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深海の羽衣〖肆ノ箱〗


 箱を開けるのは、これで四回目。箱から溢れてくる真っ白な光にもすっかり慣れた。少しの間、目を閉じ下を向いてやりすごせば、すぐに周りを確認できるようになる。


「下ばかり向いて、ちゃんと聞いているのかい?」


 下を向いたまま目を開けると、自分のひざと座布団が見えた。どうやら、また正座しているようだ。声からおそらく祖母だろう。私はおそるおそる顔を上げた。


「ばあちゃんには、お前が何をしているのかなんて分からないんだよ。」


 私は、素早く壁にかけられた制服に目をやり、正座をしている今の自分が中学生であることを確認した。間違いない。あのときの再現だ。


 その日、祖母の呼びかけに気の抜けた声で返事をしたのだ。たしか、勉強か何かをしていたときで、返事に意識が向かなかったのだと思う。しつけに厳しい祖母は、足音を響かせて部屋にやってくると、そこに座れと座布団を指さしたのだった。


「自分が何をしているのかを相手に考えさせるような返事をするのは、思いやりに欠けた、失礼な行動なんだよ。」


 人間というのは、とても弱い生き物だ。たとえ自分が正しくても、目の前にいる誰かに自信満々で話をされると、自分が間違っているような気がしてしまう。それが、知識も経験もない子どもならなおさらだ。

 このときだってそうだ。お説教の後、いくら謝っても許してもらえなかった。それどころか、祖母に呼び出されては正座をさせられた。三日ほど続いたのは覚えているけれど、どうして解放されたのか、まったく覚えていない。


 やっぱり、どう考えてもおかしいわ。昔の人って厳しいけれど、いくらなんでも度が過ぎているわよね。


 現代では禁止されているけれど、昔の日本には、年季奉公(ねんきぼうこう)という社会のしくみがあった。他人の家に住み込みで働くというものだ。その多くが、十歳そこそこの子どもたちだったと言われている。祖母もその一人だった。さいわい奉公先に恵まれた祖母は、とても大切にしてもらったようだ。今の高校にあたる、女学校まで通わせてくれたと聞いている。


 ……原因は、きっとこれだわ。


 本当の私は目の前にいる祖母と同じくらいの年齢なのだ。これまでの人生で学んだことだって、たくさんある。

 私は、深く息を吸って背筋をのばした。そして胸を張って、祖母を正面から見すえた。


「ハッキリと返事をしなかったことに対しては、申し訳なかったと思っているし、これからは気をつけるわ。でも私、謝っても許してもらえないどころか、三日間も正座をさせられるほどの悪いことをしたのかしら。今のばあちゃん、なんだか新入社員をいびる上司みたいよ。」


 しまった、言い過ぎた。三日間の正座は()じゃない。()()()()だわ!


 何とか動揺を隠し、それでも戦闘態勢を崩さなかった。


 祖母は、豆鉄砲をくらった鳩のような顔で私を見ていた。そして、悲しそうにため息をつくと、口をゆっくり開いて言葉をつむいだ。


 その瞬間、世界がゆがんだ。




 高校の制服を着て、通学鞄を持って、家の前に立っていた。今回は居間ではないらしい。

 私は、玄関の戸にかけた手をじっと見た。


 これを開けてしまえば、次の記憶が再生されてしまう。その前に、考えなければ。


 記憶の箱は、最初に鍵を開けた海底の箱しか存在しないと思っていた。あの箱が何度も姿を現わしているのだと思っていたのだけれど、鍵を開けるごとに再生される記憶は特定のテーマごとに分けられている。なんだか別の箱を開けているようだ。もしかすると、マトリョーシカのように、箱の中に箱があるのかもしれない。


 そうだとすると、三つ目の箱は、母の理不尽な要求とマリオネットのような自分がテーマだろう。そして四つ目の箱は、ねじれた祖母がテーマのはずだ。だとすれば、戸を開けた瞬間に再生される記憶は、椅子で殴られたときのものかもしれない。


 もうひとつ、考えるべきことがある。記憶の再現についてだ。


 三つ目の箱で私は、母に従わずに手提げ袋をひっつかんで家を飛び出した。あのとき、私は事実と違う行動を取った。それでも、何事もなく次の場面に移っている。

 さっきの場面でも、事実と違って祖母に反論した。それでも何事もなく──、


 ──いいえ、あったわ。


 あのとき、祖母は表情を変えて何か言っていた。


 何て言っていたかしら……。そうだわ。あのとき、やっぱりそうだよねえ、って、言ったんだわ!


