第十三話 攻防
唇が重なった。
人間の世界ではそれを、キスと言う……わけだが。
「おいっ、おい、杜波里!」
王子のキスで目を覚ますのが姫だ、的なことを口にしていたはずだが、杜波里は目を覚まさない。もちろん、円珠は王子ではないし、杜波里も姫ではないわけだから、該当しないといえばそれまでだ。
「話が違う!」
焦る円珠を、男が後ろから嘲笑する。
「おやおや、死を覚悟した最後の行動が、恋人への口付けとは……なかなか粋でいらっしゃる」
「恋人じゃねぇ!」
きっちり否定する円珠。杜波里がいたら「そんなこといちいち言う必要ないでしょう!」と怒られそうだが。
「せっかくですからね、彼女もろとも、魂をいただくことにしましょうか」
男が手を伸ばした。無数の触手が伸びる。
「くそっ、そうはさせねぇ!」
円珠が杜波里から手を離し指で印を結ぶ。どこまで抗えるかはわからないが、せめて杜波里だけでも守らなければと思っていた。杜波里が言っていたもう一つの言葉。
「護符……」
もしかしたら、と期待を込める。
「サヨウナラ!」
男がニヤリと笑いながらそう言い、シュッ、と鞭のように撓る触手を放つ。ビュンと迫りくる触手に向け、円珠が叫んだ。
「斬!」
スパッ
「……な、に?」
円珠の放った見えない刃が、触手ごと男の体を切りつけた。さっきまでとは明らかに違う大きな太刀筋。まるで、ナイフから大鎌に変わったかのような、明らかな違い。男は不意打ちを喰らい、目を見開いたまま後退った。ボタボタッと切られた触手が床に落ち、くねくねと動いて、やがて塵になった。
「貴様、一体何をした!」
男の口調が荒っぽくなる。どうやら本気で驚いているようだ。
しかし、驚いているのは円珠も同じだ。何が起きているのかわからなかった。杜波里にキスをした。ただそれだけなのだから。だが、理由などどうだっていい。今はこの力を、最大限利用することだ。
指先で印を結ぶ。渾身の思いを込めて、放つ。
「縛!」
見えない鎖が男を捕らえた。ジャラ、という音と、その場に膝を突く男。
「くそっ! なんだこれはっ! 外れない!」
捕らえた! さっきはすぐに破られた技が、強化されている。そういえば、と思い出す。鏡禍と対峙した時も、普段以上の力が出せた気がする。確かあの時も、杜波里とキスをしたのではなかっただろうか。まるで呪具を身に着けたかのような、破穢の力の強化。仕組みはわからないが、今はどうでもいい。
このまま首を切り落とすか? と一瞬脳裏をかすめるも、浄化は管轄外。それに、この男は杜波里が取り込むと言っていたのだ。食われた部員の魂の件もある。万が一にも、バラバラにしたことで、消滅しまうようなことになる事態は避けたい。
「そのまま大人しくしててくれよ……」
円珠はそう呟き、その場に座り込んだ。
横たわる杜波里に目を向ける。目を覚ます気配は、まだない。待つしかないのだろうか……と考えていると、階段の下から足音が聞こえた。新たな妖かしが来たのかと、円珠に緊張が走る。だが、
「……円珠?」
「……蓮っ?」
恐々と顔を覗かせたのは蓮だった。円珠は壁に手を付き立ち上がる。駆け寄りたいところだが、足が思うように動かない。
「なんでここにっ?」
「だって、円珠がなかなか戻ってこないから、何かあったんじゃないかと思って」
「他の一年はっ?」
「外で待ってる」
「一人で来たのか?」
「だって、心配だったから」
円珠は大きく息を吐き、蓮を見た。怯えた顔で円珠を見つめる蓮。
「よく来られたな」
「なにそれ、友達のためなら来るだろっ」
ぶはっと声を漏らし笑うと、捕らえられた男の姿を指し、
「なにあれ! 随分凝った演出してるけど、先輩たちが雇った役者か何か?」
