山路教授。
姉はすげー勢いでポケモンをやっている。俺が戻ったときにはクロガネのジムリーダーを倒してバッチをゲットしていた。姉のナエトルははやくもハヤシガメへと進化し、いまはハクタイの森を彷徨っている。
仕方なく姉がポケモンやってる向かいでイヤホンを耳に突っ込んで音楽を聴きながら教科書とノートを広げる。同じ高校から別の大学に行ったやつらが同窓会のときに「え、おまえ大学入って勉強してんの? まじ?」俺を信じられないものを見る目で見てた。俺だって遊ぼうと思ってたんだっての。
姉は時折俺を見て自分のスマホを取り戻そうとする素振りを見せるが、勉強してる俺の邪魔をするのに気が引けるのか直接的な行動には移してこない。なんか用事があるときは俺が勉強してようがマンガ読んでようがゲームしてようがイヤホン引っこ抜いて自分の言う事を聴くように命じてきた姉からは信じられない。果たしてそれが進化なのか退化なのか。姉は進化しかできないポケモンなのか退化も可能なデジモンなのだろうか。
耳元で音楽鳴ってるのにこういうのも変だけど、静かな時間だった。
俺は姉との幼少期をやり直してるような錯覚に襲われた。まあそう感じてるのは俺だけで姉はスマホが気になるほかはポケモンに集中している。草タイプのジムリーダーのナタネを飛行タイプのヤミカラスで強襲している。他のことはなんも考えてなさそうだ。
そのまま夕方を過ぎてきて、米を焚いてキャベツとたまねぎを切って肉と一緒に炒めて焼肉のたれで味付けした野菜炒めとあとはみそ汁を作って、食う。明日はもうちょっとましなもの作りたい。
それが終わると姉は再びポケモンに戻る。俺は疲れてシャワーを借りたあとにリビングに布団を敷く。姉がぽちぽちゲームやってるのを横目に寝る。部屋は明るいままだが俺は明るくても寝れるタイプだ。
朝になって目を覚ます。荷物の中の姉のスマホを確認する。ある。姉はいない。寝室に戻ったんだろうか。起こさないようにこっそり見に行くとベッドの向こう側からswitchのライトが姉の顔を照らしているのが見えた。部屋を閉じる。
歯を磨いて、大学に向かうべく姉の部屋を出る。精神を灼いてくる朝の陽ざしを浴びながら駅に向かい、定期が効かねーから切符を買って同じような亡者の群れを横目に電車に乗り込む。朝のラッシュ。人の身体に押し潰されそうな密度の電車のなかは、いつもはうぜぇと思いながら乗るのだが姉にあてられて、てか平岡課長の罵声のせいで若干鬱々していた気分で揺られていると「他人の感触」に紛らわされて多少気持ちがあかるくなった気がする。
実家からだと乗り換えがあるのだがここからだと一本で大学までいける。電車から吐き出される人間の流れに沿って俺も降りる。階段を降りて改札に切符を通す。マクドナルドやコンビニを横目に大学まで歩く。講義を受ける。睡眠環境が変わったせいか若干眠い。大学の一コマ一時間半の講義は一年のとき勉強と考えて聞いてたらわりときつかったんだけど「なんかおもしろいおっさん達のおもしろい話を聞きにきてる」と思って聞き出したら結構楽しくてなってきていまではそれほど苦痛じゃなくなった。
昼休みに図書館に寄ってノートパソコンを借りる。「他の端末と接触させる際にはウイルスに気を付けて」との注意書きが張り付けられたパソコンに姉のiPhoneにつないで、平岡課長から送られてきたLINEの内容を印刷する。パソコンを受付に返す。
それから教室とは別棟にある山路教授の研究室を訪ねた。こんこんこん。ノックすると「はぁい?」おっさんが若作りしたような声が返ってきた。ドアを開ける。書類と本まみれの埃っぽい部屋に入る。ドアを閉める。
「あれ。本谷くん? 今日提出物なんかあったっけ? ないよね。だって僕、宿題出さないし」
