10:辺境暮らしの始まり
結局、大きなベッドにノーマが一人で寝転び、夜を過ごした。
ハンスはソファの上で寝るようだ。次期辺境伯がそのような場所で眠っていいのだろうかと言いたくなる。
二人が同じベッドで眠ることはない。だって、これは偽装結婚だから。
同室で眠り、表向きは夫婦のように過ごす。ただそれだけの関係ということだ。
そう思うと耐え切れず、涙が出て来た。
別に初夜がしたかったというわけではない。
だが、愛さないと断言されたことが悲しかった。始まりはこんな形でも、いずれ分かり合える未来だってあるかもしれない、そう考えていたのに。
(……明日からどんな顔でハンス様と言葉を交わせばいいのでしょう。憂鬱です)
もしかするとノーマが話しかけるだけで不快に思うかも知れない。
喋るのは挨拶など最低限だけにして、後はお飾りの妻として過ごしていた方が無難だ。ノーマは無難に生きることが得意だった。これからも同じようにしていればいい。とりあえずこの家から追い出されさえしなければいい。実家に追いかえされ、また貧乏な思いをするのだけは嫌だから。
そんな風に考えているうちに、夜が明けていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ハンスとの関係がどうであれ、これからノーマがこの地――辺境伯領という名の田舎で生きることに変わりはない。
学んでいかなければならないこともたくさんある。自分の結婚が偽装結婚だったと知った程度で凹んではいられなかった。
朝早く、ハンスがまだ寝ている時間にノーマは名ばかりの夫婦の部屋を出て、屋敷の廊下を歩く。
そしてしばらく歩き回ってようやく目的の人物を捕まえた。
「ヘラ、おはようございます」
ノーマの専属侍女、ヘラだ。
「まあノーマ様、おはようございます。……昨晩はいい夜となりましたか?」
挨拶を返されると同時に早速微妙な質問が飛んで来てノーマは動揺した。
こういう場合は一体何と答えたらいいのだろう。
「ええと、ハンス様はとても紳士的な方でした」
「そうでございますか、それは良かった」
ヘラが見るからに笑顔になる。意外と乙女な話題に興味があるようだった。
実際には彼女が勘違いしているだけであり、ハンスはノーマに紳士的に優しくしてくれたわけではない。紳士的に距離を置き、ベッドをノーマ一人に譲ってくれたのである。しかしその勘違いをわざわざ訂正することなくノーマは微笑みを見せた。
「それでなのですが、今日から私もガイダー辺境家の一員なのですよね。でしたら、何かできることをしたいです。例えば、お掃除とか」
その提案をした途端、ヘラがギョッとした顔つきになった。
「お掃除!? の、ノーマ様、あなたは侍女でも掃除メイドでもなく次期辺境伯夫人でいらっしゃるのでございますよ」
「あら、お掃除するのがそんなに変でしたか? もちろん、私の実家と違ってこの屋敷の人手が足りているであろうことは存じ上げております。ですが私、早く使用人の皆様と仲良くなりたいのです」
嫁ぎ先で何より必要になるのが信頼関係。幸いなことにノーマは貧乏な実家に使用人がいなかったせいで雑用にはすっかり慣れており、掃除くらいは簡単にできる。
それに、嫌なことがあった後は掃除が落ち着くのだ。
ヘラを説き伏せるのにはかなり時間がかかってしまったが、結局、朝の掃除を手伝わせてもらえることになった。
(……これが新生活の幕開け。ハンス様の契約上の妻でしかない以上、このお屋敷になんらかの形で貢献しないといけませんもの。こうして親交を深めつつ周囲に認めてもらうことができれば、偽装結婚でも楽しくやっていけるに違いありません)
沈んでいた心が少しばかり明るくなるのを感じる。
ノーマは呆れるヘラに見守られつつ、箒仕事を続けるのだった。
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