の思考を汲み取って成長する。キャシーはピッカーを『育てる』ことに関してはTPでもトップクラスと言われ、整備課では『人形遣い』と呼ばれていた。
そのフリントは実に無駄のない動きで一体ずつ魂のない同類を排除する。その動きを見れば誰もが納得するだろう。相手となるシルバーグレーのレイドロイドは緩慢な動きでぎこちない。実際は人が恐怖する早さなのだが、余りにもフリントの動きが素早いのでそう見えてしまうのだった。
ジョーは機械的にスティックを乱射していた。四つの筒先からブワッボワッと独特な音を上げてビームが迸る。一発では倒れないレイドロイドは彼のケイトが腕に仕込んだスティックでけりを付けた。時間にして二分も経たなかったであろう。目の前には銀色の山が出来上がる。燻り、軋む音を立ててパーツとなってもなおも動こうとするものがいる。エリザベスの護衛は壊滅した。
「そちらは?」
ジョーが背後を見ずにアチソンへ声を掛けると、
「終わった」
アチソンは銀色の破片を見て回りながら、脅威が消えたのを確認すると、
「さあ、エリザベス」
彼女は最初に見えた姿で優雅に座っていた。アチソンが近付いてもその顔を見つめるだけで、動くことはなかった。
その時、闇が消える。
全員身構えたが、偽像の黒い壁が瞬時に消えただけだった。眩しいほどの光だったが、中東の太陽が沈もうとする最期の輝きに過ぎなかった。
戦場の勝敗は決していた。アレクサンダーを先頭にペルシアの隊列を切り裂いたマケドニア騎兵はダレイオス王の本陣を突き、身の危険を感じた王は全てを置き去りにして逃げ去った。急速に暮れて行く中、その夕焼けよりも赤い血の海が荒野に広がって行く。数万のペルシア兵がマケドニア兵の長槍の餌食となり、息も絶え絶えにのた打ち回る負傷者は、騎兵の後からやって来たマケドニア属国雑兵たちの手によって情け容赦なく棍棒で撲殺されて行く。
凄惨な戦場の光景を俯瞰するオリジナルでは、エリザベスが静かに立ち上がる。皆が静かに見守る中、両手を前に静々と三歩前に出た。
「エリザベス・コータ」
ジョーは、大きく息を吸い込むと、
「国際協約時空管理法第三十七条第二項、及び第六十五条により貴女を現行犯逮捕します。現代時・現時点から貴女の発言・行動は記録され証拠として国際検察局に提出されるのでそのつもりでいてください。貴女には黙秘権があります。現代帰還時に弁護士を呼ぶことも出来ます。弁護士を用意出来ない場合は――」
逮捕の宣言をじっと聞いていたエリザベス。ジョーが宣言を終えると、声を張った。
「本当に私を捕まえられると思っていらして?」
打つ手がないはずのエリザベスの顔に、じんわりと笑みが浮かぶ。まるで楽しい出来事を思い出したかのように。
「……いいや。思わんね」
アチソンが呟くように言う。視線はエリザベスの肩に止まったまま。今まで構えていたスティックをだらりと下げた。何と不思議なことを言う、と皆がアチソンとエリザベスを見比べる。そこでジョーがハッと気付いた。
間一髪の差だった。ジョーが突然動き出し、右手をエリザベスの方に伸ばす。彼女の左腕にその指が掛かるかどうかという際どい差。指先で彼女の身体がガクッと下がる。エリザベスの立っていた床が消失した。彼女は両手を前に組んだまま、ストンと落ちて行った。ジョーの記憶に彼女が最後に浮べた満面の笑みが刻まれる。
皆が透明な床を見下ろす。膝を折って下を見たミシェルの目に、やんわりと喪服の裾を広げ、両手を天に突き出し広げた彼女の白い顔が見えた。高笑いが聞こえるような気がした。直ぐにそれは白と黒の点となり、やがて地上の騒乱に、逃げ惑うところを次々とマケドニア騎兵操る長槍の餌食とされるペルシア敗残兵の中へと消えた。
風の音だけがする。地上の惨劇はまだ続いていたが、その密度はペルシア兵が逃げて行き、広がって行くと共に薄れ、疎らな黒い点が褐色の大地に広がるようになった。皆は地上に無残なエリザベスの遺体があるものと探したが、既に夜の闇が戦場を覆っていた。歴史に名を残す大会戦の後に遺された死体の数は数万に及んでいる。本当なら、確実に彼女が死んだことを報告するため、地上に降りて遺体を回収すべきなのだが、誰もその行動に移る気がしなかった。
