Episode28;マーチンの出立
§南米連邦・ブラジル マナウス州 2369年5月(会議の三日後)
電脳にアラームをセットしなくても、彼女はいつも起床時間五分前に起きることが出来た。この日はいつもより三十分早起きだったが、この特技は滅多に外れない。
傍らで寝息を立てる男には全くそのような特技はないようで、二人で過ごす時は必ず彼女が起していた。
この住居は彼のもので、もちろん彼女にも住居が用意されていたが、ここ二年ほどはクローゼット程度の役割しか果たしていない。
結婚という行為は二十四世紀において事実婚のことであり、役所や教会に登録して、というような結婚のスタイルもないことはなかったが、数量的にはほんの僅かでしかない。
ジョシュア・マーチンとマリア・ウエハラは三年前から結婚していた。
「そろそろ起きて」
彼女が彼の耳元で呟くと、マーチンの目がすっと開く。この人の寝起きの良さはいつでも驚かされる、とマリアは思う。マーチンは覗き込むマリアを引き寄せると軽くキスをする。
「ありがとう」
そのままベッドサイドに脚を振り出し、さっさとシャワールームに消えた。
一昨日の会議で決った過去への増員にマーチンも選ばれ、五時間後には八世紀へ向う。彼が行くと決るとマリアも増員に志願したが、ジョーに刎ねられてしまった。「その頭は一所で使うより全体を見通して使って欲しい」ジョーはそう言うと電脳秘話に切り替え、彼氏を危険な任務に就かせて申し訳ない、と謝った。
もちろん、マリアも組織の一員として適材適所で頑張るつもりでいる。しかし、今回は執拗に胸騒ぎがしていた。物事の成り行きや出来事の由来などを探り続ける彼女にとって、理由の存在しない不安は一笑に付すべきもの。それなのに、今回ばかりは理由のない不安を彼女は正直怖いと思っていた。
二十代の後半、マーチンは十九世紀南北戦争直後のアメリカ南部から、マリアは二十世紀、冷戦と呼ばれた共産主義台頭のアメリカ西海岸からそれぞれスカウトされ未来にやって来た。マリアのほうがTP歴では二年先輩で、実年齢はマーチンの方が三つ年上。
彼らが最初に出会ったのは、マーチンが未来適応訓練を終了し、実務訓練で情報部に研修を受けに来た時だった。その頃、解析課のアナリストとして注目され始めていたマリアは、新人研修のサブリーダーとして十名の新人教育プログラムに参加した。
同じアメリカの出身、生まれた世紀も近い彼らは最初から馬が合った。マーチンが一ヶ月の初期研修期間を終える頃には恋仲となっていた。以来七年間、狭いTPの世界とは言え、結婚が数週間で終わり十数回の結婚歴が当たり前の二十四世紀、二人の仲は変わらずに続いて来た。
二人の朝の手順が進んで行く。マーチンの後にマリアがシャワーを浴び、出てきた彼女を彼が抱き上げ、ベッドへ連れて行く。朝のセックスはしない時も多かったが、二人の生活は既にそれが恋愛の上位に当たる時期を脱していた。今朝は愛し合うことにした。暫く離れ離れになることが分かっていたからでもあり、彼女が望んだからでもあった。行為は静かなもので、二十分ほどで二人は離れ、こんどは一緒にシャワーで汗を流すと二人で手際よく朝食の用意を始める。
コーヒーは本物だった。擬似代用食料が一般化し、本物の食材が衰退化の一途を辿る世の中で、TPはこと食材に関しては頑なに本物志向を貫いている。これは擬似食料を嫌悪する過去からのスカウト組が人員の八割を占める組織では当たり前と言えるのかも知れない。もちろん、トーストとベーコンエッグも本物で、二人は本物のアメリカンブレックファーストを毎朝食べていた。
「過去へ行くのは何年振り?」
ミルクコーヒーを飲みながらマリアが尋ねる。
「『五つの紋章事件』以来かな。二年振りか」
レタスの切れ端をフォークで弄びながらマーチンが答える。
「十分に気を付けてね」
「ああ」
マーチンがふと顔を上げると、マリアが刺すような視線を送っている。
「どうした?心配か?」
