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怒られる。

 

 姉の家に帰るというのはちょっと変な感覚だった。駅でミスタードーナツのドーナツを何個か買う。ポンデリングとゴールデンチョコレートが姉の好みなのだが俺が好きなココナッツチョコレートをいつも横取りしてくる。あとは定番のオールドファッションとかそのフレンチクルーラーとかカスタードクリームとか。六つもあれば充分かな。なんで姉の機嫌とってるんだろうと若干ばかばかしくなりながら千円札で払ってお釣りをもらう。相羽に千五百円ぶんどられたせいで財布がさみしい。

「ただいま」

 玄関開けて言ってみたら蚊の鳴くような声で「ぉ…ぇ…」が聞こえた。

 たぶん「おかえり」。

 姉はリビングにいてテーブルでポケモンやってた。机にドーナツの箱を置いても(ことん)反応しない。子供の好きそうな食べ物はだいたい好きな姉なのだが。食い気が消え失せている。手元を覗き込むと姉は氷のジムを彷徨っている。滑る床をどの手順で滑ればいいかわからずに四苦八苦した挙句に総当たりみたいな試し方をしてようやっとジムリーダーの元に辿り着く。ヘルガーの炎技が容赦なく氷タイプのポケモンたちを焼き尽くしていく。記憶の中のダイパではこのへんでストーリーが中盤の終わりかけってくらいだったと思うんだがヘルガーって手に入るのクリア後じゃないんだな。

「なぁ、心療内科の予約しようと思うんだけど都合いい日ある?」

 姉がぼんやりした視線で俺を見上げた。

 二拍ぐらい遅れて「どこかわるいの」訊いてくる。

 いや、俺じゃなくておまえがな?

 俺の付き添いでいく、と勘違いしたままらしい姉がスケジュール帳らしき手帳を持ってきて開いて「ええと、次のやすみは」とか言い出す。「会社にはとりあえず一週間休むって連絡してあるよ」「え。なんでそんなことするの」……おまえさぁ。自分がなにしようとしてたか忘れたのか?

「怒られちゃうよ」

 かたん。姉がswitchを置く。

 前も言ってたな。“怒られちゃう”、それがなんかいまの姉にとって大事なワードらしい。電話口で真っ先に怒鳴った平岡課長の声を思い出して「ああね」と思う。“怒らない”ようにしようと決めておく。「姉さ、しばらく会社休んだら?」「どうして?」どうして、っておまえ……、あーえー。「随分痩せたし、仕事のことばっかで他のことできてないんじゃね? 親にも随分顔見せに行ってないだろ」たしか正月にも帰ってこなかった。親は「便りがないのは元気のしるし。あの子にもいろいろあるんでしょ」でそんなに気に掛けてはなかった、というか「そのうち新庄さんと結婚の報告にくる」と無邪気に信じていた。

 姉はしきりに首を捻っている。どうやら俺の言っていることがいまひとつよくわからないらしい。

 姉の思考の最優先は「でもお仕事休んだらいけない」でそれ以外のことがいまひとつインプットされていないし、イメージできないようだった。なぜなら「怒られる」から。……頭が痛くなってきた。そういえば俺は一人で平岡課長をぼこぼこにしてやりたいと思ってただけで姉に退職の意思があるのかどうかを確認していなかったことに気づく。この様子だと「もうちょっとがんばってみる」とか言い出しそうだ。おまえずっと「もうちょっとがんばりつづけた」結果が窓に目張りして七輪と練炭置いて一酸化炭素中毒になろうとしてたんだろ。というのが喉の奥から出かかってそれを言ってしまえば取り返しがつかないほど姉を損ないそうな気がして、どうにか言葉を選ぶ。

「ちょっと休憩いれようぜ」

 なにか言おうとした姉の口にドーナツをつっこむ。

 姉がゴールデンチョコレートの黄色い粒チョコを手で受けながらもそもそ食べる。

「明日でいいか?」

 得心でいった風ではなかったけど姉は俺に押し切られる形で頷く。

 実際心療内科に電話をかけてみたら「明日はもう空きがありません」言われる。空きがあるのは最短で「水曜の十四時になります」とのこと。姉に確認とってその日で予約いれる。二日後、午後二時ね。電話を切る。ふつうに講義入ってるが、しゃーねー。サボるか。レジュメとかあったら相羽にコピー貰おう。ただ俺は“俺の部分を削らない”ことを決めておく。姉の面倒見るのが主体にはなってはいけない。

 それにしても心療内科って予約いっぱいになるほど人来るんだな。姉ほどじゃねーのかもしれないが現代社会には精神を病んでる人がいっぱいいるらしい。あー。働きたくねー。

 で、その夜。俺が適当に作った飯(肉焼いてキャベツと炒めて味噌ダレで味付けしたのと卵スープ)を食って、昨日と同じようにリビングに布団敷いて寝てたら、近くでなんかもぞっと動く気配で目が覚める。電気が消されていて部屋は暗い。顔だけ動かしたら、俺のバッグを漁った姉の顔がスマホのライトで白く照らされて浮かんでいる。声をかけようか一瞬迷う。姉の顔に虚無が張り付いている。その暗さと深さの前に、竦んだ。ビビった。

