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反論しません。ですから、どうか私を見捨ててください

作者: 夢見叶
掲載日:2026/01/26

「——よって、フィーネ・ローゼンとの婚約を、本日をもって破棄する」


 王宮の大広間に、王太子エーリヒの声が響いた。


 私は膝をついたまま、冷たい床を見つめている。


「異論は」


「……ございません」


 周囲がざわめく。婚約破棄を言い渡された令嬢が、反論もなく受け入れるなど前代未聞だろう。


 けれど私には、抗う理由がなかった。


 弟のトビアスは生まれつき体が弱く、高額な魔法薬がなければ生きられない。その治療費は王太子殿下の「好意」で賄われていた。


『反論すれば、弟への援助は打ち切る』


 昨晩届いた手紙が、私の口を縫い付けている。


「殿下、私からも」


 甘い声が響いた。王太子の隣のクラリッサ・ヴァイス伯爵令嬢だ。


「フィーネ・ローゼンは、私を階段から突き落としました。先週の夜会で、殿下と親しくしていた私が気に入らなかったのでしょう」


 嘘だ。あの夜、私は弟の容態悪化で屋敷から出られなかった。


 けれど口を開こうとした瞬間、クラリッサの視線が私を射抜く。


 ——分かっているわね?


「フィーネ。何か言うことは」


「……ございません」


「やはり沈黙は肯定と同じだ。よってローゼン子爵家には相応の処分を——」


「待て」


 低く静かな声。その一言で、広間の空気が凍りついた。


 人垣から一人の男が歩いてくる。漆黒の髪に、氷のような灰色の瞳。この国で最も冷徹と噂される——ヴェルナー・ゼーリヒ公爵。


「立て」


 有無を言わせない響きに、私は彼の手を取っていた。冷たいと思っていた手は、存外温かい。


「虚偽に基づく断罪には異議がある」


 公爵は私の前に立った。まるで壁のように。


「クラリッサ・ヴァイス。ローゼン令嬢は先週の夜会に出席していない。弟君の容態悪化で屋敷から出られなかった。侍医の記録にも残っている」


 クラリッサの顔が強張る。


「そ、それはフィーネが嘘を——」


「陛下。この件には、証拠がございます」


 玉座の国王が身を乗り出す。


「夜会の廊下には、警備のため記録石が設置されておりました。その映像が残っております」


 クラリッサの顔から血の気が引いた。


「公爵閣下。なぜ、そのようなものを」


「……気になったからだ。お前が」


 意味が分からない。けれど公爵は説明をしなかった。


「記録石なんて、本当にあったか——」


「陛下には既に報告済みだ。『なかった』と言い張ることは、もうできない」


 国王が頷く。


「では、その映像を再生せよ」


 広間の中央に、光の映像が浮かび上がる。夜会の廊下。二つの人影。


『ねえ、もっと早く私を王太子妃にしてくれないの?』


『分かっている。もう少し待ってくれ』


 王太子殿下の声だ。


『あの女がいる限り、私は正式な婚約者になれないのよ?』


『だから手を打っただろう。ローゼン家の弟の治療費を握っている。あの女は逆らえない』


 広間が静まり返る。


『ふふ、殿下って賢いわ。でも、もっと早く追い出したいの』


『ならば——お前が何かされたことにすればいい。階段から突き落とされた、とでも』


『さすが殿下! 私、お芝居は得意なの』


 映像が途切れた。


「これは何かの——」


「エーリヒ。記録石は魔法的に改竄できぬ。お前も知っておろう」


「陛下! 私は殿下に言われて——」


「黙れ! お前が余計なことを言うからだ! 余は悪くない!」


 王太子がクラリッサを睨みつける。その姿を見ても、私の心は動かなかった。


「エーリヒ。婚約者を虚偽の罪で陥れようとしたこと、看過できぬ。王太子の位は剥奪する。クラリッサ・ヴァイスには虚偽の告発の罪を問う」


「そんな……私は王太子妃になるはずだったのに……」


 クラリッサが崩れ落ちた。


「ローゼン令嬢。そなたの名誉は必ず回復すると約束しよう」


「……ありがとうございます」


 これで、すべてが終わった。婚約は破棄された。けれど名誉は守られた。弟の治療費も王家が持つという。


 私は自由だ。なのに——胸の奥が空っぽだった。


「ローゼン令嬢」


 公爵が立っていた。


「本日はありがとうございました。この恩は——」