「ええ。何かしっくり来なくて」
「何が?」
「とんでもない間違いをしているのに気付かない、そんな感じがしているの、ずっと」
マーチンはジョークの一つも言って慰めようとしたが、マリアがまだ何かを伝えようとしているのに気付いて居住まいを正した。
「その一。なぜカチンスキーはエリザベスに接近したのか?」
感情を抑えたマリアの問いにマーチンもビジネスライクに答える。
「自身満たされない想いを彼女に託した。彼はその筋では有名人だ。彼自身がTCとなり行動を起せばその経歴から言っても事件発生直後にマークされ追求される」
「その二。カチンスキーの目的は何だったのか?」
「発生している事象から、英雄と呼ばれるファンクションキーの抹消と思われる。彼が時空物理学を追究するうちに英雄という存在に疑問を持ち、それが憎悪にまで及んでいたことは残された記述などから明らかだ」
それは二人がよく行なう検討会だった。彼らが抱える事件を分析し、片方が疑問を呈し片方が答える。時にはそれがベッドの上でも始まり、全裸で朝まで検討を続けたことも多い。マリアやマーチンが事件解決に貢献した事例のほとんどがこうして検討されていた。
「その三。カチンスキーはなぜエリザベスを選んだのか?」
マーチンは黙考した挙句、質問する。
「……その問いの裏は?」
「私たちはカチンスキーが半分狂気に駆られ、過去から二人の刺客をスカウトしたことを知っている。多分一人は余りにも狂気の度合いが大きくて使い物にならなかった。その後人食嗜好の彼女がどうなったのか、どこかの世紀に放たれて殺人鬼になっていないか気にはなるけれど。もう一人は素直に従い、彼言うところの復讐を始める。でも考えて?なぜエリザベスでなくてはいけなかったの?」
「そうだな、確かに。TCにするなら男でも良かったし、組織化するならもっと上手に人を操る策士がよかっただろう。彼女でなければいけなかった理由としては、あの『ワイルドローゼズ』とかいうドラッグの存在だろうね」
マリアはふうっと吐息を吐き、
「その通りなのだけど、何かがしっくりこないのよ」
「まあ、それを何とかするために俺たちが応援に行くんじゃないか。君はここでその謎に答えを出すんだ」
マーチンは身を乗り出してマリアの頬にキスをする。その首に手を掛けて本格的なキスへ移行しながらも、マリアの心はどこか遠くを眺めていた。
四時間後。八世紀と十五世紀に向うそれぞれ三機ずつのマシンの前に、応援の増員が一列に並んだ。作戦部長と情報部長に挟まれたジョーが敬礼を送ると一斉に答礼が返る。医療班を中心に作戦部と情報部から総勢五十名。これだけ大規模な移動は中々見られたものではなく、広大なマシンの発着場には手隙の隊員や整備班員が黒山の人だかりとなって遠巻きにしていた。
ジョーが短めに壮行の辞を述べると隊員から期せずして歓声が上がり、増員たちは早足でマシンのハッチを潜った。
「いってらっしゃーい!気を付けてねー!」
マシンの発進に付き物となっている整備課の名物少女、ニーの甲高い声に続いて周辺からも歓声が上がる。マシンは次々に浮かび上がると、耳障りなキーンという音が高まった途端、瞬時に消え去った。残された人々は騒々しくそれぞれの任務へ戻って行く。そんな中、黒い情報部の制服姿がポツンと残った。普段の忙しい発着風景が再開され、邪魔にならぬよう走路の端に移動したものの、マリアだけはいつまでも発着場の虚空を見つめていた。
§時空走路ルート7・時航マシンTPM03―072号 現年紀三十二時間後
八世紀まではおよそ三十五時間を要した。現着して実際の時間との同期整合性を図る『ラグタイムバスト』も一時間平均、移動は二日の長旅だった。
「後二時間。そろそろ止めるか?」
マーチンが問うと数人が被りを振って、
「勝ち逃げはいかんよ、情報部の旦那」
