夏草
ホシくんはいつもヘッドホンで耳をふさいでいた。コンパクトなヤツじゃなくて、何万もするようなゴツいヘッドホン。
そばにいくと聞いている曲がはっきりわかるくらい音漏れしていた。音がでかすぎる。
耳が悪くなるよ、とおせっかいなことをいったことがある。
私が喋っているのに気づいたホシくんはヘッドホンを外し、首に置いた。
なんかいった? と聞くホシくんに、デカい音聴き過ぎると耳悪くなるって、と私は少し大きな声でいった。ホシくんはへらりとあいまいに笑ってヘッドホンを耳に戻した。
喧嘩を売られてるのかな? と思ったものの、ヘッドホンをしたホシくんがおもむろに私の肩を抱いたりするので、結局誤魔化されてしまった。
あの頃の私はすっかり騙されていたけれど、今はもう分かってる。私の言葉はホシくんに届いてなんかいなかった。感情的な意味でなく身体的な意味で。
ホシくんはロックみたいな曲ばかり聴いている。ロックが好きなのかと思いきやそうではないらしい。
音楽に興味はないとホシくんはいった。男の人ががむしゃらに歌ってるのを聴いていたいだけなんだって。
それって好きってことじゃないの? CDジャケットを眺めつつそう聞いた私に、違うよ、とホシくんはいった。はっきりとした分かりやすい拒絶の言葉だった。
あれはいつの夏だっただろう。蒸し暑い夜に二人でビールをたらふく飲んだ。
家飲みだったので唐揚げだのなんだの、買ってきた惣菜をいろいろテーブルの上に並べたものの、夏バテ気味のホシくんはレンジでチンした枝豆を少し食べただけだった。だからすごく酔っていたんだと思う。
「俺がガキだった頃、まだ親が二人とも生きてて、毎日すげぇ喧嘩しててさぁ。俺、まだ全然ガキだったからそういうのすっげぇ嫌だったんだよなぁ」
そういったホシくんはいつもの仏頂面からは想像できないくらい、無邪気に微笑んでいた。
「大人が本気でガキみたいに喧嘩してたからさぁ、すっげーうるせぇの。マジでボロいアパートだったからワケ有りみたいなのしか住んでなくて、苦情とかはこなかったけどさぁ。隣に住んでた若いにーちゃん、たまんなかったと思うよ。結局最後まで文句いいに来なかったけど。
でも俺の親が怒鳴りだすと、いつも対抗するみたいにギター弾いて歌ってた。それがまたひどくて。すげぇダミ声なの。だけどギターはめちゃくちゃ巧かったんだよなぁ」
珍しく饒舌なホシくんは、ビールをごくごく飲みながらごきげんな様子でぺらぺらと喋った。
「いろんな曲聞いた今でも、そいつの歌ってた曲がわかんねーの。たぶんオリジナルだったんだろーなぁ。
ガラガラな声でうさんくせぇ英語みたいなの叫んでたよ。それがなんかもーすごくて。ソーゼツで。まぁ、俺の親には全然聞こえてなかったみたいで元気に怒鳴りあってたんだけどな」
あれはマジで凄かった。そうつぶやいたホシくんはぬるくなったビールを喉を鳴らして飲んだ。
上下する喉仏を眺めているとその白さや細さに不安になって、私は無意識に枝豆を差し出していた。ホシくんは眉をしかめつつ受け取って、しばらく枝豆を弄んでいた。そしてにやりと笑うと唐突に私の顔めがけて豆を飛ばした。
皮から飛び出した豆は思いのほかよく飛んで、私の額にぷちっと当たった。なんともいえない屈辱感。ホシくんはギャハハと笑い、顔射! と下品に喜んでいた。
そのはしゃぎように萎えた私は報復する気にもなれず、無言で冷えたビールを取るべく立ち上がった。
「あいつ今も歌ってんのかなぁ」
背中で聞いたホシくんのひとりごとが汗臭いTシャツに染みた。
冷蔵庫から冷えたビールを二本取り出していると、俺ジンライムー、とホシくんが叫んできたのでそんなもんないよ! と叫び返した。ギャハハとまたホシくんは笑い、それからすぐにテーブルに突っ伏して気絶するように寝てしまった。
今もホシくんはゴツいヘッドホンをつけ、爆音で音楽を聴いている。ホシくんに私の声はもう届かない。
最初はひどく悲しかったし、やるせなかったけど、もう慣れてしまった。
聞こえようと聞こえまいと私はホシくんに話しかけるし、ホシくんは聞こえようが聞こえまいがヘッドホンをつけたまま私を見てあいまいに笑う。
ワケ有りの人たちしか住んでいないようなおんぼろのアパートで、私たちは二人で暮らしている。私たちの部屋は静かで、ヘッドホンから漏れた男性の叫び声がかすかに聞こえるくらいだ。
セックスをしているとたまに隣の住人から壁を蹴られる。
ホシくんは耳がダメになってから喘ぎ声が大きくなったのだ。どんなに壁を蹴られてもホシくんにそれは聞こえないし、私はそれを気にしない。
朝露に濡れた緑の草からしずくが垂れ落ちても、その音は聞こえないでしょ?
でも、そのしずくは丸くて、透明で、きらきらして、いい感じでしょう?
私たちの暮らしはそんな風に続いていく。
2019/4/20投稿