洗脳。
姉は山路教授の申し出を断った。というか保留にしてもらった。
俺としてはやきもきするしおまえほんとうに大丈夫かと思うのだが姉がそうすると決めたのだから口を挟む余地はないんだろう。帰り道で「教授となに話したん?」訊いてみるが姉は「教授さんが弟くんには言わない方がいいんじゃない? って」なんだそれ。気になる。
でも結局電車の中で姉が「私が会社やめたくないって言ったの」内容をさっくりばらしてしまう。
「ふうん」
「パワハラは訴えるけど退職はしないとなるとなかなかのウルトラCだねえって」
「だろうなぁ」
「ウルトラCって何?」
あー、えー。体操競技のかつての最高難易度である難易度Cの技のこと。「難易度Cの技みたいに難しい物事を決める」ことだと思うんだけどうまく説明できんな。なお現在は最高難易度が更新されていて難易度Hまであるそうだ。トレーニングや食生活の質の向上で人間の身体能力が底上げされてC技は特別な技ではなくなったらしい。もしかしたら教授ならあっさり決めるんじゃないだろうか。
帰って姉は職場に電話して来週からは会社に出ることを伝える。
かなりもやもやしたがやっぱり姉が決めたことだから口出す権利はないんだろうなと思って堪える。
そんなこんなで、日曜になる。
このへんで一番デカい駅からちょっと歩いたところにあるライブハウスに一人で行く。こじんまりしてて半地下で「ここライブハウスだよ」って言われないとまず気づかないようなところだ。入ろうとしたら、入口の外側でどぎついメイクをした相羽が座り込んでいた。ひらひらしたスカートに薄手の上着を羽織ってクソ寒いのに太ももを出している。膝から下はさすがにロングソックスで覆ってたが。ライブ前は吸わねーくせに煙草の箱を弄んでいた。
こっちに気づいた様子がなかったのでべつにいいかと思って相羽をスルーして中に入る。入口でチケットをもぎられて、ドリンクと交換できる券を渡される。
薄暗いライブハウスの中にはそこそこの人が入っていた。たぶん収容限界の四分の三くらい(ざっと70~80人か?)。
いまだとYouTubeでプロの音楽やアマチュアでもクソ上手いやつが動画あげているにも拘わらず無名のアマチュアの歌をこんだけのやつが聞きにきてるってのはなんか結構おもしろいことのような気がする。
券をドリンクと交換してもらって(りんごジュース、アルコールもあったけどソフトドリンクにした)隅っこでちびちびやってたら、通りがかった背の高いやつがこっちを見て「お?」みたいな顔をする。近づいてくる。大学の中で見たことあるなと思う。たしか相羽と同じバンドのやつだ。
「誠士朗、見なかったか?」
声かけてくる。
「表にいたけど」
内心で「相羽って呼んでやれよ」と思いながら答える。名前好きじゃないの知ってるだろうに。そいつは短い舌打ちをしてそのまま元来た方へ戻っていく。居場所がわかったらべつにいいかって感じらしい。しょーがねーな。
俺はりんごジュースを飲み干してグラスを返し、ライブハウスの隅っこから一度表に出る。半券があれば出入りはできるが音楽はじまったらできるだけ退出は控えてくれって書いてあった。「よお」入口の傍で座り込んでる相羽に声をかけるとびくっとして上を向く。弱気な目。
「なんだ本谷か」
なんだってなんだよ。俺は相羽の横にうんこ座りする。
「どーした」
「緊張してビビってんの。見りゃわかるでしょ」
はぁ。相羽のついた溜め息が白くけむる。
「メイクしてたら無敵なんだろ?」
「それとこれとは話がべつ」
ふうん。
じゃあなんに対して無敵なんだよ?
