第二章 エテルティの心
まだ国が存在しないほどの遥かな昔、欲するままに血を求め、数多の人間を喰い殺して回った邪悪な蛇がいた。いつしか蛇王ヴィークと呼ばれ恐れられるようになった魔物を討伐し、この地に平穏を齎そうと立ち上がった一人の若者とその仲間たちの祈りに応えて光臨したのが、永遠の女神・エテルデアと四天使達だ。女神の力を受けた若者と、四天使の力を受けた仲間たちの活躍により、邪悪なる蛇王は倒された。
はじめに立ち上がった若者は勇者と讃えられ、人々に望まれて後に王となる。
光臨したこの地が未来永劫平和であれかしと願い、女神と四天使はそれぞれ分身を残して天に還っていった。
勇者と女神の分身は、光を司るエテルティ王家へ。
魔女と炎の天使の分身は、炎を司るリファエル公爵家へ。
剣士と水の天使の分身は、水を司るキアエル公爵家へ。
楽師と風の天使の分身は、風を司るカデルマ公爵家へ。
戦士と土の天使の分身は、土を司るエレオン公爵家へ。
神話の時代から今へと、系譜を繋げている。
その系譜を受け継いだのが、龍女王アデル。
流行り病で断絶した、炎のリファエル家唯一の生き残りにして当主。
そして、女神の国エテルティの女王である。
エテルティの王の証である〈女神の鎧〉を纏い、〈女神の剣〉を携えたその姿は、生まれつき盲目であることを揶揄した「盲の女王」という減らず口を封殺するほどの威厳に満ちていた。
「エテルティ女王、アデル・エテルティである。東の隣国ローナの軍と見受けるが、何故我が国の領土を侵す?」
「我々はローナ国、王太子ラサム殿下の親衛隊! 此度の進軍は、軍事演習に過ぎぬ」
「詭弁だな。 軍事演習がしたければ、国内でやれ」
「いずれ、この場所は我が国のものになるのだから構う事はあるまい!」
盲目の女王ひとり、つがいと名高い龍の聖獣の姿はない。
だから、気が大きくなったのだろう。
こんな女に何ができると、親衛隊の者達が笑う。
王太子の親衛隊と名乗った隊長と思しき男以外、誰も彼もがアデルを舐めていた。
「この場所が、どこの国のものになると? 言葉には気をつけろよ、雑兵」
「この……! たまたま王冠が転がってきただけの、盲の女の分際で生意気な!」
挑発に血が上った親衛隊員のひとりが、剣を手にアデルに襲い掛かる。
アデルはまるで、目が見えているかのように無駄のない動きで攻撃を躱してみせた。魔力を纏った拳、魔力掌で相手の剣を砕き、その余波で親衛隊員自身も後方に飛ばされ、他の隊員達の前で地面に蹲る羽目になった。 親衛隊長が止めるよりも早くアデルに他の攻撃が及んだことで、魔力掌乱舞により、親衛隊員達が宙に舞う。
(この……化け物め……!)
偶然アデルの後ろにまわる形になった親衛隊員が、槍を手に背後から襲いかかる。
目が見えないのなら尚のこと、不意打ちには弱いはず。 勝利を確信した途端、黒い騎士服の男が立ちはだかる。 白狼公イザークの名を思い出す頃には、槍ごと腕がへし折られていた。
「この御方を、どなたと心得ている。 無礼者が」
「イザークお前、やりすぎぃ……」
「おや、万死がよろしかったので?」
「よし分かった、お前はもう黙っとけ」
龍女王アデルの御前でなければ、白狼公イザークに確実に殺されていた。
槍と腕をへし折られた隣国の親衛隊員は、軽蔑を隠そうともしないイザークの視線に心底怯える。不穏な空気を察知したアデルは、イザークの顔を触れた両手で感じ、おっかない顔をしているのを見抜いてぺちんと叩いた。 国で一番の美形が台無しだぞと咎められたイザークは、叱られたというのに幸せそうだ。 イザークの殺気が緩んだのを肌で感じたアデルはそこで視力強化を掛けて、僅かな光しかない視界を魔法で強引に広げる。 限りある体力を対価にした視力強化で一番に見たいのはやはり、愛を誓った夫の顔だ。 世にも珍しい二色の瞳に宿る光が強まったのを見て、イザークはにっこりと笑った。凶暴化したイザークを宥め、暫く黙らせたいなら口づけを交わせばいいと初夜で学んだアデルは、隣国の者達の前でも躊躇いなくそれを実行した。 先に領土を侵してきたのは隣国なのだから、破廉恥とは言わせない。