「恩などいらない。一つ聞きたい。なぜ、反論しなかった」


「……諦めていたからです。王太子殿下が私を信じてくれるとは思えませんでした」


 公爵は私を見つめていた。氷の瞳の奥に、何かが燃えている気がした。


「来い。話がある」


 有無を言わせず引かれ、広間の隅の小部屋に連れ込まれた。


「俺は、お前を見ていた」


「……は?」


「三年前の園遊会で初めて見た。お前は誰にも愛想を振りまかなかった。けれど、庭園で迷子の子供を見つけた時だけ——本当に笑った」


 覚えている。園遊会で泣いていた子供を、親御さんのところまで連れて行った時のことだ。


「その笑顔が忘れられなかった。だから調べた。弟のこと。婚約が政略でしかないこと。お前が王太子の婚約者である限り、手は出せなかった。だが——婚約破棄の話が出た時、俺は動くと決めた」


 この人は、最初から私を助けるつもりだったのか。


「ヴェルナーでいい。名前で呼べ」


「……ヴェルナー」


 名前を呼ぶと、彼の目がわずかに細くなった。


「もう一度」


「ヴェルナー」


「……ああ」


 彼の手が頬に触れた。


「俺のものになれ」


「は」


「お前を、俺にくれ」


「今日婚約破棄されたばかりで——」


「だから言っている。お前が自由になった今、俺以外に取られるのは我慢ならない。三年待った。これ以上待つつもりはない」


「私、貴方のことをほとんど知らないんです」


「知ればいい。俺も、お前をもっと知りたい」


 ヴェルナーが私の手を取った。


「俺の隣にいろ。弟の治療も全て面倒を見る。お前は、もう諦めなくていい」


 その言葉に、心が揺れた。


 ずっと諦めることばかりだった。愛のない婚約も、弟のための犠牲も。すべてを受け入れて感情を殺してきた。


 けれど、この人は——。


「私、面倒な女ですよ」


「知っている」


「素直じゃないし、意地っ張りだし」


「それがいい」


「……本当に我が儘な人ですね」


「お前に言われたくない」


 思わず笑ってしまった。三年ぶりかもしれない。心から笑ったのは。


「——分かりました。貴方のものになります」


 ヴェルナーの目がわずかに見開かれ、口元が緩んだ。


「ならば今すぐ広間に戻る。お前が俺のものだと宣言する」


「え、待っ——」


 待たなかった。私の手を引いて広間に戻り、国王の前に進み出る。


「陛下。本日、フィーネ・ローゼンを俺の婚約者として迎えたいと存じます」


 広間が騒然となった。


「ヴェルナー公爵が婚約!?」


「今婚約破棄されたばかりの——」


 ざわめきの中、ヴェルナーが私を振り向いた。


「異論は」


 私は——笑った。


「ございません」


 国王がしばらく私たちを見つめ——笑った。


「よかろう。ヴェルナー・ゼーリヒ公爵と、フィーネ・ローゼンの婚約を、余は認める」


 私の耳には、隣の人の温もりだけが確かだった。


 一ヶ月後。ゼーリヒ公爵邸の庭園。


「姉さん、ここのお菓子、美味しいね」


 弟のトビアスが笑っている。容態は驚くほど良くなっていた。ヴェルナーが最高の魔法医を呼び、最高の薬を惜しみなく使ってくれたおかげだ。


「フィーネ」


 ヴェルナーが歩いてきて、当然のように隣に座り、肩に手を回す。


「弟の前で……」


「構わん」


「あはは、姉さんのこと本当に好きなんですね」


「当然だ。この女は俺のものだ」


 私の顔が熱くなる。


「エーリヒとヴァイス令嬢の処分が決まった。降格、爵位剥奪、修道院送りだ」


 厳しい処分だった。けれど私は何も感じなかった。


「……私、彼らを恨んでいないの。恨む価値もないって。冷たいかな」


「お前はお前でいい。俺はお前の全部が好きだ。冷たいところも、意地っ張りなところも」


「……ヴェルナー」


「俺の隣で、お前のままでいろ」


 私は彼の胸に顔を埋めた。


「……私も、貴方の全部が好きよ」


 ヴェルナーの腕が、私を包み込む。


 諦めることしか知らなかった私に、この人は「受け入れる」ことを教えてくれた。


 隣にいるこの人の手を、私はもう離さない。


 新しい朝日が、私たちの未来を照らしていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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