「ねーちゃん」

 姉がこちらを見る。

 真っ暗な目をして。

 俺は体を起こして、姉の手からスマホを取り上げる。姉は平岡課長からのLINEに返事をしていた。「わかりました」とか「すみません」とか簡便なものだったが。

「そんな顔できたんだな」

 高校のときにバト部の顧問から「やる気あんのかおまえ」てキレられて「あるに決まってんだろてめえの目ぇ節穴かっ!」逆にキレ返してた姉の活力に満ちた顔がない。姉の残像とリアルの姉のギャップがひどい。

「仕事やめたいって思わんの?」

「思うけど、わたしがダメなのが悪いから」

 だったらおまえの六千倍ダメな俺はなんなわけ? ……んなこと愚痴ってもなんにもならんと思って堪える。「俺はその平岡さんって人の言うことは度が過ぎてると思うよ」「そうかもしれないけど、お仕事だからこれくらいは我慢しないと」「そういうレベルじゃなくね? その人の言ってること」「外からだとわからないこともあるんだよ」「……」「あっくんにはまだわからないんだよ」姉はどうしても自分の上司がクソブラック野郎だということを認めようとしない。認めようとしないことでなんらかの自分を保っている。断定はできないが“ここでやめたらここまで我慢してきたことが全部無駄になっちゃう”とかそんな感じだろうか? 姉の目は深くて暗くて黒い。そんな目をしながら上司を肯定できる姉のことがさっぱりわからない。誰かを嫌いになるってそんなに難しいことなんだろうか。

 実際、姉の人生だ。姉の好きにすればいい。俺には関係がない。俺には姉がまがりなりにも社内で築きあげてきたキャリアや信頼を台無しにする権利なんかない。電話をとった人が優しい声で「お大事にとお伝えください」と声をかけてきたのを思い出す。かといってパワハラの告発のような揉め事を起こしたときに姉の社内での立場を悪くしない方法もわからない。俺は所詮大学生でただのクソガキだった。

 でもここが分水嶺のような気がしている。

 ここで姉を手放したらたぶんもっぺん姉は練炭を焚くことになる。

 なのに俺には言うべき言葉が見つけられない。姉になにをすればいいのかわからない。開きかけていた姉の心が閉じていくのがわかる。もうすこし考えさせてくれよ。

「あっくんにはわからないよ」

 姉がもう一度言う。

 そりゃわかんねーよ。仕事と責任がどれだけ大事かとか。俺にはバイトくらいしか経験がないし、社会人にのしかかってるプレッシャーなんかほんとのところわかんないし姉の気持ちは想像するくらいしかできない。でもおまえ、助けにきてくれた、って言ってたよな? 助けにきてほしかったんだよな? つーかおまえもガラスの隙間を塞ぐようにびっちり貼られたガムテープとでっかい七輪と練炭が部屋のど真ん中に鎮座してるのを見た俺の気持ちなんかわかんねーだろ。脳がバグってとりあえず笑うしかなかった俺のことなんかわかんねーだろ。くそ。

 俺は悔しかったのだ。俺にとって姉は自分の先を行ってる存在でくそうざくて目障りだったしコンプレックスだったが、同時にピカピカに光ってる道しるべでもあったのだ。憧れだったのだ。それが他人にボロカスに言われて汚されて泥にまみれて沼の中に引きずり込まれようとされているのが我慢ならなかった。それなのにいま姉が手を掴もうとしているのが俺ではなくその平岡とかいうクソ野郎だということも悔しくて仕方なかった。なんでこんなに近くにいるのに俺たちにとってお互いはこんなに遠いんだろう。

 俺の中の意固地な部分が勝手にしろよと言いかけたけれどそれは絶対に違うことがわかるから口パクに留める。ぶっちゃけ俺も動揺してるしかなり泣きわめきたい気分なのだけど、俺が泣きわめきはじめたらもう収拾がつかなくて姉が掴まれるものが何もないから平気なふりをするしかない。

「あー、もう」

 他に方法がわかんなくて。

 言葉だと何も見つけられなくて。

 俺は姉の薄い体を抱き寄せる。おまえのことが大嫌いで憎んでて目障りで鬱陶しくて大好きで愛してて目標の一つにしてることを伝える方法が他にわからなくて俺は姉の背中をぎゅっと抱きしめる。姉の手も俺の背中に回る。

「大丈夫だから。なんとかするから。なんとかなるから。まかせろ」

 人間ってのは抱きしめられるとストレスが六割くらい減るらしくて単純接触効果は結構つよい。しばらく抱き合ってたらこわばっていてつめたかった姉の体から緊張が抜けていって、血が巡って徐々に暖かくなりやわらかく緩んでいく。スマホのライトはいつのまにか消えている。



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