舌。
気絶してた。目を覚ましたら病院で個室にいて姉が俺を覗き込んでいた。姉がナースコールを押してくれて医者がきて、軽い意識検査のあとにいまの俺の状態を教えてくれた。事故から三日が経っていた。医者の話しを要約すると車がぶつかったときに先ず左大腿骨がばっきり逝ってて車のフロントガラスと屋根に乗り上げたときに鎖骨や肋骨を強く打って亀裂骨折して落ちたときに右上腕骨が折れたらしい。んで頭を踏まれたときに頭蓋骨に罅が入って頬骨が折れて歯が折れて鼓膜が破れた。と。手やら足の細かい捻挫やら頭皮の損傷やらは数を挙げればキリがなくて、ようするにまあだいたいの見込みで全治三十週。おめでとう、入院です。だった。
平岡は殺す気満々だったから「生還した」というのが正しい見方っぽくて、相羽が割り込んでくれなかったら多分ご臨終で全身包帯塗れでミイラ男状態のいまはまだましっぽかった。感謝しとこう。
入院して一週間くらいは熱が引かなかったし痛くてまともにしゃべれなかった。
ようやっとましになってきたぐらいで姉がきて現状のことをいろいろ喋っていった。
平岡がどうなったのかというと、目撃者がナンバープレートを覚えてて銀のスカイラインって特徴も何人かはちゃんと見ててしっかり逮捕されたそうだ。が、「車は盗難被害にあっていた。自分はまったく何も知らないし関知していない」とあの堂々とした自信に満ちた調子で言っているらしい。
あれはあれですげーやつだなと俺はちょっと感心した。
姉の会社からは平岡が逮捕されてすぐに山路教授のところに連絡があって三百五十万が慰謝料+未払い残業代として振り込まれることになった。奇しくも平岡が逮捕されたことであいつがやべーやつで姉がパワハラにあっていたという筋書きの正当性が担保されてしまって姉はこれまで通り会社で働いてOKだし、なんなら別途で俺の治療費も全額出るとのこと。撥ねられた甲斐があったんだろーか。
ただ元々の主張の未払い残業代だけで四百万って数字はどう考えても無理があって、ちゃんと精査した末に三百五十万って金額に落ち着いたそうだ。それでも三百五十万ってこの手の示談にしては桁外れに大きい額なったのは事態が殺人未遂にまで発展したから“これ以上余計なこと喋んな”という意味もあったんだろう。(示談書の内容にはだいたい「このことを口外しない」という文言が含まれる)
あぶく銭を手にした姉が俺の病室で「なんに使おうかなぁ?」とちょっと首を傾げる。
「とりあえずswitch買え」
んで俺のを返せ。
なんならポケモンアルセウスをつけろ。
「考えとくー」
姉はすっかり元の調子を取り戻してくすくす笑ってて悪怯れる気配がまったくない。九割九分平岡のせいなのだが平岡が俺に目をつけたのは姉が原因なのだからもうちょっと悪怯れろ、なんならもう一回洗脳されてこい、と思うのだが、前の姉が気持ち悪すぎたからまあこれでいいか、とも思う。
性格わりぃけど、これが俺の姉なのだ。
それから姉は「あんたの連れてきたあの相羽さんってさぁ、あれ男の子だよね?」と言う。げ。
「手みたときにさ、あ、あたしの好きな手だーと思ったんだよね。雄一に似てんなーって。それでよくよく見たら、あれー? って思ったんだけど」
「あー……それには複雑な事情がありまして」
「母さんには? あたしから言っとこっか?」
「いや、伏せといて。絶対やかましいから」
「わかった」
なんかの拍子にぽろっと漏らしそうでこわい。
というかそもそもこいつは約束を平気で破る女なのだ。
「これで貸し借りなしね?」
「貸し?」
なんかあったっけか。
いや。Switchは貸してるけど。
姉は短く舌打ちして不貞腐れた顔で「もうちょっと借りといてあげる。あー、あんたに借りつくるなんて一生の不覚だわ……」と言った。
後日。山路教授が見舞いにきて「やあやあ大変な目にあったねえ」にこにこして言う。
「教授って俺の相談受けたときどんな風に思ってました?」
「お小遣い稼げそう!」
だからときどき悪い顔してたわけね……
それから教授はちょっと考えて「実働一日で三十五万、おいしいです!」と言った。
