玉葉閣の琴の音
昔々、上州の山間部に玉葉閣という屋敷があった。都から派遣されたさる貴族が建てたとも、かつてこの地を治めた豪族の城であったとも、数寄者が建てたとも噂される古い建物である。二階には回廊があり、建物から張り出した屋根瓦は陽射しや雨に艶々と輝き、白い漆喰と朱色に塗られた木組が相まって神々しくさえある。山間に何故このような建物が建てられたのかは、誰一人として知らない。正式な由来を知る者は絶えてしまった。ただ玉葉閣という名が伝わっているのみである。
夜間、この玉葉閣の軒先に吊るされた燭台に、ぼうっと火が灯ることがあるという。吹き渡る風にそよぐ葉ずれの音に混じって弦を爪弾く音が聞こえ、山菜採りにやってきた娘は背負い籠から採ったばかりの蕗がこぼれ落ちたのにも気付かず、腰を抜かした。
玉葉閣には誰もいないはずである。
娘は背筋を冷やして、腰が抜けたまま後ずさった。玉葉閣の苔むした前庭に埋められた飛び石の両脇に、石灯籠がいくつか並んでいる。人影もないのに屋敷に近い側から、ぽつぽつと一つずつ火が灯りはじめたとき、娘は悲鳴をあげて山菜の詰まった背負い籠をかき抱いた。
人の住まぬ屋敷は徐々に朽ち果てていくという。山間部には土砂崩れで人が避難して戻らなかった集落もあるが、無事であった建物も次第に屋根や柱が傾き、壁は剥がれ落ちて崩れ、瞬く間に廃墟と化した。
にも関わらず、玉葉閣は凛とした居住まいで山間に建ち続けている。思えば手入れをする者のいない屋敷が綺麗に残っているのは奇妙である。
夜空にかかっていた雲が途切れて、月明かりが差し込む。青白い光を受けた玉葉閣から聞こえていた弦を爪弾く音が途切れた。玉葉閣の二階の回廊に女が立っているのが、山菜採りの娘の目に映った。
娘は怯えながらも目を逸らせなくなって、女の姿を見た。ゆっくりと玉葉閣の回廊を通り過ぎていく女の姿が、途中で雲に覆われた月のようにかき消えた。
山菜採りの娘は背負い籠の形が変わらんばかりにかき抱くと、這々の体で山を下りた。
玉葉閣は斯様な噂の絶えぬ建物である。山歩きをする猟師たちの幾人かも、玉葉閣の灯籠に火が灯る有様や歩いていた女がふっと姿を消すのを見たという。山裾の村では人口に膾炙した。
「玉葉閣に近付いてはならねぇ」
「あの女に手を出してはならん。どんな祟りがあるか知れたものではない」
季節が巡ったある雨の夜に、茶箱を背負った行商人が山道に迷い込んだ。名を小平次という。歩けども歩けども木々は切れ目なく、生い茂る緑の葉の隙間から滴る雨が小平次の身体をすっかり冷やしていた。幾度となくかじかむ手に息を吹きかけて獣道の如き細い道を行く彼が顔を上げると、玉葉閣の屋根瓦が見えた。
小平次は玉葉閣についての噂を知らぬ。
小平次は疲労で足元をもつれさせながら息急き、玉葉閣の前庭にたどり着いてほっと胸を撫で下ろした。楼閣の大きな戸を叩き、雨に負けぬように声を張り上げる。
「かたじけない。しばし雨宿りをさせてもらえませんか」
何度か呼びかけると、ゆっくりと玉葉閣の戸が開いていった。蝶番の軋む音が辺りに響いた。小平次は中に足を踏み入れる。
「いやあ、ひどい雨を避けていたら、すっかり迷っちまいましてね。今夜中に村まで下りるつもりだったんだが、この雨でしょう」
背負った茶箱を下ろして上に掛けていた蓑を外し、雫を拭ったところで、小平次は手を止めた。
誰もいない。
誰もいないのに戸が開くとはどういうことだと、彼は固唾を飲んだ。
薄暗い屋敷の床には油の入った皿が幾つか置いてあり、小さな灯火がちりちりと揺れている。朧げな灯明の光が、ぼんやりと屋敷の中を照らしていた。不用心である。広い天井には誰の手によるものか、見事な絵が飾られている。格子で区切られた天井のそれぞれに、暦のように各季節の草花が描いてある。
