草食なけもの
この匂い好きだ。
ベッドで寝返りをうった瞬間、ふわりと香ったそれ。昨日、久保川の家で使ったシャンプーの匂いだと気づいて顔が熱くなる。
久保川のどこが草食系だ。
油断したら噛み付かれた。
何がなんにもしない、だ。
久保川の嘘つき。
おかげで私はこうして一人悶える羽目になっている。
◆
大学が違う久保川とはバイト先で出会った。
入れ替わりが激しいテレアポのバイト。同年代の女性が入るたび、久保川のことを聞かれる。
久保川は色が白く痩せ型で、女性への態度はややそっけないものの、ぎらついた所が一切ない。涼し気な目元と相まって妙にさっぱりした雰囲気がある。誘いをかけられても受け流して相手に興味を持たない。そんな様子から草食系男子だ、むしろ絶食系かもしれないなどと、一部の女性の好みにがっちりとハマっている様子だ。
なにより久保川は単純に顔がいい。背も高い。そして声もいい。
久保川の「申し訳ありません」のエンカウント率はエグい。お客様から頂くありがとう取得率も多い。対女性兵器として有能すぎる。
戦場を共にする仲間として久保川の戦力は大変心強いが、やはりデメリットもある。
久保川くんて彼女いるの? とか、船木さんって久保川さんと付き合ってるんですか? とかステータス異常魅了がキマっている同僚女子たちからのそういうのだ。
前に彼女いないって言ってましたよ最新情報は知らないですけど、私は久保川と付き合っていないですよ、と事実をありのまま伝える。以前そのことで久保川から苦情を受けた。
「彼女がいるっていっといてよ。船木と付き合ってるってことでもいいし。妙に絡まれてダルいの見てて分かるだろ?」
苦情というよりも因縁だな。
寝言は寝ていえ。自分の面倒事を他人に押しつけるんじゃあない。それに頼みごとなら頼み方ってもんがあるだろう。私が低い声でそういうと奴は眉間に皺をよせた。
「俺に彼女がいるのか聞かれたらいると答えてください。船木さんと付き合っているか聞かれたら、そういうことにして頂けましたら幸いです。鬱陶しいのでよろしくお願いいたします」
「嫌です」
「は? 真面目に頼んだだろ?」
「私に嘘をつかせないでください」
「丁寧に頼んで損したんだけど」
「彼女つくれば? そしたらいるよって答えとくよ」
「あーはい、そういう感じか。なるほどね、分かりました」
それからというもの、久保川は嫌がらせのように私に絡んできた。嘘くさい優しげな微笑みを浮かべて親密な空気を勝手に醸し出してくれるものだからたまったもんじゃない。
付き合ってるの隠さなくていいよ、なんて仲のいいバイト仲間にまでいわれる始末。
だから違う。私たちは付き合っていないし、久保川は私を好きじゃない。
いつもくだらないことしか話してないし、大学で受けた授業の話をすることもあるけど、久保川の専門は工学で私が聞いても訳が分からない。訳が分からなさ過ぎて聞いてると笑えてきて実際笑ってしまう。
一緒にいて楽しくないといえば嘘になるけど、どきどきしたり駆け引きしたりそういうのは一切ないし、したくない。
だって久保川だ。私がハンバーガーをわしわし食べているのを見て笑った久保川だ。口がでかいと笑った久保川だ。あいつの前で今さらすまし顔でハンバーガーは食べられない。
異様に蒸し暑い金曜日の午後七時。バイトを終え無機質なビルから出た私は薄暗い空の下で湿気にうんざりしていた。
大きな台風が近づいているのは知っている。灰色の雲に茜色が混じったなんともいえない空の色。今にも魔王が復活しそうだ。
あつい、と思わずつぶやくと、くそあつい、と隣で声がした。
「お、久保川。お疲れー」
「お疲れ。キャベツいる?」
「なんで突然キャベツ?」
「大学ででかいのもらった。優しい陽キャのバーベキューの残り」
「いるいる」
「じゃあ家寄って持って帰って」
「えー、めんどくさい。持ってきてくれたらよかったのにー」
「どうせ通り道だしいいだろ。キャベツを一日持ち歩くとか重いダルい無理」
「根性なしめ」