髭面の看護師が皮肉たっぷりに嫌味を言う。数人がそうだそうだと相槌を打つ。彼らは旧式時計の文字盤そっくりな座席配置で外向きに座っていたが、その前、壁一面が擬似スクリーンとなっていた。普段そこには長距離長時間の缶詰状態を精神面から緩和するための環境映像が映され、調べもの、会議などのためにも使われるが、今そこにはカードが映されていた。
八世紀行きの二号車となったこのマシンには九人が乗り組み、情報部からマーチンと同僚二人、作戦部医療班の医師と看護師六人がその内容。お互い初対面ばかりだったので、マーチンが誘い一人を除く全員が誘いに乗った。オールドルールのポーカーやブラックジャックはマーチンの得意なものの一つで、もし、知り合いだったら誘いを断っただろう。案の定、睡眠を挟んで二日に渡る合計十時間ほどのゲームで彼は断突の一人勝ちだった。
「まあ、まだ続けたいというなら止めないけどね」
マーチンが笑うと髭の看護師は今に見てろと吐き捨てた。すると……
「マーチン。遠距離通信が入っている。本部から。秘話希望だ」
中空から声がする。秘話ではなかったので全員が彼の方を見た。
「すまないね。ちょっと外す」
シートベルトを外してマシンの後部へ向い、ハッチを潜って誰もが使えるプライベート用の個室に入る。デスクの前に座ると、
「繋いでいいか?」
突然、彼の横にボウガンを手にした中世の狩人が現われる。
「いいよ、ファルケ」
実際はマシンに連結されているカーゴに乗っている彼のピッカー、ファルケが本部からの指名通話を繋ぐ。高性能のピッカーは、こうしたタキオン通信の中継機能や情報プールやファイリングを行なうサーバー機能を持っている。
「ごめんなさいね、ジョシュ。見える?」
擬似スクリーンにマリアが映った。映像は平面で画像が時折ストップするが、亜空間を移動中なので仕方がない。マーチンは自然と微笑んで、
「なんだい。給料の二ヶ月分を稼いだ所だったのに」
「またカード?いい加減にして置きなさい。嫌われてよ」
「了解です、マダム。で、用件はなんだい?」
「ちょっと気になる情報があったので……本当は職務規定違反なんだけど」
「まだ精査抽出していない、と理解していい?」
「そういうこと。でも結論を出す前にあなたの意見を聞きたくて」
マリアの心細そうな態度にマーチンの笑みが深くなる。
「言ってみて」
マリアは現年紀三十分前に秘匿至急のタグ付きで送られて来た情報をありのまま伝えた。
「じゃあ、その時標と座標に奴らのアジトがあると」
「その可能性が高い、そう思うわ」
「……隊長さんには連絡した?」
「まだよ。情報部のリサーチャーからエージェントに転進した誰かさんの意見を聞こうと思って」
マリアの茶化しに笑って応えたマーチンは暫く考え込む。やがて、
「周囲にそれらしき気配はないんだね」
「ええ。ただの寒村といった感じ。当時の人口は最大人口だった二十一世紀辺りに較べておよそ十分の一といったところだから、何か動きがあればはっきり記録されるし注意も引く。どう?」
「ほぼ間違いないとは思う。ただし」
マーチンはちょっと言葉を切ると一人頷き、
「はっきりした証拠が必要だ」
自信たっぷりの物言いに何故か不安を感じたマリアは空かさず、
「まさか偵察する?」
「そのまさかさ」
マリアは露骨に嫌な顔をする。画像が飛んで瞬時に彼女が被りを振った。それは超時間通信の出来が悪い画像のせいで逆に強調され、マーチンにはイヤイヤをして泣き出しそうな幼女に見えた
「止めなさい。ちゃんと現着してミシェルの指示を仰いだ方がいい」
マーチンも被りを振る。
「俺だって情報部のエージェントとして逮捕執行も三十一回ある。作戦部の連中のように『撃墜』マークなど子供っぽいものは付けないけどね」
「でも、応援を待たないと」
「大丈夫だよマリア。ちょっと様子を見る。そして撤退する。それだけだ。それにファルケもいるしね」
マーチンは傍らのピッカーの偽像を仰ぎ見る。中世の狩人を模した彼のピッカーは力強く頷いて見せた。
「そろそろ作戦部のやんちゃな方々にも情報部の凄さを見せる時じゃないかな」