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気づかせてくれた人 〜 進めた一歩 〜

作者:
掲載日:2025/10/09

診察室に、時計の針の音だけが響いていた。


医師の口から告げられた病名に、母も私も言葉を失った。

夜盲症。夜になると見えにくくなり、視野も徐々に狭まっていくという。


「指定難病です」

その一言が、診察室の空気をさらに重くした。


私自身、動揺を隠すことができずに、

医者からの問いかけに反応が遅れてしまうほど。


母の症状は、まだそこまでひどく進行してはいない。


進行のスピードが遅いのは、年齢のおかげかもしれない。

とは言っても、ずっと昔から症状はあったようだ。


ーー思い返せば、


「ドンッ」


「ちょっと、何やってんの!」

「痛い……頭ぶつけちゃった。ねぇ、どうなってる。」

「コブ出来てるよ。血は出てないみたいだけど。」


こういったことは、割とよくあることだった。

家族の中では、母の性格も相まって、母はおっちょこちょいだから。

そんな認識でしかなかった。


診察帰りの母は、静かだった。


いつもなら、


「帰りに美味しいものでも食べよう。」


「駅の方で少し洋服でも見に行こうか。」


そんなふうに私に声をかけてくる。


今は、そんな気分になれるわけもない。

助手席で窓の外を見ながら、黙り込んでいる。


「大丈夫?」


私がそう声をかけると、


「何が?お母さんは目が見えないわけじゃないから、平気だよ。」


なんて事ない。みたいに。


その言葉を聞いて、少し息苦しさを感じる。

このままだと、母の前で泣いてしまいそう。


母を家に送り届け、その足でバイト先であるレストランに向かった。


店に着くと、私の信頼している先輩が、ちょうど休憩に入るところだった。


「奈々さん、こんにちは。」

「あれぇ、久美!どしたのぉ?なんかあった?」

「大した話じゃないんですけど、ちょっといいですか?」


奈々さんが少し眉間に皺を寄せてから、私の顔を見つめる。


「いやいや、大した話なんでしょ。いいよ、いいよ、こっち行こ。」


そう言いながら、私の背中を支えながら、

店のカウンター横の、個室席に連れて行ってくれた。


仕切られた個室には横開きの扉があり、

店の中のアットホームな雰囲気からは切り離され、

落ち着いた雰囲気の空間。


今は午後ということもあって、お客さんはまばらだった。

扉の向こうには、午後のティータイムを楽しんでいる。

主婦たちが楽しそうに話している声が、かすかに聞こえる程度だ。


案内された席に座る。


同時に、店のコーヒーマシーンが動く音が聞こえて、コーヒーの香ばしい香りが、

ふんわりと漂ってきた。


それを感じたら、何かに迫られるような感覚が少し和らいだような気がした。


「くみ、どうした?」


その優しい、問いかけがトリガーだった。


「お母さんが…目の…病気で…」


話を始めた瞬間から、ギリギリ押し留めていた感情の波が一気に押し寄せ、

押さえつけていた感情が崩れ、涙となって溢れ出した。


なんで母だったんだろう。


どうして…考えるのが苦手で、不器用で、


自分の障害を、ただ受け入れる、それさえできない母が。


私なら、自分に障害があると受け入れることができた。


生活しやすいように工夫することだってできた。

私だったら……私でよかったのに。


感情ばかりが頭の中を駆け巡り、言葉にならない。

怖くて、不安で。


先輩は黙って私の言葉を待っていてくれる。

けれど、細かい気持ちまでは上手く話すことができなかった。


「なんでお母さんなんだろう、とか……私ならもっと上手くやれるのに、

とか……そんなことばかり考えてて……綺麗事だって、わかってるんだけど…」


ひとしきり泣いて、呼吸だけが静かに残った頃、先輩がぽつりと言った。


「くみは、優しすぎるんだよね。」


顔を上げると、先輩が優しく笑っていた。


「くみはさぁ、言葉にする気持ちが全部ほんとなんだよ。

ちょっと変わってるんだよね……。

人間ってさ、誰かに相談するとき、なんとなく答えは決まってるんだと思う。


でも、くみが『わかんない』って言うときは、本当にわかんないんだと思う。

だから混乱して、こんなになっちゃうんだよね。


そこがいいとこだけど、苦しいと思うよ。」


そうか、本当にどうしようもないことなんだ。


私にとって、どうしようもないのに、変えたいって思ってるんだ。


だから……私、本当にわからないんだ……。


何か解決したというわけでもないのに、少しずつ涙が引いていくのがわかる。


奈々さんは私にとって、大先輩だけど、友達みたいに付き合える人だ。

一緒にご飯に行ったり、初詣に行ったこともある。


優しくて、冷静で、もっと一緒にいたいなと思えるような魅力のある人だ。

今日、奈々さんに会って、話せて良かった…本当に…。


「お母さんのこと、心配なのはわかるけどさ。くみはお医者じゃないんだから。

難しいことまで考えなくていいの。」

「はい…。」


「私はくみになることは出来ないし、今の気持ちを全部理解することは出来ないけどさ。」

「……」


「くみの強いとこは知ってるよ。弱いとこも知ってるけど。」

「……はい。」


「くみもお母さんの強いとこと、弱いとこ、両方見て、弱いとこを助けてあげたら

いいんじゃないかな。あんまり深く考えすぎないで。」

「はい。」


「くみ、お母さんが病気だったこと。くみが、お母さんのこと大切だって思ってること、

どっちも変わらないことなんだよ。」

「……」


「だから、それだけを受け止めればいいんだよ。」


「そう、なんですね。……何か出来ること、考えてみます。」


「そうそう、大丈夫。」


「忙しいのに、聞いてくれてありがとうございました。」


奈々さんはズルい…彼女の言葉はいつも、私の気持ちを軽くする。


「いいえ、なんかあったら夜中でも連絡しておいで。」


明るくて優しい言葉に、また目の辺りが熱くなる。


いつもそうだ。奈々さんは、いつも。


「ありがとうございました。」




店を出ると、秋の夜風が私の髪を揺らした。


秋夜の少しひんやりした空気を感じる。

静かに、息をつく。


鈴虫の声が、誰かを呼んでいるみたいに響いていた。


金木犀の香りに気づいたとき、胸の奥にまだ整理しきれないものが渦巻いていた。

それが希望なのか、不安の名残なのか、言葉にはできない。


けれど——奈々さんがいてくれる。

「大丈夫。」彼女の声が、温かく響く。


私は一人じゃないーーそう思うだけで、前に進める気がした。


帰り道、涙はもう出なかった。


母の病気は変わらない。それでも——


私にできることを、一つずつ考えてみよう。


胸に残る小さなつかえが、いつか光に変えて行けるように。

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