「もしもし、どなたかいらっしゃいませんか」
足元で兎がぴょんと跳ねたのに気付いて、小平次がのけぞった。
「うわあ!」
よく見れば野兎がいる。何羽かの兎が前足を上げて、じっと行商人を見つめている。長い耳をピンと立てて鼻をひくひくと動かし、ヒゲをぶるっと震わせる。兎たちは火の灯った皿を器用に避けながら、楼閣の奥へと跳ねていく。小平次が被っていた笠を外して顔を上げると、ぽろぽろと弦を爪弾く音が聞こえた。
人がいる──と、彼はごくりと唾を飲み込んだ。
雨はしばらく止みそうにない。小平次は肩をすぼめて冷え切った手をこすり合わせながら、白い息を吹きかけた。寒さのせいか不気味さのせいか、指先が微かに震えている。
朝になれば日が昇る。雨が続いていても出立はできるだろう。一夜、雨宿りを乞うだけである。
小平次は行商を生業にしているから、畏れ知らずのところがある。彼の行く村々はある程度決まったものだが、行商をはじめたばかりの頃に各地の集落を訪れて商いをし、他の集落の所在を聞いては訪ねるなどした、独自の道行である。小平次は持ち前の思い切りの良さを発揮して、楼閣の奥に呼びかけた。
「ちょいと失礼しますよ。おぅい、どなたかいらっしゃいませんか」
小平次は玉葉閣の玄関に荷物を置いたまま、尻からげにたくし上げた着物の裾をぎゅっと絞った。ずぶ濡れの着物から水滴が落ちて、ひたひたと床に広がっていく。
野兎が耳を立て、一部始終を見ている。小平次は絞った着物の皺を伸ばした後、ひょこひょこと歩き出した野兎に導かれるように、階段に足を乗せた。図太いとも、遠慮がないとも言える。階段を上る彼の足元で、ぎしっと木の軋む音が聞こえた。
「おぅい、どなたか」
階段を上って二階に足を踏み入れると、弦を爪弾く音は大きくなった。よく聴けば、鼓笛の音もある。寺のようなものだろうかと小平次は回廊を進みながら首を傾げる。
「旅の者です。少し休ませてもらえませんか」
鼓笛の音だけが止んで、くすくすと童女の笑い声が上がった。なんとも不気味である。弦の音はまだ続いている。小平次はそっと障子を開けた。
月光の差し込む一間に、縹色の衣を纏った女が一人、座っていた。他に人の姿はない。髷を結うでもなく、洗い髪のように長い髪を片側に下ろした、若い女人である。白粉も塗っていないのに透けるような白い横顔が、月の光の中に浮き上がった。
「こりゃあどうも。少しばかり、雨宿りをさせてもらえませんかね」
返事はない。女は天女の羽衣のような薄衣を着物の肩に乗せている。そのうなじは薄衣ごしに見ても尚白く、小平次は喉をごくりと上下させた。
──耳が聞こえぬのかもしれん。
よろよろと吸い寄せられるように小平次は女人に近付き、細い肩に手を置いた。
女が振り返る。一重の涼やかな目元と遠慮がちな鼻梁が目を引く、美しい女である。甘い香りが鼻先を漂い、小平次の腹の底がゆるゆると熱くなった。このところ山道ばかり歩いていたために、若い女に出くわすのは久しぶりである。女の肩に乗せた小平次の手に、思わず力がこもった。
「雨宿りを──」
小平次が女の肩を押す。琴がびいんと不恰好な音をあげ、女が畳の上に横倒しになる。床の間に活けられた雪柳の花がいくつかほろほろと畳に落ちた。
「なんとご無体な。ご容赦、ご容赦を」
小平次が女の制止を聞かずにうなじに唇を寄せようとした刹那、さっと女の手が小平次の目の前をよぎった。童女たちの笑い声が止む。
はた、と畳の上に血が跳んだ。
小平次の目の前が、ゆっくりと赤く染まっていく。女の指先から琴を弾くためにつけた爪が一つ抜けて転げ落ちた。爪が小平次の眉上に当たったようだった。
「何しやがる!」
「お前様が悪うございます。斯様にご無体な真似をなさいますな。人を呼びます」
「この傷、どうしてくれる!」