演技じみた舌打ちをすると、ガラ悪ッと久保川が歯を見せて笑った。
「腹減った。何か食って帰ろうぜ」
「えー、雨降りそうなんだけど。傘持ってないからさっさと帰りたい」
「ならうどんにしよう」
「なんでよ」
「うどんは食うの一瞬だろ」
「気持ちは分からんくないけど一瞬は無理」
そうこういいつつ、うどんの口になってしまったので結局冷やしぶっかけうどんを食べた。冷たくしめられたコシの強いうどんと塩味の効いた出汁のハーモニーがバイト終わりの疲れた五臓六腑に染み渡る。
たっぷりのせた無料トッピングの青ネギと天かすが食感といい風味といい素晴らしい仕事ぶりだ。無料でこんなに働かせちゃってごめんね、でも無料でありがとう! と思う。安くておいしいうどんは大変ありがたい食べ物だ。
「キャベツありがたいけどさ、久保川が食べればいいのに」
私と同じくネギと天かすをのせた冷たいうどんをずるずる啜る久保川を横目で見ていった。
「丸ごと二個もらったから。さすがに一個あれば充分。冷蔵庫に入らないし」
「ならいいけどさー」
私と久保川は時給のよさと引き換えにクレーム対応の多い部署にいる。時給がいいとはいえ毎回こんな風に仕事終わりに外食するわけじゃない。料理が好きなわけじゃないけど基本は自炊だ。
このバイトを初めた頃、同時期に入った女の子たちからよくおしゃれなカフェに誘われた。仕事帰りのお茶に誘ってもらえるのはうれしかったけど、断らざるをえない財布事情は切なかった。下手したら一日分の食費になる値段を甘い飲み物やデザートに費やすなら牛丼をがっつり食べたい。
久保川が誘われた時「金ないから行かない」とすっぱり断ってるのを見た時は衝撃だった。
そうか、別に正直にいえばいいんだ。これから用事があるとか、レポートを徹夜で書くとか、なんやらかんやらで誤魔化さなくていいんだ、と当たり前のことを思った。正直に断ることは恥ずかしいことじゃない。むしろその逆だ。
その時私も誘われて、「牛丼並盛がかろうじて食べられるくらいしか持ち合わせがなくて」とありのままのことをいって断った。小さな嘘をつかなくていい開放感が心地よかった。
その日の帰り道、ひとりで牛丼屋に向かった。無駄遣いという言葉が一瞬浮かんだけど無視した。無駄遣いじゃなくて祝杯だ。そして店先で久保川とばったり出会った。「あんたが牛丼とかいうから」久保川が恨みがましく私にいった。その表情が妙におかしくて思わず笑ってしまった。
二人で並んで牛丼の並盛を食べ、私たちは友達になった。そして想像よりずっと退職者の多い職場だったせいであっという間に同期は久保川だけになった。
人が減っては新しい人が増える。その繰り返し。気の合う人と出会うこともあって友達も増えた。めちゃくちゃ消耗する日も辞めたくなる日もあるけど、時給も上がったし私はこのバイトが嫌いじゃない。
「やっぱり雨降ってきたじゃん!」
うどんを食べて久保川の家へと向かった数分後、暗雲たちこめたと思ったらあっという間に雨が降り始めた。土砂降り。
「傘ないんだけどー!」
「まぁ傘あってもこのレベルだと意味ないだろうな!」
びしょぬれになりながら叫ぶようにしゃべる。ほとんど走るようなスピードで私たちは歩く。
うどんさえ食べなければという思いがよぎるも、あのおいしかったひとときを罪なものにはしたくないという気持ちが勝る。
「久保川のせいだぁああああー!」
全ての罪を隣の男に押し付けて叫ぶ。
「うっせ」
「むかつくー!」
「声でか」
「むっかつくーーー!!」
一通り叫んだ後は黙々と足を動かす。喋る気力を奪うほど雨の勢いが凄まじい。久保川のアパートについた時には二人ともげっそりしていた。
前はよく通るもののアパートの中に入るのは初めてだ。
「散らかってるけど中で休んでけよ」
「うん。そうさせてもらう。助かる」
久保川が玄関から室内へ進むと廊下に小さな水溜まりができた。
身体からダバダバ水が滴るので私はとりあえず玄関に立ったままだ。
