第十二話 背水の陣
「くそっ、どこ行きやがった!」
円珠が辺りを見渡す。まるで闇の中に掻き消えるかのように、男の姿は消え失せたのだ。
「杜波里!」
「今探してる!」
杜波里は神経を集中し、気配を探る。最初に見つけたときとは比べ物にならないくらい、力が強くなっている。たかが悪霊、という枠は、とうに超えた。こうなると、気配を消すこともできるし、誰かの体に乗り移ることもできる。厄介だ。
「あああっ、ぜんっぜんわかんない!」
やけっぱちのように杜波里が叫んだ。
「わかんないって、お前なぁ」
「だって仕方ないじゃないっ。人の魂喰らった悪霊って結構厄介なんだからねっ?」
「知ってるけどっ、こいつら全員連れて外へ出るのは無理だぞ?」
そう口にした次の瞬間、ふらりとメイが立ち上がった。
「蜂須賀っ?」
「蜂須賀さん!」
それにつられるかのように、ゆらりゆらりと他の人間も体を揺らし立ち上がる。
「どうなってんだ……?」
呟く円珠に、杜波里が答える。
「……操られてるんだわ」
まるでゾンビのように揺れながら歩き出す部員たち。目は半分だけ開いているが、虚ろで何も映してはいない。廊下を出ると、まっすぐ非常階段の方へと向かう。
「どこに行くんだよ?」
後を追いながらひとりごちる円珠に、杜波里がハッと肩を震わせる。
「マズい!」
「はっ?」
「円珠、この子たち止めないとマズいわっ」
「なにっ?」
杜波里は何かに気付いたようで、ひどく慌てている。円珠は一番後ろを歩いていた女子の肩を掴んだ。
「おい、止まれ!」
しかし、ブンと腕を回し、躱される。その力は、尋常じゃないほど強い。
「ちょ、待てって!」
今度は腕を掴む。しかしそれも振り払われてしまう。これでは埒が明かない。
「くそっ、縄で縛りつけでもしないと止められそうもないぞっ」
頭を掻く円珠を見て、杜波里が舌打ちをする。
「仕方ない、ちょっとごめんねっ」
言うが早いか、杜波里が男子部員の一人の腹に拳を見舞う。男子部員は体を九の字に曲げ、その場に膝を突いた。荒っぽいやり方だ。だが、成功したかに見えたのは一瞬で、腹を殴られた男子生徒は、またすぐに立ち上がり、歩き出してしまった。
「チッ、駄目か」
体を張って止めようとしても、薙ぎ倒されてしまう。そうこうしている間に、部員たちは非常階段を上へ上へと進んでいく。その先にあるのは……屋上。
「屋上でなにする気なんだ?」
息を切らせながら杜波里に問うと、信じられない答えが返ってくる。
「飛び降り自殺」
「はっ?」
「操られてるんだから、正確には自殺じゃないけど。奴はみんなを屋上から落とそうとしてる……んだと思う」
「なんでっ?」
「怨念」
「え?」
「みんなの生きる意志とは裏腹に、命を落とさせる。そこで生まれた未練や後悔、悔しさみたいなマイナスの気を喰おうって魂胆じゃないかしらね」
なんとも無茶苦茶な話だ。
しかし、もしそうであるのなら、なんとしてでも足止めをしなければならない。杜波里があの悪霊を取り込めば、皆の魂の返却は可能だが、死んでしまってはすべて無意味だ。
「なんとかならないのかっ?」
「……一か八か、やってみるけど」
「けど?」
「私の意識が途絶えるから、円珠、私を守ってね」
「は?」
「いいこと、どうしようもない事態に陥ったら眠っている私にキスしなさい」
「はぁぁ? なんでっ?」
顔を赤らめ、言い返す。
「お姫様は、王子からのキスで目覚めるって相場が決まってるからよ」
「なに言ってっ」
「護符だって、前に言ったでしょ?」
そう返すと、杜波里はその場にパタリと倒れた。それからほどなくして、歩いていた生徒たちの動きも止まる。しかし、一体どこで何が行われているのか、円珠にはまったくわからなかった。
「……どうなってんだよ?」
倒れた杜波里の体を起こし、壁に背を向け座らせる。まだ髪は赤いままだ。
目を閉じて眠っているかのような杜波里の姿は、とても美しかった。妖かしとは、こうして見た目でも人を惑わせる。力が強ければ強いほど美しいのだと聞いたことがあるが、だとするなら鏡禍などは、妖かしの中では雑魚だったということなのだろうか?
