表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

深海の羽衣〖壱ノ箱〗


 箱の蓋を開けると、強烈な光があふれ出し、私を飲みこんだ。あまりのまぶしさに、とっさに目を閉じたけれど、光は容赦なく目蓋を突きぬける。思わず手をかざした。

 しばらくすると光は収まり、波の音と潮の香りが私を包みこんだ。目を開けると、目の前に広がっていたのは故郷の景色だった。そして背後には、私が生まれ育った家がある。


 手元にあったはずの記憶の箱は、どこにもなかった。


 そんなことより……。


 私は自分の両手を見た。明らかに子どもの手だ。身長もずいぶんと低い。私は急いで家の中に入ると、鏡を探してのぞきこんだ。


 小学校一年生……ってところかしら。


 浦島太郎は玉手箱でお爺さんになったけれど、どうやら私は、記憶の箱で子どもになってしまったらしい。しかも意識だけは、大人の私のまま。

 記憶が襲いかかることと子どもになることの間に、いったい、どんな関係があるというのだろう。鏡をのぞきこんだまま、腕を組んで首をかしげた。


「おやおや、鏡とにらめっこかい?」


 よく知っている声に驚いて振り向くと、今朝、この世を去った祖母がくしゃくしゃの笑い顔をたたえて立っていた。もちろん、病院で見た祖母よりもずっとずっと若い。でも、そんなのはどうでもよかった。


「ばあちゃん!」


 嬉しさのあまり祖母に駆けよると、その胸に思いきり飛びこんで、大声で泣いた。


「あれあれ、どうしたの。怖い夢でも見たのかい? さ、こっちにおいで。」


 そう言うと、祖母は私をそっと抱きしめた。


 ああ、そうだ。このぬくもりだ。


 幼いころ感じていたのと同じぬくもりの中で、徐々に落ち着きを取り戻していった。


 私は今、自分の記憶の中にいる。そして、自分の記憶を追体験(ついたいけん)しているのだ。記憶が襲ってくるというのは、きっと、嫌な記憶も再生されるからなのだろう。羽衣を探す者は、それに耐えねばならない、というわけだ。


 私は、涙をふいて顔を上げた。そして、ありがとうと言って、にっこり笑った。


「ばあちゃん、もう大丈夫よ。がんばるわ。」


 祖母は、そうかい、と言って不思議そうな顔をした。祖母の顔を見て、自分が小学生だったことを思い出し、子どもっぽい笑顔を作って見せた。


「大丈夫ならいいんだけどね、とにかく、無理はするんじゃないよ。」


 祖母は、そう言うと、私の頭をなでた。


「あーそーぼー。」


 外から女の子の声が聞こえた。きっと、私を呼んでいるのだろう。


「行っておいで。」


「うん。」


 私は、今、子どもなのだ。変に思われないためにも、行動や言葉に気をつけなければ。


「ばあちゃん、行ってくるね。」


 私は、はあい、と声に向かって返事をすると、急いで靴を履き、外に出た。


 赤いスカートの小さな女の子が、満面の笑みで立っていた。ああ、この子は……、ふと、遠い昔の記憶がよみがえった。


「ねえ、なにして遊ぶ?」


「うーんと、ゴム飛び!」


 小さな田舎町だから、ここに暮らすほとんどが、家族ぐるみの付き合いをしている。彼女の父親は、山で狩りをする猟師をしていた。


「お父さん!」


 ゴム飛びの途中で、その子はこちらに近づいてくる男性に駆け寄った。山での仕事を終えて、帰ってきたところだったのだろう。


 ああ、思い出した。

 あのとき、私には『オトウサン』という言葉がどんな意味を持っているのか、よく分からなかったんだっけ。だって、お父さんという存在を知らなかったんだもの。でも、オトウサンに抱きしめられている彼女がうらやましかったんだわ。

 だから──、


「私にだって、じいちゃん、いるもんっ。」


 確か、こんなことを言ったのよね。その後は……、ああ、そうだわ。


 私は、縁側の祖父を目指して全力疾走すると、祖父の胡坐(あぐら)にすっぽりと納まった。


 理由はよく分からないが、私は祖父の近くには行こうとしない子どもだったと、母や祖母が話していた。記憶はあいまいだが、祖父が嫌いだったことは覚えている。そんな私が、祖父の胡坐(あぐら)に納まったのだ。後にも先にも、このときだけだったらしく、何かにつけて話題にのぼった。


 幼心に劣等感があったのね、きっと。


 祖父の胡坐(あぐら)の中で、幼い頃の私を思った。




 突然、自分以外のすべてが、ぐにゃりとゆがんだ。激しい目眩のような景色の変化で、激しい吐き気に襲われて目をつむった。

 しばらくして吐き気が治まり、そっと目を開けた。


「ここは……。」


 私が座っていたのは、祖父の胡坐(あぐら)ではなく、仏間の座布団だった。目の前には仏壇があり、二枚の小さな写真が並んで立てられている。二枚ともよく知っている写真だ。向かって右側が父とともに海で亡くなった伯父、そして左側が父だ。


