気づかせてくれた人 〜 進めた一歩 〜
診察室に、時計の針の音だけが響いていた。
医師の口から告げられた病名に、母も私も言葉を失った。
夜盲症。夜になると見えにくくなり、視野も徐々に狭まっていくという。
「指定難病です」
その一言が、診察室の空気をさらに重くした。
私自身、動揺を隠すことができずに、
医者からの問いかけに反応が遅れてしまうほど。
母の症状は、まだそこまでひどく進行してはいない。
進行のスピードが遅いのは、年齢のおかげかもしれない。
とは言っても、ずっと昔から症状はあったようだ。
ーー思い返せば、
「ドンッ」
「ちょっと、何やってんの!」
「痛い……頭ぶつけちゃった。ねぇ、どうなってる。」
「コブ出来てるよ。血は出てないみたいだけど。」
こういったことは、割とよくあることだった。
家族の中では、母の性格も相まって、母はおっちょこちょいだから。
そんな認識でしかなかった。
診察帰りの母は、静かだった。
いつもなら、
「帰りに美味しいものでも食べよう。」
「駅の方で少し洋服でも見に行こうか。」
そんなふうに私に声をかけてくる。
今は、そんな気分になれるわけもない。
助手席で窓の外を見ながら、黙り込んでいる。
「大丈夫?」
私がそう声をかけると、
「何が?お母さんは目が見えないわけじゃないから、平気だよ。」
なんて事ない。みたいに。
その言葉を聞いて、少し息苦しさを感じる。
このままだと、母の前で泣いてしまいそう。
母を家に送り届け、その足でバイト先であるレストランに向かった。
店に着くと、私の信頼している先輩が、ちょうど休憩に入るところだった。
「奈々さん、こんにちは。」
「あれぇ、久美!どしたのぉ?なんかあった?」
「大した話じゃないんですけど、ちょっといいですか?」
奈々さんが少し眉間に皺を寄せてから、私の顔を見つめる。
「いやいや、大した話なんでしょ。いいよ、いいよ、こっち行こ。」
そう言いながら、私の背中を支えながら、
店のカウンター横の、個室席に連れて行ってくれた。
仕切られた個室には横開きの扉があり、
店の中のアットホームな雰囲気からは切り離され、
落ち着いた雰囲気の空間。
今は午後ということもあって、お客さんはまばらだった。
扉の向こうには、午後のティータイムを楽しんでいる。
主婦たちが楽しそうに話している声が、かすかに聞こえる程度だ。
案内された席に座る。
同時に、店のコーヒーマシーンが動く音が聞こえて、コーヒーの香ばしい香りが、
ふんわりと漂ってきた。
それを感じたら、何かに迫られるような感覚が少し和らいだような気がした。
「くみ、どうした?」
その優しい、問いかけがトリガーだった。
「お母さんが…目の…病気で…」
話を始めた瞬間から、ギリギリ押し留めていた感情の波が一気に押し寄せ、
押さえつけていた感情が崩れ、涙となって溢れ出した。
なんで母だったんだろう。
どうして…考えるのが苦手で、不器用で、
自分の障害を、ただ受け入れる、それさえできない母が。
私なら、自分に障害があると受け入れることができた。
生活しやすいように工夫することだってできた。
私だったら……私でよかったのに。
感情ばかりが頭の中を駆け巡り、言葉にならない。
怖くて、不安で。
先輩は黙って私の言葉を待っていてくれる。
けれど、細かい気持ちまでは上手く話すことができなかった。
「なんでお母さんなんだろう、とか……私ならもっと上手くやれるのに、
とか……そんなことばかり考えてて……綺麗事だって、わかってるんだけど…」
ひとしきり泣いて、呼吸だけが静かに残った頃、先輩がぽつりと言った。
「くみは、優しすぎるんだよね。」
顔を上げると、先輩が優しく笑っていた。
「くみはさぁ、言葉にする気持ちが全部ほんとなんだよ。
ちょっと変わってるんだよね……。
人間ってさ、誰かに相談するとき、なんとなく答えは決まってるんだと思う。
でも、くみが『わかんない』って言うときは、本当にわかんないんだと思う。
だから混乱して、こんなになっちゃうんだよね。
そこがいいとこだけど、苦しいと思うよ。」
そうか、本当にどうしようもないことなんだ。
私にとって、どうしようもないのに、変えたいって思ってるんだ。
だから……私、本当にわからないんだ……。
何か解決したというわけでもないのに、少しずつ涙が引いていくのがわかる。
奈々さんは私にとって、大先輩だけど、友達みたいに付き合える人だ。
一緒にご飯に行ったり、初詣に行ったこともある。
優しくて、冷静で、もっと一緒にいたいなと思えるような魅力のある人だ。
今日、奈々さんに会って、話せて良かった…本当に…。
「お母さんのこと、心配なのはわかるけどさ。くみはお医者じゃないんだから。
難しいことまで考えなくていいの。」
「はい…。」
「私はくみになることは出来ないし、今の気持ちを全部理解することは出来ないけどさ。」
「……」
「くみの強いとこは知ってるよ。弱いとこも知ってるけど。」
「……はい。」
「くみもお母さんの強いとこと、弱いとこ、両方見て、弱いとこを助けてあげたら
いいんじゃないかな。あんまり深く考えすぎないで。」
「はい。」
「くみ、お母さんが病気だったこと。くみが、お母さんのこと大切だって思ってること、
どっちも変わらないことなんだよ。」
「……」
「だから、それだけを受け止めればいいんだよ。」
「そう、なんですね。……何か出来ること、考えてみます。」
「そうそう、大丈夫。」
「忙しいのに、聞いてくれてありがとうございました。」
奈々さんはズルい…彼女の言葉はいつも、私の気持ちを軽くする。
「いいえ、なんかあったら夜中でも連絡しておいで。」
明るくて優しい言葉に、また目の辺りが熱くなる。
いつもそうだ。奈々さんは、いつも。
「ありがとうございました。」
店を出ると、秋の夜風が私の髪を揺らした。
秋夜の少しひんやりした空気を感じる。
静かに、息をつく。
鈴虫の声が、誰かを呼んでいるみたいに響いていた。
金木犀の香りに気づいたとき、胸の奥にまだ整理しきれないものが渦巻いていた。
それが希望なのか、不安の名残なのか、言葉にはできない。
けれど——奈々さんがいてくれる。
「大丈夫。」彼女の声が、温かく響く。
私は一人じゃないーーそう思うだけで、前に進める気がした。
帰り道、涙はもう出なかった。
母の病気は変わらない。それでも——
私にできることを、一つずつ考えてみよう。
胸に残る小さなつかえが、いつか光に変えて行けるように。