「ねぇ久保川、どうして地球はこんなことになっちゃったんだと思う……?」
昨今のゲリラ豪雨はあまりにもゲリラで豪雨すぎる。
「人間がこんな世界にしたんだろうな……」
「人間が憎いね……」
浴室らしき場所からタオルを取ってきた久保川が身体を拭きつつ、私にもタオルを渡してくれた。ありがたく受け取ったタオルがあっという間に濡れていく。
「シャワー浴びたら? 着替えテキトーに貸すけど」
「うーん、さすがにそこまではなぁ」
初めて来た家で、しかも友人とはいえ男の家で、シャワーを浴びるという選択肢は私の中にない。
「まあ、そうだよなぁ」
久保川も私と同じような倫理観らしく、親切心をぐいぐい押し付けてくることもない。
「ちょっと休憩できたし、やっぱりこのまま帰るわ」
そういった途端、地面を割るような雷鳴が轟いた。突然の爆音に思わず肩がすくんで、おわっと間抜けな声がでる。
「船木って雷苦手?」
「いや、いきなりだったから驚いただけ。雷はむしろ結構好き」
ありがとう! とでもいうようにまた落雷。地面が揺れそうなほどどでかいやつ。
「なぁ、もういっそ泊まってけば?」
「はぁ?」
「このまま帰るの危ないだろ。雷鳴ってるし、雨止む気配ないし。非常事態だし避難ってことで。別に後暗いこともないし」
それはそうだけど、さすがになぁと思案しているとゴロゴロと空から不穏な音がする。
「船木が俺の立場でもこのシチュエーションなら泊まればっていわない? 雨止んだら送ってもいいけど、いつになるか分からんし」
たしかに。と思った瞬間、久保川がくしゃみをした。押し問答をしているうちに風邪をひかせてしまいそうだ。
「よし! 覚悟は決まった! 一晩世話になる!」
「覚悟しなくてもなんもしねぇよ」
高らかに私が宣言すると、呆れたように久保川がいった。
「安心して。私もなんっっっにもする気ないから。さっさとシャワー浴びてきな!」
「はいはい。とりあえず中入れよ。シャワーは船木から先入って。中にあるもんはなんでも使って。着替え外に置いとくから。部屋ちょっと片付けたいし」
「じゃあそうさせてもらう。濡れた服入れるビニール袋かなんか貰ってもいい?」
「分かった。着替えと一緒に置いとく」
突然家に人が来たら見られたくないものもあるだろうし、片付けたいものもあるだろう。だからもう遠慮はやめて家主の言う通りシャワーを浴びさせてもらった。さっさと浴びて久保川と交代した方がいい。
うちと似たような三点ユニットバス。シャワーカーテンを引いてさくさくと体を清めていく。当たり前だけどクレンジングはない。とはいえ洗顔で落とせる色付きの日焼け止めしか塗ってないから問題はない。
そもそもちゃんとした化粧をしてる女の子なら、化粧ポーチのなかにクレンジング的なものも入ってるんだろうなぁ。私は化粧ポーチすら持ち歩いていない。
いつもと違う感触の洗顔フォームとか、いつもと違う香りのシャンプーとか、そういうものにいちいち怯みつつも手を止めず作業を進める。
シャワーを終えてドアの隙間から手を出すと着替えが置いてあった。白いTシャツと黒いハーフパンツ。ノーパンノーブラだけど仕方ない。乾いた清潔な服を着られるだけでありがたいというものだ。
洗面所には某印のないメーカーの化粧水と乳液があったのでそれもちゃっかり使わせてもらう。すっきりさっぱりした。
「シャワーありがとう!」
ごく自然にお礼をいおうとしたらやたらと元気よくなってしまった。
台所で洗い物をしている久保川が眉をひそめて私を見る。
「早すぎない? カラス?」
「なんでカラス?」
「カラスの行水」
「おばあちゃんみたいなこというね。さすがに避難先で悠々とバスタイムを楽しむほど面の皮厚くないんで!」
ふぅん、とどうでもよさそうな相槌をうって久保川がグラスに付いた泡を洗い流す。
「麦茶か牛乳しかないけど飲む?」
「麦茶ください!」
久保川が洗いたてのグラスを振って水滴を飛ばす。冷蔵庫から取り出した自家製の麦茶をグラスに注いでくれた。