四十五歳で年相応の顔つきなのに、雰囲気だけは異常に若々しい山路教授が近所の丼屋からウーバーした海鮮丼から顔を上げてすっげーにこにこする。スーツ姿の眼鏡に髭面なおっさんが柔和な笑みを浮かべているのは、やや不気味に映る。インテリヤクザってこんな感じなんじゃないだろうか。大学教授なんてのはヤクザみたいなもんだ、と先輩が言ってたのを思い出す。特に山路教授は「タメ語でいいよ。ぼく堅苦しいの嫌い」こちらにも敬語を使わせないのが余計にやくざっぽい。
「そうすね」
「個人的な用事? いいよ。相談乗るよ」
サーモンと米を頬張りながら椅子を勧めてくる。
ありがたく座らせてもらう。俺はさっき印刷してきた平岡課長からのパワハラ&セクハラの山を取り出す。
「俺の姉の話しなんすけど」
教授は渡した印刷物を何枚か捲って「うわぁー」言いながら海鮮丼を食う。ついでに姉のスマホの着信履歴も見せる。他の人や営業先からの電話もあるが履歴の十件の内六件が平岡課長からのものだ。
「姉が休みの日に一回俺が取ったんすよ。そしたら第一声からまず怒鳴り声で。あーこりゃやべーなーと思って」
容姿やらなにやら明らかに業務に関係ない罵声を浴びせてたことも話す。
「本谷くんはこれ、最終的にどうしたいわけ?」
「そりゃもうこいつをぎったんぎったんにこきおろして損害賠償でうはうはになりたいっすね。いや、取ったとしても俺の金じゃねーですけど。ぶっちゃけこれ訴訟やったら勝てますか?」
「うん、勝てるね」
山路教授はあっさり言い「こんな露骨なのは最近じゃ珍しいよ。いまはどこの企業さんもパワハラだ!って言われないように気を使ってるから。それも記録に残る形で」お茶を一口飲む。
「いま時間だいじょうぶ?」
「いけます」
本谷くん真面目だから講義でやったぶんは知ってると思うけど。
前置きして「改正労働施策総合推進法」、通称“パワハラ防止法”の話しをしてくれる。ざっくり言ってパワハラには六つあって「身体的攻撃」、「精神的攻撃」、「人間関係からの切り離し」、「過大要求」、「過小要求」、「個への侵害」で、姉の場合は「精神的攻撃」と「個への侵害」に該当する。職場での姉の様子を俺は知らないのでもしかしたら他のもごろごろ出てくるかもしれない。「おそらく出てくるだろうね」山路教授が言う。
「でもねー、パワハラ訴訟は結構労力に見合わないかもしんないよ。100万円前後取れたら御の字ってとこがあるんだよねぇ。こういう面については日本はまだまだ後進国なわけ。企業側は一般人よりはるかに体力あるし面子に関わるから必死に潰そうとしてくるしね」
革命で市民が勝ち取ったわけじゃなくて外国のシステム真似しただけだからねー。
そのへんの意識ちがうよねー、やっぱ。
ニコニコしながら話す山路教授の説明を聞いてて、日常的に暴言を吐いて人を自殺寸前に追い込んでも被害者がほんとに死ななかったら「百万円払えば許される」んだなと俺は思う。平岡課長の給料いくらなんだろ。たぶん三か月分もあれば足りるよな。クビになったりはするんだろうか。ケースバイケースか。じゃあこの場合は? 人間一人ぶっ壊して百万で職も失わずに済むのかな。ふーん、へえ。
山路教授は海鮮丼を食い終わって一息つく。
「お姉さんってどこ勤めてるの?」
「篠崎電子です」
「大手じゃん。えぇー……あそこってそうなんだ」
「平岡って人がやばいだけかもしんないですけど」
「いやぁ。そんなの言い訳にならないよ。大きいとこはちゃんと自浄作用働かせなくっちゃ。でもそっか。最近電子機器は韓国とか中国つよいもんねえ。大手だからって胡坐かけない状況だもんなぁ」
「これからどうしたらいいと思います?」
「とりあえず一番急ぎでやるのは、心療内科だね。診断書取りにいこっか。紹介するよ」
山路教授は名刺を抜いてその裏に心療内科の電話番号を書いてくれる。
「弁護士も僕の知ってる子に頼もっか。診断書とったらまた来てよ。お姉さんとも話しておきたいな」
俺に伝手なんかあるわけもないからありがたく受け取っておく。
「すみません、お世話になります」
頭を下げる。