普段は一個上なのを振りかざす相羽がしおらしくしてるのがおもしろくて俺はにやにやして相羽の顔を覗き込む。「やめろよ」相羽が俺をゆるく突き放す。
「まっ、なんとかなるだろ。失敗してもべつに死ぬわけじゃねーしさ」
「そーだけど」
「バンドのやつが呼んでたぞ」
「わかった。もういく」
言いながら相羽はまだ座り込んだままだ。
びゅう。と冷たい風が吹いた。俺は上着を掻き合わせる。
「さみいから中はいっとくわ」
「ん」
立ち上がりかけた俺の上着の後ろを、相羽が掴んだ。
「本谷」
「あん?」
「あたし、おまえのこと好きだよ」
「ああ、俺もおまえ好きだぞ」
「そういうんじゃなくて。なんていうのかな、ふつうに」
「へ?」
理解が遅れた。
いや。だって。おまえ……
あ、そっか。
俺からすりゃそうだけどこいつからすりゃそういうこともあるのか。
「そんだけ。べつに返事はしなくていいよ。ただ言いたかっただけだから。いけよ」
しっしっ。相羽が手を振って俺を追い払ったし、本気で近くにいて欲しくなさそうだったので俺はライブハウスの中に逃げ込む。さっき言われたことを考える。
相羽 誠士朗。
性別は男。女装してる、ってかたぶん性同一性障害ってやつ。誠士朗っていうみるからに男な自分の名前がきらい。改名したら親から縁切るって言われててしていない。どぎついメイクしてピンクの髪に銀メッシュを入れてる。髪の色を派手にしてるのも、伸ばしてるのも頬の輪郭を隠すため。男が女装するのに重要なポイントはいくつかあってそれが「頬のラインを隠すこと」だったり「手の甲を見せないこと(男の手は女性に比べて骨ばってて血管が浮いてる)」だったり「首元を見せないこと(のどぼとけ)」だったりするというのを、以前に相羽本人から聞いた。だからあいつは手袋常用でマフラーとかネックウォーマーをいつもしてる。人懐こくていろんなやつに話しかけてるわりに一人でいることが多いのはやっぱりそういうキャラが周囲から浮いてたりするからなんだろう。
ただでさえ暗い照明がもう一段落ちた。ステージの上だけをパッとライトが照らす。
一個目のバンドが曲をはじめる。
やたらとがなり立てるタイプのバンドで俺はきらいな音だった。
曲はあんまり頭に入ってこない。
(いやいやいや、そんなこと言われてもどうすりゃいいんだよ)
そりゃ相羽のことはべつにきらいじゃねーけど、「そう」じゃなくね?
つーかあいつはライブ前にそんなことをぶっちゃけて平気なのか。
三曲やってそのバンドが引っ込む。次のバンドが出てくる。曲の最中は喋れなかった客が合間の時間にざわめく中で、客席の人波の中に意外な人を見つけた。思わず人の隙間に手を突っ込んで、その人の肩を叩いた。そいつが振り返って、俺を見た。
「後ろ行きません?」
小声で言うと、見るからに顔を顰めて、姉の元カレの新庄雄一さんが小さく頷いた。新庄さんは隣の女に声かけてから、人の隙間を抜け出してくる。
「なんでいるんすか?」
「後輩のバンドがステージに上がることになって断れなかったんだよ」
あれ。新庄さんがステージの上で爆音鳴らしてる女性バンドを指さす。爆音のせいで新庄さんの声は聴き取りづらいがまあなんとかならなくもなさそうだ。むしろ俺の声の方があっちに聴き取りづらいかもしれない。
「で、新しい彼女と見に来たと」
「おもしろくないって言ったのに来たがったんだ」
“新しい彼女”の部分は否定しないんだな。
俺は新庄さんのイヤになるほど整ったツラをまじまじと見る。芸能人の誰似と訊かれたら横浜流星。頬から顎までのラインがすっと細くて無駄がない。横長の目がきりりとしてて眉の形がよくて、ちょっとニヒルに口角あげてりゃ黙ってても女が群がってきそう。今日は場に合わせてかラフな格好してるが、スーツ着てたら元々ラグビーやってた肉付きのよさと噛み合ってめちゃくちゃ似合ってた。就職決まったときにうちに挨拶きた完全武装のときの五年前の新庄さんを思い出して、そのときと全然変わってねーなと思う。姉と同じ偏差値くそたけー大学でラグビー部の主将やっててツラがよくて就職もかなりいいとこに決まったはず。姉と同じく、天はあげるやつには二物とか三物とか全然渡すよなー、って感じの人だ。(しね)
