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深海の羽衣〖天女〗


 その年の九月、母のように慕っていた祖母が永遠の眠りについた──。


 祖母の容態が急変した──。


 叔父から連絡があったのは、朝食を終えて仕事着に着替えていたときだった。慌てて会社に連絡して車の鍵を乱暴につかむと、祖母が入院する病院へと車を走らせた。



 祖母が体調を崩して緊急入院をしたと連絡があったのは、ひと月前のことだった。そのときも私は、今日と同じように車を走らせていた。


 意識はあるだろうか、私のことが分かるだろうか、頭をよぎるのは、とにかく悪いことばかり。

 危険なのは分かっているけれど、注意力散漫の状態で運転をしていた。事故を起こさなかったのは、間違いなく幸運だった。


 駐車場にバックで停めると、荷物を引っ掴んで車を降り、昭和の風情を残す病院内に駆け込んだ。早足で院内を歩き、息を切らして病室に入ると、酸素マスクをつけた祖母が私を見つけて嬉しそうに笑った。


「思ったより元気そうでよかった。緊急入院って聞いたから……。ごはん、ちゃんと食べてる?」


「看護婦さんも、ごはん食べてって言うんだけどね、のどを通らないんだよ。」


 祖母は、ほんの少し寂しそうで悲しそうな、でも、とても静かな微笑みをたたえた。


「もう少しで、お迎えが来るってことだねえ。」


 尊敬し、愛し、慕い続けた祖母との永遠の別れが近づいている。このときが《死》を近くに感じた、初めての瞬間だったように思う。


「あれあれ。泣かなくていいんだよ。おまえは本当に、しかたのない子だねえ。」


 祖母は私をそっと抱きよせると、子守唄を歌ってくれた幼いころのように、私の頭をそっとなでた。


「いいかい? 人生は、死ぬまで勉強なんだ。」


 祖母は勉強熱心な人だった。人生死ぬまで勉強、それが祖母の口癖だった。

 そして、その命が風前の灯火になった今も勉強し続けている。きっと、お迎えのその瞬間までも学び続けるのだろうと、祖母の匂いに包まれながら思った。


「でもね、死ぬ前に、おまえに言わなければならないことがあるの。」


 祖母は、若いころを思わせる、よく通るまっすぐな声でそう言うと、私の頭から手を離した。私は顔を上げ、祖母の目をまっすぐ見た。


「おまえは、『天女』なんだ。」


 あまりに唐突な祖母の言葉、私の思考は吹っ飛んでしまった。このときの私は、目を白黒させ、口はポカンと開き、かなりだらしない顔をしていていたに違いない。そんな私を見て、祖母はふふふと笑った。


「驚くのも無理のないことだけれど、本当なんだよ。おまえは、『天女』なんだ。」


 祖母は、引き出しに手を伸ばし、着物のはぎれで作った巾着袋(きんちゃくぶくろ)を中から取り出した。そして、袋をもてあそびながら、祖母は昔話を始めた。


「昔々、ひとりの美しい天女が、人間の世界におりてきました。天女は、海辺を歩くのが好きでした。」


 それは、私が幼いころに祖母が話してくれた寝物語だった。私は今でも、この物語をはっきりと覚えている。でも、死が目の前に迫った祖母がこの話をするというのは、あの頃とは違った意味があるということだろう。私は、幼いころに聞いたときとは違う思いで、祖母の物語に耳を傾けた。


「ある日、いつものように海辺を歩いていた天女は、若い漁師と出会い、恋に落ちました。しかし、その漁師には親が決めた許嫁(いいなずけ)がいて、一週間後には、結婚式をあげることになっていました。それだけじゃありません。天界の住人である天女が、人間の世界の男性と結ばれることは、天の掟に背くことでした。ところが愛し合っていた二人は、ある夜、駆け落ちしたのです。漁師の両親は大慌て。いなくなった息子を必死で探しましたが、海辺に置かれた草履(ぞうり)が見つかっただけでした。天界は、掟を破った天女を許しませんでした。天女は、霊力と永遠の命を奪われ、空を舞うための羽衣は、海の底に沈められてしまいました。二人は幸せに暮らしましたが、天女はやがて年老い、永遠の眠りにつきました。」


 祖母は、私に、巾着袋を手渡した。


「羽衣を失った天女はね、『ばあちゃん』の『ばあちゃん』なんだよ。」


 私の故郷は漁師町だ。そこに伝わる、ただの御伽噺(おとぎばなし)なのだと思っていた。それがまさか、祖母の祖母、つまり高祖母(こうそぼ)のことだったとは思いもしなかった。


「この中には、羽衣が入れられている箱の鍵が入っているの。おまえに、その封印を解いて欲しいんだ。」


 言い終わると、祖母はベッドに深く身を預けた。


「ああ……、苦しいねえ。これが、死の苦しみなんだろうねえ……。」


 祖母は、しぼるように息をして、そっと目を閉じた。



 病室で巾着袋を受け取ってから一か月。何度も考えたけれど、祖母の話は夢物語のようで、受け入れることはできないままでいる。どうしようかと悩んだまま、この日を迎えてしまった。


「何とか、間に合いますように……。」


 病院の駐車場に車を停め、祖母の病室へと急ぐ。階段を上がると、叔父が、祖母の病室の前で力なくうなだれていた。私は、看護師がせわしなく出入りする病室を見た。看護師たちが手際よく処置している。


 看護師が去った病室に入ると、酸素マスクのない、安らかな祖母の寝顔がそこにあった。


「……やっと、楽になれたんだね。」


 私は、いったい何を悩んでいたのだろう。

 自分の心に素直になれば、答えはたった一つしかないはずなのに。

 私は、穏やかに眠る祖母の頬にそっと触れた。


「羽衣を探すよ。ばあちゃん、待っててね。」


 祖母に決意と別れを告げ、病院を後にした。


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