「俺もシャワー浴びてくる。まぁテキトーにくつろいで」
「はーい。あ、本棚の本読んでいい?」
「どうぞ」
うちと同じような広さの部屋。うちと違うのはベッドがないことと、パソコンデスクがあること。装飾品が何もないので事務室みたいだ。散らかってるっていってたけどどこがだよ。
本棚には教科書の類いと小説と中途半端な巻数の漫画。最近は電書で買うことが多いといってたからだろう。本当は紙で買いたいけど置き場がないという話で前に盛り上がったことがある。
せっかくだし普段読まないものを、と思って教科書の類いを手に取る。履修して買わされたのであろう地層の本。
壁にすがって座り、重たい本を開く。写真も多くて眺めるのによさそうと思ったけれど、酸素、珪素、アルミニウム、鉄、カルシウム、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、チタン、それらが地球の表面である地殻を構成する主要な元素、と眺めているうちに視界がぐらんぐらんし始める。あ、やばねむい。スマホで漫画でも読むか、と思った時にはもう遅かった。
はっと目を開いた時、目の前に壁があってびっくりした。どこだここ、と思って身体を起こすとパソコンデスクに向かう男性の背中が見えてぎょっとした。
驚愕のち把握して脱力。友人とはいえ男の家でどうこう思ってたくせに、面の皮厚くないとかいってたくせに、シャワーでさっぱりして速攻で寝落ちとか我ながらない。ないわー。
「あ、起きた」
デスクチェアをくるりと回して久保川が私を見た。私の動く気配を察したんだろう。
「なんかすいません」
「テキトーにくつろいでとはいったけど、まさか寝てるとはね。まぁいいけど」
「すいません。本の選択を誤りました。っていうか、あれ、私なんで布団で寝てる……?」
無意識に握りしめていたタオルケット。自分が布団の上にいることに気がついた。
「壁にすがって寝てたからそばに布団ひいといたら自分で勝手に転がって寝てたよ」
「お恥ずかしいかぎりです」
バツが悪くて視線をうろうろとさ迷わせる。テーブルに置かれたデジタル時計が午前一時五十分を表示していた。
「私めちゃくちゃ寝てた!」
「めちゃくちゃ寝てたな。レポート書いたし俺ももう寝る。雨止んだけどこのまま寝て朝帰りな」
「えっ、いや、でも歯を磨いてないし」
自分でも今更何言ってるんだこいつ、と思った。眠りこけてたことに動揺して妙なことを口走ってしまった。久保川も今更何言ってるんだこいつ、という目で私を見た。
「歯磨きね、はいはい。使ってないのあるからいくらでも磨きな?」
手招きする久保川によろよろとついて行く。洗面所の戸棚から出てきた新品の歯ブラシ。色は黄色。
鏡に映る見慣れた自分の寝起き顔。いつものように肩先で跳ねた髪を眺めながらシャコシャコと歯を磨く。歯磨き粉がやけに辛い。口をすすいで溜息を吐く。すうすうする。歯を磨いたし、ついでにトイレもすませたし、深夜だし、もう寝る。それしか選択肢はない。
「歯を磨いたので寝ます」
久保川に謎の報告をする。
「どうぞぐっすり寝てください」
久保川がにっこりと笑う。むかつく。嫌味なやつ。
「あ、私このままこの布団で寝ていいの? 布団他にもある?」
「ないけどそのまま寝ていいよ。掛け布団でも敷いてテキトーに寝るし」
やっぱないんだ! と思う。物の少ないこの部屋に客用布団なんてないだろうと思ってはいた。
「私できるだけ端に寄るから久保川もこの布団で寝たら?」
「は?」
「どんな状況だろうが私はぐっすり寝れるし、何もしないし、気にしないから」
「は?」
「おやすみ」
壁に顔を向けて目を瞑る。とりあえず言いたいことはいった。歯を磨いたせいか目が覚めてしまった。寝る準備をしているらしき久保川の気配を感じる。
エアコンの温度がうちよりも低い。ちょっと寒くて肩までタオルケットをかける。眠るため意識してゆっくりと規則正しい呼吸を繰り返す。
