おやすみ、また森のなかで。
昔の話をしよう。
私が小さな頃の話だ。
その頃はまだ人でも動物でもない存在が当たり前のようにいて、害をなすことも多かった。
村が焼ける炎で煌々とした夜空のもと、母とソレは出会った。
鉄が焦げつくような酷い臭いに母は顔をしかめ、のんびり食事をしようとするソレを見てさらに眉間の皺を深めた。
「その子を離せ」
「どうして?」
「私が嫌だからだよ」
「何が?」
「その子が死ぬのが」
ソレは幼い子どもの首の付け根を持ち上げて、大きく口を開けた。
「腹が減ってるなら私を食べろ」
「どうして?」
「その子が食べられるよりはマシだから」
「うーん。僕、大きな人間は好きじゃないんだ。四本足からやっと二本足になったくらいがやわらかくてもちもちしてて好きなんだ」
「わかった。じゃあ私の産んだ子を食べな」
その頃、母の身体は粘土だった。朝夕時間を問わずいろんな男が代わる代わる家にやってきて、母の身体を身体をべたべたと好き勝手にこねくり回して遊ぶのだ。
母はそんなことを望んではいなかったし、そんな日々が続くことも嫌だったので、村を焼かれ、男たちがたくさん死んでせいせいしたらしい。
だけど、まだ男か女かも分からないその小さな子どもがニヤニヤ笑う化け物に食べられてしまうのは嫌だった。どうしようもなく嫌だった。ただただ嫌だったのだ。
「きみの生んだ子が育つまで待たないといけないの?」
「そうだよ。生まれたらあんたが好きにしたらいい。一番美味しいときに食べなよ。そんなことなかなかできないよ。きっととっても美味しいよ」
そんなことをいった母だけど、その時自分が身ごもっているかどうかなんて分かっていなかった。とはいえ、たとえ身ごもっていても自分の腹の中身になんて興味はなかっただろう。
粘土遊びでできたへしゃげた生き物なんて、ただのねちゃねちゃした固まりだから。そんなものより目の前の顔を真っ赤にして泣いている子どもの方が大事だった。
「そうかぁ。じゃあそうしようかなぁ」
ソレは笑った。ぽぉんとその子を夜空へ放り投げた。母は必死に腕を伸ばしその子をしっかりと抱きしめた。
それがはじまり。
村を焼く炎は三日三晩消えなくて、母はソレと一緒に村を出た。
「ねぇ、お腹を見せて」
ソレが無邪気にねだる。母は服の裾を捲ってソレに自分の腹を見せた。
「わー膨らんできたねぇ」
母は孕んでいた。たくさんの男のうちのどれかの粘土の種だ。
ソレは甲斐甲斐しく母の世話をした。そしてあの夜放り投げた子どものことも。
母はひとりで、食べられかけた子もひとりだった。母は当然のように二人になることを選んだ。
ソレは森の奥に小さな家を用意して、おいしい食べ物と清潔な布をたくさん用意した。毎日毎日用意した。
「そんなにたくさんいらないよ」
困った母が伝えても毎日両手に抱えきれないくらい用意した。あまったものは森の近くにある村の、貧しい家の裏口に置いた。それを母が望んだからだ。
母の白い腹は日に日に膨らんでいく。ソレは母の腹を眺めるのが好きだった。時には撫でることもあったし、母はそれを許した。
「すごいすごい! ねぇ、これ動いたよ」
「あんたが食べものをくれるからね。元気で大きな子がでてくるよ」
「楽しみだなぁ。おいしそうだなぁ。生まれたてはやわらかすぎるからがんばって我慢しよう」
「そうか。まぁ、がんばれよ」
「うん」
満月の夜、母は子どもを生んだ。
母はその子にネルという名前をつけた。
そしてそれを羨んだソレにもティカという名前をつけた。
ソレはソレからティカになった。
ネルはすくすく育った。四本足から二本足になり、ころころ転びながら歩くようになってもティカはネルを食べなかった。
ティカは眠らないので、くたびれた母の代わりに泣くネルを背負い、夜の森を踊るように歩いたりもした。
私はあの空が赤い夜のことを覚えていた。私はそのことを母にもティカにも話さなかった。