イザークの両腕に絡めとられる前にするりと脱出したアデルは、もはや呆然とするしかない親衛隊員の傍に屈み、鍛え抜かれた握力でへし折られた腕の治療に取り掛かる。口づけという名の強化で凶暴性が少し抜けたイザークは「慈悲深き我が女神に栄光あれ」と祈りの言葉を口にしている。 今は亡き大賢者マーリンによって鍛え上げられた魔法の腕によって、へし折られた腕はあっという間に治癒した。
「イザーク、手を」
「御意」
水の天使の祝福を受けたイザークの魔力と、永遠の女神の祝福を受けたアデルの魔力が結ばれた手でひとつになり、空に昇る。 アデルとイザークの合体魔法〈蒼天の慈雨〉は、王国の空を覆い、乾いた空気を穏やかに潤した。水属性魔法をイザークが受け持ってくれるお陰で、アデルは光属性魔法、治癒だけに魔力を割けばいい。 互いに最小限の魔力、最小限の消耗で展開された合体魔法は、強烈な一撃を喰らって地面に伏せたままの隣国の兵士達さえ、癒してみせた。 何故、と呟く親衛隊長にアデルは答える。
これが、エテルティの総意だと。
「ローナ王子の親衛隊長とやら、これが俺の……エテルティの総意だ。 戦火など、俺達は望まない。 蒼天に降る雨のように、森羅万象を潤す在り方をこそ、俺達は望む。 英雄譚など、戦った者達が流した血と汗と涙を美化したものに過ぎないのだから。 誰の血も、誰の涙も、俺は望まない。 エテルティの心を、どうか分かってくれ」
真摯なアデルの言葉と、アデルの肩を抱くイザークの強い瞳に押され、ローナ王子の親衛隊がきた道を引き返していく。 親衛隊の姿が見えなくなってやっと視力強化を解除できたアデルを、イザークは当たり前のように両腕で抱きかかえて城に戻るのだった。
「女王陛下はお疲れです」の一言で人払いをすると同時にアデルの部屋で二人きりになる口実まで手に入れたイザーク。女神の剣と鎧を外した今、アデルに必要なのは強化魔法で酷使してしまった両目を休ませ、久々の戦いに体内で荒ぶる魔力を冷却する時間だった。 城の者達に見守られながらの初夜で「夢のようです、我が君」と耳元で囁いたのをきっかけに、それまで心の中で育んできた敬愛の全てを露わにしたイザークは、アデルの全てを受け入れ、飲み込み、本来は適性がないはずの光と炎属性魔法の扉すらこじ開けてみせた。 アデルが望むなら、荒ぶる魔力の尽くを喜んで引き受けるところだが……輝ける龍女王を何日も独り占めするのは、さすがに気が引ける。 アデルの二色の瞳を絹布の眼帯で塞ぎ、眼帯越しに口づけたイザークは、慣れた手つきでアデルを普段着に着替えさせた。 そのまま先ほどの続きとばかりに自分を両腕の中に閉じ込めたイザークに、さすがのアデルも声をあげずにはいられない。
「おい、イザーク……」
「先ほどは、お預けでしたからね。 私の事は気にせず、おやすみあそばせ」
「やれやれ……こんな寂しがり屋の白狼がいては、倒れるに倒れられんな……」
女王としての責務に侵入者の説得まで加わって、疲れていないほうがおかしい。
イザークの見立てどおり、アデルはすぐに寝息を立てた。 眠っていようが覚醒していようが、どうでもいい。 ただ、愛するだけ。 凛々しいアデルも、無防備なアデルも、イザークにとってはただひたすら愛おしい。 もし、この両腕からアデルを奪う者がいるのなら。 魔狼と恐れられたとて構わず、どんな手を使ってでもアデルを取り返す。 もし、アデルが死に連れ去られたというのなら。
アデルが死に攫われる原因となった者達の喉笛を、ひとり残らず噛みちぎってから後を追うまでだ。 この愛が狂気だというのなら、その狂気すら制圧してみせよう。 その程度のことができずに、何が大公か。二人の初夜に集った者達が、その後口を揃えて「世継ぎの心配は不要」と断言するほど、イザークのアデルへの愛は深く、尽きることがないのだった。