足音が近づいて、久保川が布団のそばに立っている気配を感じた。吸って吐いてゆっくりと呼吸。小さな溜息が聞こえた。そしてタオルケットが揺れる。心臓がどくどくする。
久保川の部屋で、久保川と同じ布団で横になっている。どうしてこうなった。でも久保川がそばにいるせいか室温がさっきまでよりもちょうどいい。人がそばにいるとやっぱりあったかいんだなぁ。このままとりあえず寝たふりをして、朝になったらさっさと帰って寝直そう。今日が金曜日でよかった。そんなことを思う。
気づいたら二の腕が寒かった。瞼が重くて目が開かない。布団をかけようと思って腕を動かす。あったかいものがそばにあったのでくっついた。
でっかい電気あんかだ。こんなの買ったっけなぁと思ったらあったかいものに包まれた。電気あんかじゃなくて電気毛布かぁ、と思いながら心地良さに身をゆだねる。
あたたかな風を首元に感じて、今は冬だったっけ? エアコン? と思いながら電気毛布に顔を埋める。この電気毛布はあまり柔らかくない。「覚えとけよ」と耳元で聞こえた。私の電気毛布は柔らかくないうえに優しくない。抗議するようにぎゅっと抱きしめてやると呻き声のようなものが聞こえた気がした。
まぶしさに目を開ける。知らない天井。
ここどこ? 探るように横を見ると人間の背中。うぐっと妙な声が喉の奥から出る。寝ぼけた頭で必死に記憶を探っていると背中が動いた。
「船木さぁ、マジでぐっすり寝るよね。全然いいけど」
久保川の掠れた低い声。なんかちょっと夜っぽいセクシャルな声だ。一気に昨夜の記憶が蘇る。
「ご、ごめん。すごい寝た。もしかして久保川は寝れなかった?」
私はめちゃくちゃ寝たけれど、家に他人がいるだけで寝れない人もいる。ましてや同じ布団だとよけいに寝れないこともあるだろう。私だって寝れないと思っていた。めちゃくちゃ寝たけど。若干いつもより眠りが浅くて妙な夢を見た気はする。覚えてないけど。
「いや、俺も寝たけど」
久保川が勢いよく身体を起こした。嘘だろうなぁ。だってただでさえ色が白いのに顔色がもはや青白いし、寝起きというより夜勤明けのような疲労感が滲み出ている。心苦しいったらない。
「俺は起きるけどまだ六時だしもっと寝れば?」
「いや、私昨日ここ来てからずっと寝てるんで。寝すぎなんで。この服貸して。人が少ないうちにこのまま帰る」
久保川がじとっとした目で私の服を見て、項垂れた。
「久保川こそ寝直しなよ。私もう帰るし」
「コーヒーくらい飲んでけば? あと顔洗って歯も磨けば?」
「じゃあお言葉に甘えて……」
昨夜提供してもらった黄色歯ブラシでシャコシャコと歯を磨く。数時間ぶり二度目。
何だか奇妙な夜だった。久保川にとっては災難だっただろう。泊まっていいとはいっても、ずっと私が寝てるとか。気詰まりで寝れなかったんだろうなぁ。申し訳ない。
顔を洗って歯を磨いて、寝癖を水で湿らせて手ぐしで何となく直す。久保川のTシャツをぶかっと着ている姿はパジャマ感が半端ないけれど、着替えがないから仕方ない。自宅まで歩いて十分だし、ごみ捨てに出てる人だと思えばそこまで変でもないだろう。
「コーヒーに牛乳入れる?」
「たっぷり入れてください」
両手を合わせて久保川を拝んだ。トプトプと音がする。差し出されたマグカップを恭しく受け取った。
私と入れ違いに久保川も浴室で朝の支度を整えている。テーブルの上には久保川のマグカップ。中身は私と同じくカフェオレ。多分砂糖は入っていない。甘い飲み物を久保川は飲まない。
ぼーっとTVの天気予報を眺めながらカフェオレを飲み終える頃、久保川が戻ってきた。
「じゃあ帰るね。お世話になりましたー」
「コンビニ行くから一緒に出る」
そういって久保川がカフェオレを一気に飲んだ。動く喉元をなぜか直視できなくて目線を逸らす。
「別にいいよ。もう明るいし、普通に帰るだけだし」
「コンビニでパン買うだけだし」
多分、いや絶対送ってくれるつもりなんだろうなぁ。正直私のことはほっといて今すぐ寝直して欲しい。でも私が何をいっても久保川は付いてきてくれるのだろう。だったらもう無駄なやり取りはせず一刻でも早く久保川を休ませてあげたい。昨日も似たようなことを思った気がする。
