反論しません。ですから、どうか私を見捨ててください
「——よって、フィーネ・ローゼンとの婚約を、本日をもって破棄する」
王宮の大広間に、王太子エーリヒの声が響いた。
私は膝をついたまま、冷たい床を見つめている。
「異論は」
「……ございません」
周囲がざわめく。婚約破棄を言い渡された令嬢が、反論もなく受け入れるなど前代未聞だろう。
けれど私には、抗う理由がなかった。
弟のトビアスは生まれつき体が弱く、高額な魔法薬がなければ生きられない。その治療費は王太子殿下の「好意」で賄われていた。
『反論すれば、弟への援助は打ち切る』
昨晩届いた手紙が、私の口を縫い付けている。
「殿下、私からも」
甘い声が響いた。王太子の隣のクラリッサ・ヴァイス伯爵令嬢だ。
「フィーネ・ローゼンは、私を階段から突き落としました。先週の夜会で、殿下と親しくしていた私が気に入らなかったのでしょう」
嘘だ。あの夜、私は弟の容態悪化で屋敷から出られなかった。
けれど口を開こうとした瞬間、クラリッサの視線が私を射抜く。
——分かっているわね?
「フィーネ。何か言うことは」
「……ございません」
「やはり沈黙は肯定と同じだ。よってローゼン子爵家には相応の処分を——」
「待て」
低く静かな声。その一言で、広間の空気が凍りついた。
人垣から一人の男が歩いてくる。漆黒の髪に、氷のような灰色の瞳。この国で最も冷徹と噂される——ヴェルナー・ゼーリヒ公爵。
「立て」
有無を言わせない響きに、私は彼の手を取っていた。冷たいと思っていた手は、存外温かい。
「虚偽に基づく断罪には異議がある」
公爵は私の前に立った。まるで壁のように。
「クラリッサ・ヴァイス。ローゼン令嬢は先週の夜会に出席していない。弟君の容態悪化で屋敷から出られなかった。侍医の記録にも残っている」
クラリッサの顔が強張る。
「そ、それはフィーネが嘘を——」
「陛下。この件には、証拠がございます」
玉座の国王が身を乗り出す。
「夜会の廊下には、警備のため記録石が設置されておりました。その映像が残っております」
クラリッサの顔から血の気が引いた。
「公爵閣下。なぜ、そのようなものを」
「……気になったからだ。お前が」
意味が分からない。けれど公爵は説明をしなかった。
「記録石なんて、本当にあったか——」
「陛下には既に報告済みだ。『なかった』と言い張ることは、もうできない」
国王が頷く。
「では、その映像を再生せよ」
広間の中央に、光の映像が浮かび上がる。夜会の廊下。二つの人影。
『ねえ、もっと早く私を王太子妃にしてくれないの?』
『分かっている。もう少し待ってくれ』
王太子殿下の声だ。
『あの女がいる限り、私は正式な婚約者になれないのよ?』
『だから手を打っただろう。ローゼン家の弟の治療費を握っている。あの女は逆らえない』
広間が静まり返る。
『ふふ、殿下って賢いわ。でも、もっと早く追い出したいの』
『ならば——お前が何かされたことにすればいい。階段から突き落とされた、とでも』
『さすが殿下! 私、お芝居は得意なの』
映像が途切れた。
「これは何かの——」
「エーリヒ。記録石は魔法的に改竄できぬ。お前も知っておろう」
「陛下! 私は殿下に言われて——」
「黙れ! お前が余計なことを言うからだ! 余は悪くない!」
王太子がクラリッサを睨みつける。その姿を見ても、私の心は動かなかった。
「エーリヒ。婚約者を虚偽の罪で陥れようとしたこと、看過できぬ。王太子の位は剥奪する。クラリッサ・ヴァイスには虚偽の告発の罪を問う」
「そんな……私は王太子妃になるはずだったのに……」
クラリッサが崩れ落ちた。
「ローゼン令嬢。そなたの名誉は必ず回復すると約束しよう」
「……ありがとうございます」
これで、すべてが終わった。婚約は破棄された。けれど名誉は守られた。弟の治療費も王家が持つという。
私は自由だ。なのに——胸の奥が空っぽだった。
「ローゼン令嬢」
公爵が立っていた。
「本日はありがとうございました。この恩は——」
「恩などいらない。一つ聞きたい。なぜ、反論しなかった」
「……諦めていたからです。王太子殿下が私を信じてくれるとは思えませんでした」
