シーン#02 レベッカ
煤けた空、鼻を突く臭い、そして我先にと逃げ惑う人々。みんな何かを叫んでいるのだけれど、わたしには何を言っているのか聞き取れない。わたしはお母さんに細い腕を強く強く握られて無理やり引っ張られる。「痛い」とわたしは言う。お母さんにこの声は届かない。
またこの夢だ。これは夢だとわたしは認めている。
「あれなあに」とわたしはお母さんの歩みに合わせて言う。お母さんは何も答えない。これ以上は見たくない。激しい衝撃音が響き渡る。気が付くと横になっていた。右から左に向かって家々が建つ。上から下へと人々か駆けていく。ちぐはぐな世界でわたしはキョロキョロと目だけを動かして眺める。これ以上は見たくない。ふと軽くなった左手に気付く。そして私は顔を動かして左を見つめる。赤い。そしてすえた臭い。視線の先のぐちゃぐちゃ。もう見たくない。「お母さん」赤く染まった掌が歪んで、その先にある物体が鮮明になる。「お母さん?」
ハッとして目を覚ますとうっすらと暗い天井が目に入った。またあの夢を見てしまった。びっしょりと背中に残る汗はその熱を失ってひんやりとする。猛烈にシャワーが浴びたくなる。左手首に目をやると午前五時の表示。まだ起きる時間じゃない。シャワーはまた起きてからにしよう。そう思ってうんざりとした気分で瞼を再び閉じる。
次に目を覚ました時には午前七時の表示。あれから二時間は寝ることが出来たみたい。目覚まし設定では午前七時半にしているというのに、どうしてもいつも目覚まし設定の時間よりも早く起きてしまうのは不思議。ベタついた肌を早くスッキリとさせたくてベッドから跳ね起きて、目に着いた着替えとバスタオルを掴んでシャワールームに向かう。
男女別の寮には男女別のシャワールームがある。本当はバスルームが欲しいのだけれど、予算の都合でダメらしい。それでも女子のシャワールームは男子のシャワールームより二つ多くて三つあるからわたしは満足している。女子寮には三人しかいないので実質一人につき一つのシャワールームがある。だからバスルームが無くても我慢できる。男子にはちょっとだけ悪いけどね。
下着を共用の洗濯カゴに入れてキレイな姿で温かいシャワーを浴びる。温水が全身を流れて、あの悪い夢と共に排水溝に流れていく。家族をAHIに殺されたわたしは一種の精神的な病によってあの悪い夢を見続けるのだとお医者さんは言っていた。フラッシュバックって言うのかな。とにかくわたしはわたしに染み付く悪い夢を消し去るためにAHIと戦う。
それが私の「復讐」のアドレセンス。
アールグレイの香りが漂うティーカップ、たっぷりとバターを塗ったこんがりトースト、ぷりぷりとした食感のスクランブルエッグ。今日はわたしの大好きな洋風のモーニングのようだ。食堂はわたしにとってお気に入りの場所の一つ。暖かい色の壁とキレイな真白のテーブル、そして食欲をそそる料理たち。
「毎日洋風モーニングだったらいいのになあ」
「それじゃあぼくは飽きちゃうかも」
横に座っているジスが本当にそうなったら困るような顔をしながらそう言う。この表情を見る度にジスを一言で表すなら可愛いだといつも思う。
「わたしも飽きちゃう。トーストとか大嫌いになっちゃうかも。でも毎日食べてもいいなってくらい好きなの」
「そういうことかあ。本当に毎日洋風モーニングになっちゃったらどうしよおって考えちゃったな」
「ジスはいつも真面目に受け取り過ぎ」
いい香りに包まれながら気持ちよく笑う。そうしている内にぞろぞろと他のメンバーがやってきて「おはよう」と挨拶をする。そしてジニャスが両手を顔の高さまで上げて、肩をすくめて「今日もカイはお寝坊さんみたいだ」と大袈裟に言ってわたしたちの朝は始まる。
寮母のアン姉さんはいつもジニャスの報告を受けると、ピンク色の派手なエプロンを着たままわたしたちのテーブルの前に現れる。
「じゃあみんな手を合わせて」
示し合わせたようにみんなが手を合わせて静まる。
「いただきます」
『いただきます!』
こうやってみんなで声を揃えて食事を始めるこの瞬間が何か好き。そしてみんなの表情をトーストを頬張りながら眺める。向かいに座るリリはうつらうつらとしたままスクランブルエッグをつついていて、その横のライトは綺麗な姿勢でサラダを口に運んで、その斜め向かいのジニャスはライトに何か話かけていて、横に座るジスはアールグレイをゆっくりと啜っている。
みんなとたわいもない話をしている内にカイがぼさぼさの頭を掻きながらやってきて、挨拶もせずに席について朝食を取り始める。ジニャスは「いつになったら早起きするんだ?」と半分からかい半分真面目にそうカイに尋ねるけど、いつもカイは「朝は無理なんだ」と自信満々にそう返す。一種の様式美と化したこのやり取りもわたしは好き。アールグレイをゆっくりと口に含みながら、みんなのやりとりに耳を傾けては会話を楽しむ。ライトは食べ終わるとすぐに部屋に戻っちゃうのが残念だけど、みんなはカイが食べ終わるまで残っているからそこまで気にならない。