「あれえ、誰か、誰か」
鼻息を荒くした小平次が女の着物の裾を乱したとき、ぼっと青白い人魂が点いた。めくった襦袢の裾の中に、女の脚がない。思わずのけぞった小平次の目の前で、畳に滴り落ちた血の跡が溶岩のようにぼこぼこと湧き立つ。湧き立った血は次々と兎の形をとると、小平次の周りを取り囲んだ。
血から玉葉閣の兎ができているならば、これらはなんだと小平次は慄く。
「来るな……こっちに来るな!」
野兎を追い払う小平次の前で、女がすっと立ち上がった。その肩は小刻みに震えている。
「わたくしは、無体な真似をやめてほしいと申し上げました」
「こんな山の中で女が一人、方々の男を誑かしてるに決まってる! 今更俺一人が加わったところで大した違いは……」
「それは、お前様の願望でございましょう」
言い訳を叫ぶ小平次をじっとりと睨めつけるように振り返った女の姿は、幽鬼のように夜に滲んでいる。月にかかっていた雲が通り過ぎて、部屋の中にゆるりと光が差し込んだ。縹色の着物は腐り果てた人の皮に、帯に巻くのは臓腑に、天女のように見えた薄衣は人魂の朧げな光に変じている。
「お前様が悪い。お前様が悪い」
「ひい!」
腰を抜かした小平次の前で、玉葉閣の女主人はケタケタと狂ったように笑った。障子や襖が一斉に開き、奥の暗闇から丸い目がいくつも小平次を捉えている。
小平次は回廊へと後ずさると、階段を転げ落ちるようにして逃げ出した。持ってきた荷物を引っ掴んで駆け出した薄暗い雨の森に、雷の鳴る音が響き渡った。
這々の体で村に下りた小平次に、人々は呆れ果てて言う。
「お前様が悪い。玉葉閣の女主人に手を出してはならん。どんな祟りがあるか知れたものではない」
「しかし……! あの屋敷には化け物が住んでおる。身の丈八尺はあろうかという、毛むくじゃらの耳の長い化け物が闊歩しているのです。早く屋敷に火をつけて追い払わなくては!」
「……そんな話は聞いたこともない。玉葉閣にいるのは女人であろうよ」
周囲の村の人々はわずかに言い淀み、そっと目を伏せた。
かくして玉葉閣は、物怪の住む屋敷として知られることとなった。小平次が行商のたびに祟りを恐れて法螺話を触れ回るので、この怪談は周辺の村々に広く伝わった。しかしその度に小平次は「お前様が悪い」と言われることとなった。周辺の村々には玉葉閣を既に訪れた者たちがおり、真相に心当たりがあったのである。
「品物を買うてやるから、とっととお帰り」
くり返される「お前様が悪い」という言葉に、小平次はやがて激昂した。なぜ村人たちが騙されてくれぬのかと、身勝手にも腹を立てたのである。そうして再度玉葉閣に向かうべく山に入ったところで、熊に襲われ、喰われた。
今日も玉葉閣は、かの女主人と同じく凛とした居住まいで山間に建ち続けている。
怖いもの知らずの人々が肝試しに訪れる以外は、野兎が闊歩するばかりである。
無体な真似さえしなければ、玉葉閣の女主人は見事な琴と鼓笛の音を聴かせてくれることだろう。かつて山菜採りの娘に聴かせたように。
<おわり>
【参考資料】
Wikipedia / Weblio / Google
この小説は正派邦楽界の楽曲を聴いて書いたものです。
【あとがき】
お読みいただきありがとうございました。
この小説は夏のホラー企画「音」に向けて書いた作品です。
なんで兎やねんという方もいらっしゃるかもしれませんが、これは玉兎に由来するものです。月に住む兎ですね。
浮世絵師の月岡芳年が『月百姿』で月から悪戯をしにやってきた玉兎を懲らしめる孫悟空を描いています。
『月百姿』が好きで画集を持っているのですが、この絵から玉兎に悪戯好きの印象を持っていたのでした。
ちょっとしたざまぁ要素のある怪談です。
暑くなってきましたので、少しひんやりしてもらえれば。