と訊ねてきた。
「みんな倒れてるのはどうして? もしかして円珠、怪我してる?」
矢継ぎ早に話す蓮の輪郭が、少しずつ揺れる。
「一体何が起きてるの? なんでまだ円珠は立てるの? おかしいじゃん、こんなの」
「……蓮」
円珠の表情が険しくなる。目の前にいる友人は、友人ではないのだろう。チラ、と視線を移すと、捕えている男はうなだれたまま動かない。
「ふふふ、俺だよ円珠。なんでそんな顔するのさ?」
「蓮の体から離れろ!」
怒りが込み上げる。
「……おや、友人に対して随分な言い方ですねぇ」
口調が変わる。やはり、だ。捕らえられた体を抜け、蓮の体を乗っ取ったのだ。
「お友達が相手では、手が出しずらいですかねぇ?」
蓮が円珠に駆け寄り、拳を突き出してくる。円珠はそれをどうにか躱し、膝を突く。
「どうしました? 反撃はしないのですか?」
今度は足が飛んでくる。避け切れず、庇った腕を蹴られた。
「くそっ」
指で印を結び、
「縛!」
と唱えるも、見えない鎖は蓮をすり抜けた。
「やはり、思った通りですね。あなたの放つ技は、人間には効かない」
痛いところを突かれた。男の言う通りだ。円珠の力が有効なのは、霊体や妖魔のような怪異相手に限られる。人間には何の効力も発揮しない代物だ。
「ではこちらからいきますよっ」
蓮……に乗り移った男は、容赦なく円珠に蹴りを入れてくる。思うように体が動かず、円珠は腕でそれをガードすることしかできなかった。
「くっ……ぐはっ」
何度も蹴られ、踏まれ、動くことも出来ない。
「ハァッ、ハァッ、少しっ、疲れてきましたねぇ。人間の体というのは、なんとも不便だ」
そう言った次の瞬間、蓮の体が床に崩れ落ちる。その姿を、円珠も同じ床の上で見ていた。もう、顔を上げる力も残っていない。
パリン、という音がして、円珠が男に掛けた鎖が砕けた。万事休す、だ。
「ふぅ、やはりこっちの体の方がいい。この体は自由ですからね」
コキコキと肩を鳴らすように動かすと、
「さぁ、それではいただくとしましょうか」
ぎゅるる、と触手が伸びる。円珠が手を合わせ、印を結んだ。
「そうはさせません!」
「ぐあっ」
触手が円珠の首を捕らえ、締め上げる。
「魂を喰らうまで、少しの時間でいいので待っていただけませんか? 殺すのはそれからにしたいのですよ。大人しくなさってください、お客様」
首を圧迫され、気が遠くなる。ぼんやりする頭。意識が遠くなる。
「そこまでよ!」
暗闇に、凛とした声が響いた。
「随分好き勝手やってくれてるみたいね」
声の主は、怒っているようだった。赤い髪がゆらゆらと動き、深紅の瞳がギラリと輝く。低く、地の底から響き渡るようなその声に慄いたのか、触手の力が弱まる。
「そ、そんな脅しは効きませんよ。あなたが何かすればこの男の命は」
「縁尽きたる魂よ、理の渦に沈め。我の力となり、その命を捧げよ!」
杜波里が男に手を伸ばす。
「なっ」
話途中で切られ、その上、容赦なく力を見せつけられる。これでも人の魂を多数食ったのだ。それなりの力を手にしている。にも拘らず、圧倒的な力で吸い込まれてゆく体。まだ計画は遂行されていない。あの方の求めに応えられていないというのに、こんなに簡単にねじ伏せられてしまうというのかと、男は絶望の表情で赤い妖かしを見つめた。
「どうしてっ、何故こんな力がっ」
「くたばれ、外道!」
杜波里が放つ暴言と共に、男はシュルリと杜波里に吸い込まれていった。一瞬の出来事であり、跡形もない。
「円珠!」
駆け寄る杜波里の姿が見える。
「ルビーみたいだな……」
円珠はふっと微笑むと、そのまま意識を手放した。