 もしかしたら、大事なのは再現することではないのかもしれない。それなら、ここの記憶でも何かできるはずだ。深呼吸して心を整え、戸を開けた。


「ただいま。」


 土間で靴を脱ぎ、台所へ入る。人の気配を感じないが、待っていれば、祖母が私を呼ぶはずだ。


「あら?」


 流し台の角に、本のようなものが置いてあるのが見えた。近づいて見ると、昭和の時代には不釣り合いなデザインのシステム手帳だった。

 間違いない、娘がプレゼントしてくれた、私の手帳だ。どうしてこんなところにあるのだろうと思いながら、手帳を開いてみると、筆で文字が書かれてあった。



 ✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿


  仏壇に両手合わせる小さな手

        どれが父ちゃん? 無邪気な幼子


 ✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿



「短歌、かしら。」


 五七五七七になっているから、おそらく短歌なのだろう。短歌についてはそんな程度の知識しかないから、これが上手いのかどうか分からないし批評もできない。でもこれは、一つ目の箱の、朝のおつとめの記憶を表しているのだけは確かだ。


「ああ、おかえり。」


 奥から声が聞こえると、居間の戸が開き、笑顔の祖母がわたしを迎えた。そして、こっちにおいでと手招きをした。

 祖母について奥の部屋に入ると、記憶にある通りの美しい鏡台が、かぐや姫のような清楚さと気品をまとって、たたずんでいた。全身を映し出す大きな鏡は、磨かれた宝石のように光を乱反射し、鏡の掛け布には、金色の糸で美しい花の刺繍が施してある。滑らかな曲線を描く木製の台座は、茶褐色の鈍い光を放っていた。鏡台の傍らには、同じデザインの椅子が置いてある。


「ばあちゃん、この鏡台、どうしたの?」


「おまえの嫁入り道具に、と思ってね。」


 当時の私は、祖母の言葉にあわててしまい、こんなに高価な贈り物など受け取れないと断ったのだった。そして祖母は自分の気持ちを無駄にするのかと怒り、あの椅子を持ちあげて私を……。


 ……あの椅子、けっこう重いのよね。


 あんな記憶を再現する気はない。それに、今だからこそわかることもある。

 私は、大人の目で祖母をまっすぐ見た。


「ばあちゃん、本当に美しい鏡台をありがとう。ばあちゃんが若いころだと、十代でお嫁に行くのは当たり前だったと思うけど、この時代は二十代で結婚する人が多いわ。私はまだ高校生だし、まずは学校を卒業して、就職して……、お嫁に行くのはそれからよ。だからね、ばあちゃん、私が一人前になるまで見守っていて。そのときに、ちゃんと受け取るわ。それまで、この美しい鏡台を、ばあちゃんに預かっていて欲しいの。」


 祖母は、にっこり笑って、私の頭をなでた。



 ✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿


  おがったなあ……

    頭っこ撫でで 目こ細める

      嫁っこさ行ぐまで生きでいてえなあ……


 (大きくなったこと…… 孫の頭を撫でて目を細める

  この子が嫁に行くまで、生きていたいなあ……)


 ✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿。.゜ :✿



 祖母は、母親のように私を愛し、私の成長を見守っていてくれたのだろう。だからこそ、自らの老いが焦りとなり、極端な行動を引き起こしてしまったのだろう。

 大人になった今なら、それがわかる。


「ああ、分かった。それまで、ばあちゃんが預かっておくよ。おまえがお嫁に行くときに、本当の嫁入り道具として、渡すからね。」


 祖母は、そう言うと部屋を出ていった。


 ──さて。


 私は、腰に手を当てて次を待ち構えた。

 母は、祖母が部屋から出たのを、まるで見計らったかのように入ってくると、鏡台をなめるように見た。


「本当にいい鏡台だねえ。」


 母と高校生の私が、鏡に映りこむ。


「この鏡台は、お母ちゃんが預かるよ。今のお前が使うには、もったいないだろ?」


 母は、鏡台から目を離して振り向き、私と向かい合った。そして鏡台の椅子に腰をかけると、脚を組んだ。


「どうだい。なんなら、お前が嫁に行くときにもっといい鏡台を買ってやるから。」


 私は、立ったまま壁にもたれて腕を組んだ。


 当時、母がこの部屋に入ってきたのは、祖母に殴られた後だった。断ってしまったが祖母の気持ちも大事にしたいと言うと、自分が預かると言い出したのだった。私はその言葉を信じて母に預けたのだけれど、結局、母は鏡台を返してくれなかったし、嫁入りのときに新しく買ってくれたわけでもなかった。


 なんだか、女郎蜘蛛(じょろうぐも)みたいだわ。そういえば、似たクモを見たような気がするわね。あれはいつだったかしら。……まあ、いいわ。あとでゆっくり思い出しましょう。


 私は、壁にもたれたまま母を見た。


「結構よ。ばあちゃんが預かってくれるって、言ってくれたわ。」


 そして、通学鞄を持って部屋をあとにした。




 私は、いつものテトラポットに腰を下ろし、オレンジ色に染まる海を眺めた。そして、祖母を思った。

 そういう時代だったとはいえ、幼いころから働かざるをえなかった祖母は、家族というものを知ることなく育ったのだろう。気を置くことしか知らないまま大人になったのだろう。返事が聞こえないと叱ったのも、祖母にとっては当然のことだったのだ。


 過去は戻ってこない。今だって、記憶の箱が見せている幻なのだと思う。それでもいい。祖母に、考えが間違っている可能性を伝えた。そして、鏡台を守った。


 コトンと音を立てて、記憶の箱がテトラポットに姿を現した。私は鍵を取り出して握りしめた。


 私は、私の戦いをするんだ。


 そう決意し、鍵穴に差し込んだ。


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