契約通りに会社から振り込まれた三百五十万の十パーセントの三十五万は山路教授に振り込まれる。ああ、「慰謝料の、十分の一」じゃなくて「会社から引っ張れた分の、十分の一」って言ってたのはこうなるのをある程度は想定してたのかな。
「まあまたなんかあったら相談してね!」
「相談するような内容が出てこないことを祈ってます」
「そりゃそうだ!」
それから新庄さんも来た。
仕事帰りだったらしくてぴっちりしたスーツにネクタイを締めて髪をきれいに梳かしている。平岡のスーツ姿を見た時に「なんかちがうな」と思ってのだがまじもののイケメンがちゃんとしたスーツを着こなしているのを見て「ああ、そうそうこれこれ」と思う。イケメン死すべし。
「結局俺のとこには頼りにこなかったね?」
新庄さんは見舞いに持ってきたフルーツセットの籠を置いて丸椅子を引っ張り出して足を開いて座る。そういえば山路教授は見舞いの品とかなんも持ってこなかったな。
「あんたさぁ、いまの彼女つまんないんだろ?」
俺は意地悪く言う。
「だからワンチャン俺に姉との仲を取り持ってほしかったんっしょ?」
「さあねぇ。そうかもね」
「いまさらてめえの出る幕なんざねーんだよ。ばーか。手ぇ放したのを一生後悔してろ」
俺は左手の中指を立てた。右手はまだちゃんと動かない。
新庄さんは姉と似たような仕草でくすくす笑った。
「元気そうでよかったよ」
「バカヤローどこが元気そうなんだよ」
ミイラ男状態の俺は笑ったら全身が痛い。
「じゃあまた。由美のことは置いといて気が向いたら遊びに誘うよ。治ったら教えて」
「誰が教えるか、バーカ」
「今度贔屓のバンドがライブやるんだよ。一緒に行かない? the pillowsって言うんだけど。奢るよ」
……若干心が揺らいだ。
くすくす笑ったまま新庄さんが出てった。
後ろ姿までかっこよくて死ねと思いました。
最後に相羽が来た。女装メイクの方の。
「……」
相羽は椅子出して座ったきり黙りこくっている。
「あー、あのー、ありがとよ」
まじでがちでおまえ来てくれないと死んでたっぽい。
こいつがギターケース振り上げて平岡に殴りかかってくれなかったら俺はお陀仏だった。
「はじめてさ」
「んあ?」
「体が男でよかったと思った」
ぽつりと言う。
まあたしかに女だったら平岡撃退するのは無理だったかもしれんな。
相羽がまた黙る。
仕方ねーから「親とその後どーだよ?」と訊いてみる。
「漫画喫茶とか転々としてたら、帰ってこいって。心配した、黙って出てくのはやめてほしいって言ってる。いまのところは小康状態」
それから「部屋片づけたよ」付け足す。
よかったな、で、いいんだろうか?
………………
なんか空気が重い。
んー。じゃあ、言うかなぁ。
「あと、あー、あのときの返事だけどさ」
「言わなくていいよ」
「聞けよ」
相羽は小動物が肉食獣を目の前にしたときみたいなもうほんとうにどうしようもない場面を迎えてあとは死ぬしかないくらいのレベルの怯えた顔で俺を見る。ウケる。
「いいよ」
「え?」
「俺はおまえ嫌いじゃねーし、いいやつだとおもうし、どっちかっていうとやっぱ好きだし。正直どこまでやれるかはわかんねーけどとりあえず一回付き合ってみてもいーんじゃねーかって。まあなんだ。ダメそうだったらそんときはそんときでまた考えようぜ」
相羽が俯く。ぼそぼそとちっさい声で「いつかは、離れ離れになるのかな」と言う。
「そりゃあな。大学から付き合ってそのままいくやつらなんてそんなにいねーだろ。姉も結婚するんだろーなと思ってたくらいのやつと別れたし」
「本谷の親、反対するかな」
「するだろーな。特に母親。考え方が保守的だし。騙されたーってぎゃあぎゃあ騒ぎそう。まあ最終的にはどうとでもなるんじゃねーか。そんななにもかも完璧じゃなくても、多少けちついても構わんだろ」
相羽が顔をあげた。泣き笑いするような表情で、こらえきれない、って感じで飛びついてきて俺に自分の唇を押し当てた。
舌入れてきやがった。
終わり




