終章 たとえ、魔狼と呼ばれようとも
アデルが、イザークに無断で演説を行ったように。
イザークにも、アデルに打ち明けていない秘密があった。
アデルの部屋の隣にあるイザークの部屋。 その机の引き出しの、更に奥。
イザークしか開けられないように封印を施した箱の中にある、二通の手紙。
初めての出産に挑むアデルの負担を減らそうと、周辺国からの妊娠祝いの品はこちらから丁重に辞退した。 それでも、と思ってくれたのだろう。 せめて手紙だけでもと祝福を寄越してくれた各国の王には、足を向けて寝られない。……ただし、ただひとりを除いて。
ローナ国王ザファイドの名で送られてきた妊娠祝いの手紙の内容を、その陰湿な悪意を、イザークは死ぬまで忘れることはないだろう。
『[目の見える]元気な御子の誕生を、心からお祈りしております』
それを一番望んでいるのは、誰だと思っているのか。
リリアナを身ごもり、酷く痩せ細っていたアデルにこんな陰湿な手紙の存在を知られてはならないと判断したイザークにより、密かに箝口令が敷かれた結果、無事にリリアナを授かることができた。
そして、今。
イザークの手には、ローナ国王代理ラサムの名で送られてきた、出産祝いの手紙がある。
その手紙には、こう書かれていた。
『お母上と違い健康そのものの御子の誕生を、心からお祝い申し上げます』
この世に、こんな醜悪な手紙が存在していいのだろうか?
許されるなら、この手紙を今すぐに火の中に放り込んで、その灰をローナ国がある方向にぶちまけてしまいたかった。 ありったけの言葉で憎しみと呪いを投げつけてやりたかった。 だが、アデルのあの演説を聞いてしまっては。だからイザークは、この二通の手紙を、時が来るまで封印することにした。
いつか、切り札にするために。
ローナ国王の名で送られてきた妊娠祝いを穢したのは、ラサムだろう。
そして今、ラサム自身がローナ国王代理として、堂々と出産祝いを寄越してきた。
ローナ国で、何かが起きようとしている。
それはやがて、アデルとリリアナを傷つけるかもしれない。
もし、その引き金になる人物がいるとしたら、それはきっと……。
「リリアナ、母であるぞ」
娘の顔すら見えなくなった目で、それでもリリアナが愛おしくてたまらないと笑って語りかけるアデルの声。 アデルが指でリリアナの鼻か頬でもくすぐったのだろうか、リリアナがきゃあきゃあとはしゃいでいる声がする。 暫く二人の女神の声に聞き入っていると、アデルが突然慌てだした。
「あれ、指が湿った!? なんで!?」
多分、リリアナがアデルの指をしゃぶったのだろう。 そういえばこの間は、リリアナがアデルの前髪を毟って口に入れたせいで、ちょっとした騒ぎが起きたのだったか。
「龍玉を指輪に仕立てて指に嵌めれば、魔力消費を抑えられるのではないか」
アデルの発案で造られることになった専用の指輪が完成するまで、まだ時がある。
指輪が完成するまでは、誰かがアデルの目の代わりをしなければならないのだ。
「はいはい、今父が参りますよ女神達。 今日はいったい、何が起こったので?」
手紙など最初から存在しなかったかのように、イザークは駆けだした。
自分の命よりも、魂よりも、何よりも大切な二人のもとへ。
「なんか、俺の指が湿ってるんだけど何事?」
「リリアナが、あなたの指をしゃぶったんですよ」
「俺の指って美味しいの?」
「知りませんよ、そんなこと」
まるで漫才のような会話が、どうしようもなく愛おしい。
この幸せだけは。 この時間だけは、誰にも邪魔させない。
たとえこの身が、魔狼と呼ばれようとも。
【完】