「なんで姉と別れたんすか」
「由美に聞けよ」
「セックスの最中に姉がベッド抜けだしてスマホみたから」
「……」
「なんで姉と別れたんすか?」
新庄さんは目を閉じて首を振った。
「由美の会社のことは?」
「多少は」
「じゃあ話が早いや。あのさ、俺だってべつに由美のことが嫌いになったわけじゃないんだ。結婚まで考えたんだ。式の予算だって貯めてた。子供のことも予定を立ててた。簡単には割り切れなかったよ。いまでも好きかって言われたら好意はあるよ。
でもね、あいつはいくら俺が“その上司は変だ”って言っても“仕事休め”、“なんならやめても大丈夫だ”って言っても聞きやしない。毎日毎日、口を開けば愚痴ばっかり。その愚痴だって平岡に対するものじゃない。うまくやれない自分を責める。きみのせいじゃないって言っても“あなたはなにもわかってない”だぜ。そんな人間に対してなにができるよ。わかるかい? あいつは洗脳されてるんだよ。自分でものが考えられないんだ」
「……」
「俺だって自分の仕事がある。愚痴を言いたいときもある。弱い人間なんだ。あるときね、ぷつんって気持ちの糸が切れてたんだ。容量を超えてしまったんだよ。支えきれなかった。悪いけど、俺だってその程度の人間なんだ」
新庄さんが一気に言った。
俺は「なるほど」としか言えなかった。
「あいつ、どうしてる?」
「練炭焚きかけてました」
新庄さんが目頭をおさえた。
「敦くん、俺の番号知ってたっけ?」
「いえ」
「聞くかい?」
俺はスマホを出した。新庄さんが口頭で番号を言う。
一回試しにかけてみる。ぶるる。新庄さんのジーンズの中で振動。最後列にいた大学生風の女が振り返って“携帯切っとけよ”みたいな目でこっちを睨んだ。切る。
「本当に困ったことがあってなんらかの助けがいるなら、一度くらいなら助けてあげられるかもしれない。一度くらいなら、ね」
「わかりました」
「もういいかい?」
「はい。わざわざすみません」
新庄さんが壁際を離れて、彼女さん(?)の方へ戻っていく。
そのあたりで、丁度ステージの上に相羽達が出てきた。
相羽が夜に沈んでいって溶けていってる。
あいつ歌うめーな。改めて思う。「男が出してる女声の高音」という個性をちゃんと使ってる感じがする。女が歌ってるのとはやっぱり違うけどそれはそれで相羽なりのよさがある。YouTubeでタダで音楽が聴ける時代に1500円でわざわざ歌聞きにくるのはやっぱ俺にはちょっと高い気がするが、まあたまにならいいかと思う。
曲の合間に相羽の視線が客席を彷徨う。なんとなく俺を探してる気配を感じたので、手をあげて振ってやる。見つけたらしくて、にっこり笑ったのが遠目にわかった。もうちょっと前行ってやりゃよかった気がした。
んで相羽は今度はばりばりの男の声の歌を唄う。
同じやつが全然違う声で歌うギャップがちょっとおもしろい。元々体つきも細いし女装メイクの、女に見えるやつが男の歌を男の声で歌うのは多少の耳目を引く。少なくとも「なんか変なやつがいた」で覚えて帰ってはもらえそうな気がする。
でもそんな相羽の個性を掻き消すくらいに、相羽の次に出てきたその日のラストのバンドはばりばりに上手かった。
耳目を引くとか、個性とか、そんなのを全部消し飛ばしてしまえるくらいに、シンプルに音がよくて歌が上手い。歌ってるのはぼんやりした見た目の特に特徴のない男だったのに。街ですれ違っても絶対に印象に残らないような顔なのに。最初の一音が鳴っただけで“なんか違うのがきた”とわかるくらいに、こいつの歌になら1500円くらい安いんじゃないかと一瞬思ってしまうくらいにそいつらの曲はよかった。皮膚がびりびり震えた。こいつと比べてしまうと相羽なんか全然下手だった。相羽達がそこそこ一生懸命練習してるのは知ってるからなんかちょっと悲しい。相羽達が練習してこの差は埋まるんだろうか。
こういうやつらがプロになるんだろうなと思って、その日のライブは終わった。