そうしてカイが食べ終わるとジニャスはアン姉を呼びに行く。それに合わせてライトが何故かまたテーブルに戻ってくる。そして再び手を合わせて「ごちそうさまでした」とみんなで言って席を立つ。
今日は授業のない休日。今からの時間は自由で夕方までに帰るなら帝都トウキョウまで外出するのが許されている。だからわたしはわたしとジスとリリの三人でショッピングに行く。
トウキョウ駅のホームに降り立って見上げるトウキョウの空はいつも晴れている。晴れていると言っても仮想気象による立体映像での快晴だから本当の晴れではないのだけれど。それでも晴れ渡る空を見るのは気持ちいい。作戦中にしか本当の太陽が覗けないのは残念。前世紀の人は毎日お日様の光を浴びていたというから驚き。
トウキョウで人気の若者アイテムの揃うシブヤエリアに向かうためにバスに乗り換える。
「昔はこのバスを動かす為に働く人がいたんだって。何度も同じルートをぐるぐる回って人を運んでいたらしいよ」
車内でジスが電子広告を眺めながらそう言う。電子広告では地球由来のエネルギーに頼らない新たなエネルギーの開発の為の研究者を募っている怪しげな団体の宣伝映像が流れ続けている。
「もしかして前世紀の話?ほとんどの単純作業をシステム化して失業者続出。それと入れ替わるように戦争がじわじわ起こり始めて失業者はみんな兵隊さんに。有名な話よね」
この話は新世紀が始まったばかりの頃はタブーとされてたみたいだけど、もうみんな気にせず話するようになった。
「人が本当に必要としている仕事をしていた人が戦後も生き残ってこうして暮らしているんです。私はあの戦争は人類の選別だったと思います」
リリはこうやってとんでもないことをハッキリと言う。わたしとジスはまずったと顔を合わせて視線を外の景色に移した。それでもバスに乗る他の乗客の視線がリリに注がれているような気がして気が気ではない。
「あ!ね!ね!シブヤが見えてきたよ!」
するとジスははぐらかすように色めき立った声を上げた。「わあ」と声を出しては見たものの、それでもわたしはリリの発言が頭に残っていた。地球が今わたし達にAHIをぶつけてくるのはきっと地球による生物の選別なのだと思う。みんな薄々気付いているのだろうけど気付いていないフリをしている。それじゃあお母さんは選ばれなかったのかな。私は必ずこの問いにぶつかってしまう。
バスから降り立つとトウキョウ最大のショッピングモール1090がその存在感を大きく見せる。仰々しく1090と書かれたホログラムを見る度にわくわくする。それはジスもリリも同じみたいで興奮が伝わってくるようだ。
沢山の人が老若男女関係なくショッピングモールの周りを各々好き勝手に闊歩している。流石新帝国の中でも有数の文化の残る都市だ。こうやって普段目にすることの無い人たちや建物を見るのは本当に楽しい。
そんなわくわく感を遮るようにしてどこからか集団で叫ぶ声が聞こえる。
『地球の意思に従え!』
『地球の意思に答えろ!』
わたしたちは辺りを見回してたけれどその声の主は見当たらない。
「なんか聞こえるね」
「ちょっと嫌な感じ…」
「『地球会』…ですね…」
「え、リリ、何て言ったの?」
そう言いながら見たリリの横顔は険しく不快感が強く滲み出ていた。その形相にたじろいだわたしはそれ以上何も言えなかった。
「噂の『地球会』です」リリは当然知っているかのように話しだす。「地球が人類に対して送り出すAHIは地球が人類を必要としていないというメッセージであって、私たち人類はその地球の意思に従って潔く滅びるべきだという破滅願望を持った宗教団体です」
「ぼくも聞いたことがある。最後の人類として地球に感謝しながら種を終えることを最大目標にしているんだって」
「知らなかったな。そんなの」
何故かこの話題をこれ以上広げたくはなかった。口の中がカラカラとしていて、よく分からない不安感がじわじわと全身を蝕んでいくような感じ。何よりも普段から温厚なリリが尋常じゃない表情をしていることが気にかかった。
『地球の意思に従え!』
『地球の意思に答えろ!』
彼らの声はいよいよ勢いを増して大きくなってきた。これ以上ここにいるのは良くない。本能的にそう感じて二人の腕を引っ張る。
「ささ!あんなの放って置いて行こ!」
苦笑いを浮かべるジスと険しい表情のままのリリを連れて始まったシブヤエリア1090でのショッピングはあまり盛り上がらなかった。
第3話は7月15日午前1時投稿予定です。何卒。