深海の羽衣〖弐ノ箱〗
記憶の箱の蓋を開けると強く真っ白な光が溢れ出し、私はとっさに目を閉じた。あっという間に私を飲み込んだ光は、瞼を突き抜けて目の奥に到達し、何事もなかったかのようにそのまま消えていった。
誰かの声が聞こえ、そっと目を開いた。
「ここは、居間ね。それに──、」
私は、目の前に座る母をぼんやり見た。なんだか、いらだっているようだ。
「ほら、ここをこうしてこうするの。」
母は、私の手元にあるものを奪うように取って、素早く組み立てた。
「えっ、えっ、ちょっと待って。」
ぼんやりしていたのもあって、状況がのみこめない。
「だから──、」
母は、組み立てた直方体を開いてただのボール紙に戻すと、再び組み立てながら説明を始めた。キラリと光るものを見つけて床を見ると、正方形の小さな鏡があった。縁も何もない、むき出しの鏡だ。ボール紙の直方体とむき出しの鏡を見て、ようやく思い出した。
これは、おそらく小学五年の記憶だ。学校の授業で潜望鏡を作ったけれど、授業時間内に作ってしまうことができず、宿題として持ち帰ることになったのだ。
私は算数が、特に図形が飛びぬけて苦手だった。展開図なんて、なんであんなものが理解できるのか、それが理解できなかったくらいだ。サイコロの展開図ですらそうなのに、二カ所も折れ曲がっている潜望鏡なんてもってのほか。良くも悪くも真面目だった私は、宿題をやらないという選択肢を持ち合わせていなかった。
そんなわけで、背に腹はかえられない思いで母の助けを借りることにしたのだけれど、要領も悪く不器用な私とは違い、要領もよく算数が得意な母にとっては、小学校の工作なんて赤子の手をひねるようなものだろう。そんな母の早すぎる説明についていけなかった当時の私は、何度も聞き返した。
記憶の箱の中で、あらためて母の解説を聞きながら、それにしても──、と、私は首をかしげた。
何を言っているのか、さっぱり分からないわ。
仕組みを知りたくて母に聞いているのに、母の言葉は、ここをこうしてああする、ばかりなのだ。理解できなかった自分を責めたものだけど、これで理解できるのなら、そもそも持ち帰ることなどなかったと思う。
私は、ため息をついて、当時をしぶしぶ再現した。
「ねえ、どうなっているのか、よく解らないの。」
「何でこんな簡単なものも、分かんないの!」
バンッ! という音とともに、私の目を激痛が襲った。私は、目をおさえて痛みに苦しむように身をよじった。
「あ……、あ……。」
「ああっ! どうしよう!」
私の耳に、パニックになっている母の声が届いた。母は、どうしよう、どうしようと繰り返している。
ぶつけられた目は、まだズキズキと痛む。それでも、記憶を再現するために目をうっすらと開けると、折った自分のひざの近くに、バラバラになったボール紙の潜望鏡が落ちていた。
いやだわ、私ったら。そうよね、S字に折れ曲がった立体は、直方体じゃないわよね。
ふと、そんなことを思った。そして壊れた工作をぼんやりと眺めた。
ボール紙を折って強度を増した潜望鏡は、鏡で重さも増して破壊力は抜群のはず。だから痛かったというわけか。でも、あのころの私が痛かったのは、潜望鏡をぶつけられた目よりも、子どもの繊細な心だったのかもしれない。母は、まだ狼狽えている。謝るでもない、手当てするでもない。そんな母を見て、私は、悲しくなった。
世界がぐにゃりとゆがんだ。場面が変わる合図だ。
気持ち悪さをやり過ごしてから、周囲をじっくりと観察して、今回再現されるのはどのエピソードなのかを考えた。
ここは、家の裏の空き地ね。私は……、特に年齢に変化はなさそうね。
それにしても暑いわね、真夏なのかしら。家のほうからにぎやかな声も聞こえるし……、もしかしたらお盆なのかもしれないわ。そうだとすると……、厄介ね。
私は、これから起こることを思い、ためいきをついた。
「どこにもいないから探したよ。これからみんなでバレーボールをやるんだけど、もちろんやるでしょ?」
母の声が聞こえて振り向くと、母がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。バレーボールを手にした親戚たちも、母の後ろからぞろぞろと歩いてくる。
当時、夏に親戚が集まるといつもバレーボールをしていた。私は自慢できるほどの運動音痴だから、運動と名のつくものには、できるだけ関わらないようにしていた。確かこのときも、参加しない、と、はっきり断ったはずだ。
「いいよ。私が参加したら、お母ちゃんの足を引っ張るから。」
幼いころの私は、いわゆる虚弱体質だった。体育はいつも見学だったこともあり、バレーボールはほとんどやったことがなかった。だからといって、あの母がルールやコツを分かりやすく教えてくれるようなことは考えられない。こんな私が参加したところで、母の喜ぶような結果になるとは思えなかった。
それに──、と、私は母の隣に立つ女性に目を向けた。このときは、従姉が参加していた。どうしても、彼女の前で恥をかきたくない。それが、バレーボールを断った最大の理由だった。
従姉との歳の差は、わずか十か月。彼女は、頭脳明晰で運動神経抜群。母はいつも、私と彼女を比べては、お前は駄目だとため息をついた。そのたびに、何もできないダメな自分と向き合う羽目になり、何度もみじめな思いをした。それでも、母と二人でいるときならまだいい。しかし、親戚一同、特に同い年の従姉の前でののしられるのは、耐えがたい苦痛だった。
でも、ここは、記憶の箱の中だ。私は、このあとの展開をよく知っている。
「人数が足りないんだから、ほら!」
強制的に参加させるなら、意思確認なんてしないでほしいわね。それとも、あれは、命令だったのかしら。
そんなことを考えながら、母の隣に立った。そもそも、バレーボールといっても、ネットやコートなどないし、なんとなく丸くなって、ボールをトスやレシーブでつなぐだけ。考えてみれば、人数が足りるとか足りないとか、そんなことはどうでもいいことなのだ。
「ほら! ボール!」
母の声が聞こえ、私はレシーブをしようと手を組んだ。そして私は、あっ、と小さく声を上げ、ほんの少し右に動き、わざとボールを落とした。
危ないわ。ボールを返しちゃうところだった。
「お前は何をやっても駄目! なんの役にも立ちゃしない! 恥ずかしいから、あっちに行ってな!」
記憶通りの展開。
私は、肩を落として見せると海に向かった。
テトラポットに腰をかけると、背中に親戚たちの笑い声を聞きながら、ぼんやりと海を眺めた。
これが、羽衣を手に入れるための試練……。
こんなことを、いつまで続けるのだろう。ただただ記憶を再現し続けることに、いったい、どんな意味があるというのだろう。
私は、長いため息をついた。
こんなことを続けるくらいなら空など飛べなくたって構わない。もう、元の生活に戻りたい。
コトンと音がするのと同時に、朱色の箱が姿を現した。ここから出る方法が分からない以上、記憶の箱を開けるしかない。私は、鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。