公爵は私を見つめていた。氷の瞳の奥に、何かが燃えている気がした。
「来い。話がある」
有無を言わせず引かれ、広間の隅の小部屋に連れ込まれた。
「俺は、お前を見ていた」
「……は?」
「三年前の園遊会で初めて見た。お前は誰にも愛想を振りまかなかった。けれど、庭園で迷子の子供を見つけた時だけ——本当に笑った」
覚えている。園遊会で泣いていた子供を、親御さんのところまで連れて行った時のことだ。
「その笑顔が忘れられなかった。だから調べた。弟のこと。婚約が政略でしかないこと。お前が王太子の婚約者である限り、手は出せなかった。だが——婚約破棄の話が出た時、俺は動くと決めた」
この人は、最初から私を助けるつもりだったのか。
「ヴェルナーでいい。名前で呼べ」
「……ヴェルナー」
名前を呼ぶと、彼の目がわずかに細くなった。
「もう一度」
「ヴェルナー」
「……ああ」
彼の手が頬に触れた。
「俺のものになれ」
「は」
「お前を、俺にくれ」
「今日婚約破棄されたばかりで——」
「だから言っている。お前が自由になった今、俺以外に取られるのは我慢ならない。三年待った。これ以上待つつもりはない」
「私、貴方のことをほとんど知らないんです」
「知ればいい。俺も、お前をもっと知りたい」
ヴェルナーが私の手を取った。
「俺の隣にいろ。弟の治療も全て面倒を見る。お前は、もう諦めなくていい」
その言葉に、心が揺れた。
ずっと諦めることばかりだった。愛のない婚約も、弟のための犠牲も。すべてを受け入れて感情を殺してきた。
けれど、この人は——。
「私、面倒な女ですよ」
「知っている」
「素直じゃないし、意地っ張りだし」
「それがいい」
「……本当に我が儘な人ですね」
「お前に言われたくない」
思わず笑ってしまった。三年ぶりかもしれない。心から笑ったのは。
「——分かりました。貴方のものになります」
ヴェルナーの目がわずかに見開かれ、口元が緩んだ。
「ならば今すぐ広間に戻る。お前が俺のものだと宣言する」
「え、待っ——」
待たなかった。私の手を引いて広間に戻り、国王の前に進み出る。
「陛下。本日、フィーネ・ローゼンを俺の婚約者として迎えたいと存じます」
広間が騒然となった。
「ヴェルナー公爵が婚約!?」
「今婚約破棄されたばかりの——」
ざわめきの中、ヴェルナーが私を振り向いた。
「異論は」
私は——笑った。
「ございません」
国王がしばらく私たちを見つめ——笑った。
「よかろう。ヴェルナー・ゼーリヒ公爵と、フィーネ・ローゼンの婚約を、余は認める」
私の耳には、隣の人の温もりだけが確かだった。
一ヶ月後。ゼーリヒ公爵邸の庭園。
「姉さん、ここのお菓子、美味しいね」
弟のトビアスが笑っている。容態は驚くほど良くなっていた。ヴェルナーが最高の魔法医を呼び、最高の薬を惜しみなく使ってくれたおかげだ。
「フィーネ」
ヴェルナーが歩いてきて、当然のように隣に座り、肩に手を回す。
「弟の前で……」
「構わん」
「あはは、姉さんのこと本当に好きなんですね」
「当然だ。この女は俺のものだ」
私の顔が熱くなる。
「エーリヒとヴァイス令嬢の処分が決まった。降格、爵位剥奪、修道院送りだ」
厳しい処分だった。けれど私は何も感じなかった。
「……私、彼らを恨んでいないの。恨む価値もないって。冷たいかな」
「お前はお前でいい。俺はお前の全部が好きだ。冷たいところも、意地っ張りなところも」
「……ヴェルナー」
「俺の隣で、お前のままでいろ」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「……私も、貴方の全部が好きよ」
ヴェルナーの腕が、私を包み込む。
諦めることしか知らなかった私に、この人は「受け入れる」ことを教えてくれた。
隣にいるこの人の手を、私はもう離さない。
新しい朝日が、私たちの未来を照らしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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