やがて……
深い、深い吐息が誰ともなく漏れる。
「アパッチ。何で?」
最初に口を開いたのは意外にもキャシー。驚いたことに彼女は涙目でアチソンを呼び捨てにし、睨んだ。
「気付いたのなら何で止めなかったの?」
「中世期の日本……何と言ったか、敗残のブシがハラキリをしても勝者は止めない、とか言う……」
「ブシのナサケ?」
ミシェルが静かに言う。
「そう、それだ」
アチソンは唸ると乱暴に手を振って、
「何にしてもあの女は死を選んだろうよ。とっくに死んでいたんだ、自分の心の中ではとっくに」
「そんな理由で?私たちは時間犯罪者にきちんとした裁きを与えるために存在しているのではないの?それに死んだマーチンたちの犠牲はどうなるの?」
キャシーは涙を流しながらアチソンを睨む。アチソンは唸ると、
「じゃあ、こうか?ボールキャグを噛ませて拘束具、狂人扱いで本部の精神科医に預けたか?」
忌々しげに首を振ると溜めていたものを一気に吐き出す。
「狂人と認定され、指定医療拘置所に入れられ、それで?あの女はそのまま終身拘束されるだけ、それがあの女にどんな償いの場を与える?反省すると思うか?一体何人死んだ?TPが五名、ピッカー二十数体、TCが十数名。過去人は一万か?二万?」
怒りの矛先が定まらないまま、アチソンは空を殴る。
「犠牲は帰って来ないんだよ。マーチンら死んだ人間だけじゃないぞ、マリアはどうなったんだ?え?」
キャシーはアチソンを睨んだまま涙を流し続けるが何も言わない。
「戦場に舞い降りた魔女、か」
二人を尻目に、ジョーは殺戮続く下界を見下ろすと静かに呟く。
「アレクサンダーは十年後、マラリヤで死ぬ。あの女の呪いだったのかもな」
一歩踏み出した彼の足に何かが当たる。足元に目を遣ると、何かのアクセサリー。それは銀の十字架だった。ジョーが拾い上げると、スルッと細いチェーンが抜け落ち、小さな音を立てた。
「擬似映像じゃないな」
彼は独り言を呟くと外れたチェーンも拾う。そして十字架を見つめ、裏返して暫く眺めていた。やがてジョーは話し出す。
「エリザベスは英雄を憎んでいた。それをあのDRが煽った。全ては清算のためだったんだ」
ジョーは十字架を見つめ続ける。誰も声を掛ける者はいない。
「DRは過去を道連れにして死を選び、エリザベスは一族全てを道連れに死を選ぶ」
ジョーは十字架をアチソンに渡す。アチソンはその裏に刻まれた文字に気付いて深く吐息を吐き、それをミシェルに。ミシェルもそれを認めると肩を落とし、キャシーに。彼女だけは反応が違った。キャシーは目を見開くと、
「何てことなの」
彼女の握り締める本物の銀の十字架。裏にはこう刻まれていた。
『全てを無に帰するよう。最後はQE・EZに死を』
アチソンはやれやれと首を振り、
「こいつがまだ続くのかも知れないってことか?エリザベス一世?それとも二世か?覚えているか?彼女の実母の名はメアリー、姑はヴィクトリア。ひょっとするとメアリー一世やヴィクトリア女王かもしれない」
ジョーは何かに耐えるかのように顔を上向けると、首を横に振る。
「いや、それはどうかなアパッチ」
そしてジョーは涙目のキャシーの肩を叩く。振り向いたか細い肩に左手を添え、両手で支えると、彼女の目を覗き込んだ。
「キャシー。君は言った。英雄には人柱が付きものだ、とね。最後の人柱は自分だったのさ。自分を憎いはずの父の傍らに捧げようとした……人間ってやつは何て複雑怪奇なんだろう。全く持って分からんね。若造だな私も」
静かに言うジョーの顔には疲労の色が濃い。
「彼女が生まれた時代には、まだ死刑があった」
そう言うとエリザベスが座っていた椅子に行く。そこにはまだ彼女が使っていた擬似窓が浮かんでいた。
「彼女は死刑を執行した、自分にね。惨劇は終幕した。今はただそう信じるだけだ」
ジョーは擬似窓を操作してスクリーンを閉じ、眼下に広がる歴史と言う名の凄惨な俯瞰図を消し去った。