「いやいや。若い子の役に立つのがおっさんの役目だから」
あっけからんにいう山路教授が頼もしい。
研究室を出て、午後の講義に向かってそれが終わり、帰ろうと教室を出た。ら、「もとやん。おーっす」相羽に捕まった。
ピンク色の髪に顔に掛かる部分の右側にだけ銀色のメッシュ入れたわけわかんねー頭しててギターケース背負った相羽 (三年。軽音楽部。山路ゼミ所属)がギラギラしたネイル振りかざしてマスクずらして口角をあげる。本人は笑ってるつもりらしいんだけど目元に濃いラインを引いたメイクと見るからに気の強そうな顔立ちがライオンとかそっち系の動物が獲物を前に舌なめずりしてるように見せている。あったかそうな革ジャン着てて、指ぬきの黒の薄い手袋で手の甲を隠している。
「なんか暗い顔してんね」
低い声で訊いてくる。
「そうか?」
俺は自分の顔に触れる。顔に出してはないつもりだったのだがやっぱり自分で思ってるよりも姉のああいう現場を目撃したのはショックだったのかもしれない。てかショックだったんだろう。
「なんかあったの」
「いや、べつに」
「ほおー」
相羽は急に俺の頭を腕に挟んでヘッドロックかけてきた。
「生意気だなおまえ」
いてえよ、バカ。(浪人してるせいで)年上の同級生という妙な立ち位置を振りかざしてコミュニケーション取ろうとするな。腕を離した相羽が「おっぱい堪能した気分は?」とか訊いてくる。が、こいつに胸らしきものはない。ゼロだ。「骨が刺さっていてえ」答えたらパンチされた。ちなみに傍からみれば友達っぽい距離感に見えるかもしれないがこいつは誰にでもこんな感じだ。
「んで、どうしたんよ?」
話すまで帰さないぞ。という雰囲気を感じ取ってどうするか迷う。顔の広い相羽は結構いろんな人にいろんなことを相談されてるらしいが、ちゃらい雰囲気と逆に口は堅い方らしくてこいつから誰かに噂が広まったって話しは聞かない。んで俺も突然背負うことになった重荷をもうちょっと誰か気楽な人間に話したかった。
「食堂いくべ」
「よしきた」
俺たちは場所を移して、相羽がラーメンを頼む。俺は水。
混む時間は過ぎてるから人はまばらだ。俺と相羽は隅っこの席に座る。
「まず最初にさぁ、心配しねーで欲しいのよ。ただ誰かに喋りたいだけだから」
「ほいほい」
白いテーブルに肘をつけてずるずる麺啜りながら相羽が言う。
俺はことの顛末を適当に話す。姉の部屋にswitch取りに行ったら部屋に目張りしてあって七輪と練炭が置いてあったこと。姉のスマホに平岡課長なる人物からパワハラ&セクハラの電話がかかってきたこと。それからLINEの履歴のこと。
「ふーん」
相羽は、おもったほどおもしろい話じゃないな、くらいのリアクション。塩ラーメンのスープを啜る。こいつどんな話を期待してたんだ。
「失恋でもしたのかと思ってた」
「……」
ふぁっく。
「あたしにしてほしいことある?」
「笑い飛ばしてほしいかな」
「わかった。がははははは!!!」
ほんとに笑いやがったよ、こいつ。
まったく、なんていいやつだ。
「っと。そうじゃなくてだね。声かけたのは、これなんよね」
相羽は手荷物からどぎつい色が印刷された紙きれを取り出す。
「ほい、千五百円。よろしく」
ライブのチケットだ。大学からちょっと行ったところにある小さいライブハウスでやってるイベントのもの。買えということらしい。おまえらの歌なんか部室棟の防音室いったらいつでも聞けるじゃねーか。
「俺いま金なくてさぁ」
「おっぱい堪能したよね?」
だから「ない」だろうが、おまえ。
セクハラの押し売りってなんだよ。
抵抗虚しく押し問答の末に俺は千五百円のチケットを買わされてしまう。
「まいどー」
ラーメンのスープまで飲み干した相羽が上機嫌に立ち上がり「んじゃ、またねー」部活棟の方へ歩いていく。あいつまじでチケット売りにきただけだったんだろうな……
講義受けて疲れたのにくる前よりちょっと気分があかるい。