昨夜あんなに雨が降ったというのに、空は明るくジリジリとした日差しですでに晴天の気配がする。
「あつい。焼けそう。日焼止め塗ってないのに」
「日焼け止め家にあったのに」
「いってよー」
「でも、二年くらい前に買って全然使ってないやつ」
「捨てな。新しいの買いな」
私は濡れた服の入ったビニール袋を持って、久保川はキャベツの入ったビニール袋を持っている。二人ともTシャツにハーフパンツで、早朝散歩をしているように見えなくもない。
取り留めもないことをダラダラと話していたらいつの間にか私のアパートに着いた。送ってもらったお礼にお茶でも、と言いたいところだけれど、今まで久保川を部屋にあげたことはないし、久保川もむしろさっさと帰りたいだろう。
じゃあここで、といってしまうのは忍びなく、別れの言葉をいうタイミングを逃してしまった。アパートの前は日差しを避けるものが何もなく、照らされた皮膚がチリチリと熱い。
「ついでだし運ぶ」
そういって久保川がキャベツの入ったビニール袋を持ち上げて見せたので、ありがとうといって階段を昇った。1階、2階、3階。玄関の鍵を開ける。
「ありがとー。服洗って返すね」
「部屋着だし、いつでもいい」
ぶっきらぼうな声で久保川がそういってキャベツの入った袋を差し出す。何かをいいたくて、伝えたい気がして、それが何か分からなくて、居心地が悪くて、でも離れがたくて、うわー! と叫び出したい気持ちでビニール袋を受け取る。思ったよりずしりと重い。
「じゃあ、またバイトで」
そういって扉を閉めようとしたら、グッと途中で動きが止まった。
「船木がどうかは知らないけど俺は何とも思わない奴と同じ布団では寝ないんで」
こじ開けられた扉。思わずビニール袋を二つとも落とした。
首の後ろに回された手、重なる唇。
突然のキスにびっくりして、でも嫌じゃなかった。押し返そうと久保川の胸に手を当てて、だけどその手を包むように握られてしまって、手のひらに込めるはずの力が吸い取られてしまう。
絡まる舌。喉の奥のくぐもった声。鼻にかかった吐息。下唇を食まれてそれは終わった。
「じゃあ、帰る」
ゆっくりと扉が閉まった。
思わず玄関にしゃがみ込む。
何言ってやがる。
私をバカにするにも程がある。私だって何とも思わないやつと同じ布団で寝るわけないだろう。
何かがあってもよかった。そう思ってたことに気付かされた。何にもしなかったくせに、別れ際に攻撃してくるとか、ヤり逃げかよあの野郎。
うわぁああああ! と心の中で絶叫する。実際に叫ぶと近所迷惑になるのでベッドに飛び込んで枕を叩く。
何が草食系男子だ。草食でも獣は獣だ。人が油断した瞬間に仕掛けてきやがって。今日一日私はどんな気持ちで過ごせばいいのか。今日も明日も明後日も、どうしろっていうんだ。
ごろごろとベッドの上で悶えて、枕に顔を押し付けて無言で叫ぶ。何度も何度も繰り返して、さすがに疲れて乱れた呼吸を整える。寝返りをうつとふと石けんの匂いがした。あんまり甘くない柔らかな香り。
好きな匂いだな、と思った。
すぐにこれ久保川と同じ匂いだと気がついた。気づきたくなかった。私が寝てたのは久保川の布団だし、私が着てるのは久保川の服だし、何かもう全部久保川じゃん。詰んだ。
プポン
気の抜けた通知音がスマホから響く。
ベッドの上を這うように動いて、床へ投げ出したカバンへ手を突っ込む。
億劫に持ち上げたスマホ。白く光る画面に久保川の名前が表示されている。
思わず正座した。
メッセージは一行。
《好きだから彼女になれ》
だから頼み方、と思って、だけど違うと気がついた。頼まれてるんじゃなくて請われている。
《承りました》
返信したとたん、着信音が響いた。
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2025/07/21初出