「おや、今日はずいぶん早いねえ。」


 振り向くと、仏壇にお供えするご飯とお水を持った祖母が立っていた。


 お寺で修業をしたことがあるほど、祖母は信仰心の(あつ)い人だった。祖母が話してくれた仏様の教えは難しかったけれど、言葉の端々にあらわれる命を重んじる優しさに、幼いころの私は強くひきつけられた。


 そんな祖母だから、一日二回のおつとめを欠かすようなことは、一度たりともなかった。私はいつも祖母の後をついて歩き、家族の誰も拝まなかった仏様に祖母と二人で手を合わせていたものだった。


 今はちょうど、朝のおつとめの時間なのだろう。ぼんやりと自分を見つめる私が心配になったのか、祖母は私に、何かあったのかと尋ねた。


「ううん、なんでもないの。さっき目が覚めたばかりで、まだちょっと眠いだけ。」


 私は、つとめて子どもらしい笑顔をつくった。

 祖母は首をかしげながらも、おつとめの準備を進めていく。私は邪魔にならないように気をつけながら、仏壇に飾られている父の写真を眺めた。


 お父さんという存在については、大人になった今でもよく解らないままだ。辞書に書かれている父親という単語の意味ではなく、感情や感覚をともなった、お父さんという存在は、じかに触れあった者でなければ分からないだろう。だから、当時の私にとって『オトウサン』は、じいちゃんより若い男の人、くらいの認識でしかなかった。


「さあ、おつとめを始めようねえ。」


 祖母の声で我に返った私は、明るくうなずいた。

 おつとめが終わると、祖母は私の頭をなでた。そして、何かを待っているように見えた。おそらく、この記憶に関する、私の言葉か行動を待っているのだろう。私は大急ぎで自分の記憶をたどった。そして、仏壇に飾られた二枚の写真を指差した。


「ねえ、ばあちゃん。この人たち、だれ?」


「こっちが、お前の伯父さんで、こっちが……、お前の、お父さんだよ。」


「ふうん、『オトウサン』。」


 実感のともなわない私の言葉を聞いて、祖母は私を、かわいそうに思ったのだろう。私をそっと抱き寄せると、背中をそっとなでた。



 ✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿


 ああ哀し

  父親知らぬ幼子にババの温もり

              お前ば守る


(ああ、哀しいことだ

 父親を知らない幼い孫に、せめてばあちゃんの温もりを……

 なんとしてでも、お前を守ると誓うよ)


 ✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿



 私の耳に届いたのは、つたない言葉だけれど、想いのこもった短歌だった。




 再び、世界がゆがんだ。私は、さっきと同じように目をつむって、吐き気が治まるのをじっと待った。


 しばらくすると、子どもたちの話し声とチャイムの音が聞こえ、私は目を開けた。今度の記憶は、小学校の教室でのできごとのようだ。状況を確認しようとあたりを見渡すと、思い思いに着飾った女の人たちが、教室の後ろに何人も立っていた。どうやら参観日のようだ。母もいるのだろうかと思って見ていると、すみません、と、頭を下げながら女性たちの間を縫って歩く、一人の男性が目に入った。


「あの人、あの子の『オトウサン』なんだって。」


 同級生の話し声が聞こえて、ようやくこのときのことを思い出した。そうだ。このとき、これまで自分の中で意味をなさなかった『オトウサン』という記号から、血の通った『お父さん』に変わったんだ。

 そして、どうして自分にはお父さんがいないのだろうと、強く意識したできごとでもあった。




 再び世界がゆがんだ。三度目ともなると、吐き気もそれほどではなくなった。それでも、乗り物酔いのような気持ち悪さがあったので、目を閉じてやり過ごし、目を開けた。

 場面は教室から自宅の居間に移っていた。戸棚のガラスに目をやると、小学校四、五年生の私が立っている。そして目の前には、大声で叫んでいる母がいた。


 そういえば、一度だけ、母と大喧嘩(おおげんか)したことがあった。原因は何だったのかさっぱり思い出せないのだけれど、あのとき私はすごく怒っていて、すごく寂しかったことだけは、何となく記憶に残っている。


 記憶を再現しなければならない。とりあえず喧嘩をするために、母にあれこれ言い返しながら、この後の自分の行動を思い出した。


 ──そうだ。家を飛び出したんだわ。


 私は、当時と同じように家を飛び出すと、消波ブロックの上に座って海を眺めた。海とともに育ったせいか、海を眺めているとほっとする。この地に住んでいたころは、何かあるたびにここに来ては海を眺めたものだった。

 荒々しくブロックにぶつかる波に心を預け、何も考えず、心を空っぽにする。


「……このまま、この海をまっすぐ入っていったら、お父ちゃんに会えるのかなあ。」


 悲しみと寂しさに満たされた状態で海を見ているうちに、仏壇に飾られた遺影の父を、この広い海に重ねてしまったのだろう。記号の『オトウサン』ではなくなったあの参観日から、会ったことのない父を求めるようになっていたのだろう。今となっては、どれもこれも、海の泡のようにはかない推測だ。


 それでも、思う。

 もし父が生きていたら、私の人生はもう少し違ったものになっていたのだろうか。


 コトンと音がして足元を見ると、朱色の箱がブロックの上にあった。間違いない。記憶の箱だ! 私は迷うことなく鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