「まさかな。兄さんがあんなに手古摺った相手だぞ?」
思わず口に出してしまう。
それにしても、とさっきの杜波里の言葉を思い出す。「どうしようもなくなったらキスをしろ」とは、刺激の強い話だ。改めて杜波里を見る。主に、その唇を。ムズ痒いおかしな気持ちを払拭すべく、頭を振った。
「……だぁぁ! なんなんだよ、一体!」
ある日突然現れた妖かし。口が悪く、素直じゃない妖かし。しかしこうして一緒にいると、悪いヤツではないのだということはわかる。雨継が信じたのだから、味方だと思って間違いはないのだろうが……。
「邪魔をされては困ります、お客様」
「っ!」
突然声を掛けられ、振り向く。非常階段の踊り場に、さっきのホテルマンの姿が見えた。
「お前っ」
「私はまだ完全体になっておりません。あの方の命を全うしなければなりませんので、邪魔はやめていただけますか?」
笑顔を向けられているのに、背筋が凍るほど寒い。そしてこいつの言う「あの方」というのが、杜波里の言っていた……。
「あの方、ってのはどこの誰なんだよ?」
純粋な疑問。それもあるが、なんとか時間を稼がなければ。杜波里はまだ眠ったままなのだから。
「それをお客様に教える必要はないかと」
「おいおい、俺は客だぞ? 答えられる質問なら答えるのが、真のホテルマンじゃないのか?」
こんなカマを掛けで通じるのかはわからないが、何もしないでいるよりはマシだろう、とチャレンジするも、
「こちらには守秘義務というものがありますので」
軽く躱されてしまった。
「……じゃ、質問を変える。あの方とやらは、あんたを完全体にして、なにをしようと?」
「それは私にはわかりかねますね。私はあの方に見出された身。あの方の御心のままに動くだけです」
「あんたの意思は?」
食い下がる円珠に、男が首を傾げる。
「意思……。私の意志など、関係ありません」
「何故? あんたはあんたの意思であの方に仕えてるわけじゃないのか?」
「それは……」
初めて男が戸惑いの表情を作る。
「何の疑問もないのか? お前はお前の意思を持たないのか?」
「そ……れは」
男が苦悶の表情を浮かべる。
「私の……意思?」
頭を抱える男。やはり「あの方」とやらがそそのかし、この場に漂う低級霊を使ってここまで育てたに違いない。
「うぐっ、ああ……申し訳ありません!」
男が急に、宙に向かって頭を下げた。
「疑問を持つなど以ての外! 私はいつだってあなた様のためにっ」
「なにっ?」
円珠が男の視線の先を負う。だが、そこには暗闇があるだけで何も見えはしない。
「少々喋り過ぎたようです……」
男が姿勢を正し、円珠に向き直る。にっこりと笑うと、
「あなたの魂も、美味しく頂かせていただきますよ、お客様」
ビュッ、という音と共に、男の体から触手が飛び出す。円珠はそれを交わすと、指で印を結び、叫んだ。
「縛!」
見えない縄が触手を捕える。だが、すぐに縄を千切られてしまう。
「くそっ」
弱すぎる。円珠の力では捕らえることすらできない。
「どうしました? もうお終いですか?」
ビュオッ
新たな触手が伸び、円珠の足を捕らえた。
「うわっ」
引きずられ、その場に倒れる。印を結び、
「斬!」
と見えない刃で触手を切る。こっちの方が効くかもしれない。
体勢を立て直し、神経を集中させる。こんなに何度も技を出したことはない。少し頭がクラクラしたが、気のせいだと思うことにする。
「ほほぅ、まだそんなことができるのですね。ですが、私の方が強い!」
言い切り、体中から触手を放出する。ハッキリ言ってかなり気持ちの悪い光景だ。
「こっちだって、黙ってやられてるわけにはいかねぇんだよ!」
印を結ぶ。
「斬!」
見えない刃で触手を切りつける。だが、数が多すぎて間に合わない。
「ぐはっ」
何本かの触手に、鞭のように体を打たれ、飛ばされる。壁に背中を打ち付け、そのままずるすると床に沈む。
「……ヤバいな、こ……れは」
体中が痛い。呼吸が浅くなる。
「私としても手荒な真似はしたくないのです。大人しく魂を喰われてください」
ゆらゆらと何本もの触手が揺れる。これ以上は、どうにもならない。円珠は壁伝いに少しずつ横へとズレた。
「逃げようというのですか? 往生際が悪いですねぇ」
男は楽しそうに円珠を見ていた。円珠はなおも、移動を続ける。
「そろそろ終わりにしましょうか」
ぎゅる、と触手が動き、円珠目掛けシュルリと伸びた。間一髪、それを避け、力の限り横へ飛んだ。杜波里の体を抱きしめるように掴むと、そのまま頭を抱え込み、杜波里の唇に自分のそれを重ねる。