私は覚えていたし、聞いていた。
だからずっと、できるだけずっとネルのそばにいた。私は母のこともネルのこともティカのことも好きだった。
母とネルとティカが笑っているのを見るのが好きで、ずっとそうしていて欲しかった。だけどあの夜がときどき私の夢にやってきて、私に語りかけるのだ。
──僕、大きな人間は好きじゃないんだ。四本足からやっと二本足になったくらいがやわらかくてもちもちしてて好きなんだ。
夢を見て飛び起きた夜、ティカが私と一緒に月を見てくれた。きれいな月だった。
「ティカ、お腹が減ったら私を食べてね。ネルよりは硬いけど、母さんよりやわらかいよ」
心臓がどくどくした。母さんはとてもきれいだから。私より母さんのほうが甘くてやわらかい、そう思った。でもそれを知られてはいけない。思わせてもいけない。絶対に。
「食べないよぉ。僕はもう食べない」
翌日、みんなでいつものように朝ごはんを食べた。パンとスープとティカがもいできた甘酸っぱい赤い果物。
ティカが母と私とネルの頬をぺろりと舐めた。
「どれもこれも不味いや。食べられないよ」
母の目からぽろりと涙が落ちた。
不味い不味いといいながら、ティカはそれを全部舐めた。ティカは笑っていた。
ある日ネルが岩場で足を切った。
そしてネルは死んだ。
足の傷がなかなか治らず、膿んで、熱が出た。苦しそうな呼吸は日に日に弱まり、ある明け方止まってしまった。
ティカは最後までネルを食べなかった。土に埋め、ネルが好きだった白い花を置いた。
それからも三人での暮らしは続いた。そう、三人だ。ティカはいつの間にか人のようになっていた。
ティカは少しづつ弱くなっていて、昔ほどの力はなかった。道具がなければ木を倒すこともできず、空だってもう飛べない。
ネルのいない三度目の冬がきて、母は寝込むことが多くなった。
母の代わりにティカは私の世話をした。私だってティカに負けないよう働いた。
ティカと私は同志だった。戦友といえるかもしれない。
私たちは戦った。母を連れて行こうとするものから母を守りたかった。
焚火の前で手を繋ぎ道化のように踊ることもあった。母が笑ってくれるのがうれしかった。
母は少しづつ痩せていき、眠っている時間が増え、ある春の夜おやすみといって眠ったあと二度と瞼を開けることはなかった。
眠っている、という言葉がぴったりの安らかな顔だった。
ネルも母もティカももういない。
ティカは母が死んだあとゆっくりとゆっくりと少しづつ透明になって、ある日消えた。
私は私たちの暮らした小屋を燃やした。
あの夜のように炎は空を明るくし、舞う火花は星のようにまたたいた。私は放り投げられた子どもを抱きとめたような気持ちで炎を背にし、森を出た。
私は守らなくてはいけない。
母が守ったものを。ティカが育てたものを。ネルが慕ったものを。
彼らが、彼女らが愛してくれたものを。
私は子どもだったので当時は気がつかなかった。けれど大人になって気づいたこともある。
ティカが母に夜な夜な注いでいた種は芽吹くことはなかった。会えたらよかったのにな、そんなことを思う。
森の外で生きる私は、家族のことを子どもたちに話す。母の歌があまり上手ではなかったこと、ティカが魚を取るのが上手だったこと、ネルの寝癖が毎朝素晴らしくへんてこだったこと、四人で川遊びをしたこと。いろんなことを。
子どもたちは冒険の話が特に好きだ。洞窟で黒い霧のようなものに足を掴まれ動けなくなった時、ティカが突然現れ助けてくれたことはせがまれて何度も話した。
思い出はたくさんある。
だから私は毎晩いうのだ。
「おやすみ。続きはまた明日」
瞼を閉じれば湿った土の匂いと風にそよぐ木々の葉音がする。四人で過ごしたあの森には、きっと今も甘酸っぱい赤い実がたくさん生っているのだろう。
2021/08/09
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