女神と従者、時々○○○
涙で滲む視界には、ハンカチを差し出すわたしの従者。
普段なら受け取って流れる涙を拭くのに。
その差し出した水色のハンカチは『あの子』からの贈り物でしょう?
「……いらないわ。放っておいて」
嗚咽が漏れそうになるのを堪え、わたしは彼を置いてその場を去った。
彼の顔は一度も見れなかった。
ナイルス侯爵家の一人娘、ルーティシア。金髪碧眼、長くうねる髪、垂れた目尻の覇気の無い顔立ち。それがわたし。
メリダ男爵家の長女、キャスリィ様。肩でさらりと揺れる桃色の髪、溌剌として明るい、ぱっちりとした琥珀色の瞳。それが『あの子』。
学園の中庭でわたしの従者に、包装紙に包まれた掌に収まる大きさの贈り物を渡している。
こっそりと話を聞いていると、どうやら転んでしまった彼女に、通りかかったわたしの従者がハンカチを貸した。という事らしい。
それはいい。
彼は紳士だから。むしろそこで無視するようならわたしは、何をやっているの! と叱咤している事だろう。
汚してしまったハンカチの代わりの物を。と、贈り物をするのも別にいい。律儀なご令嬢なんだと思うだけ。
問題は、彼が仄かに笑っている事。
わたしの前では笑わないくせに。
わたしが彼に不相応な想いを抱いているのに気付いて、だからわたしの前では笑わないのかもしれない。わたしの側仕えは本当は嫌で、仕事だと割り切っているから、だから――。
わたしは目の奥が沁みて涙を流す。
彼らに見られるわけにはいかないと慌ててそこから逃げ出した。
* * *
『女神』が泣いた。
そんな騒ぎが学園内で起こった。
俺は血の気が引いていく音と胃が収縮する音を聞いた気がする。
女神。ナイルス侯爵家の一粒種の通称だ。
艶めく金の髪は緩やかに波を描き、大きな、しかしとろりと垂れた目尻は庇護欲をそそり、淑やかで穏やかな性格。女性らしい体型。
俺の主であり、思い人。
俺は彼女の従者だが、学園ではお互い生徒という事もあって登下校くらいしか一緒にいない。いさせてくれない。
それが仇となったのだ。
俺のお嬢様が泣いた……? 何故だ。
おっとりとしているが芯の強い彼女が泣くほどの事が、俺の与り知らぬところであったというのか。
彼女を泣かせた相手に、そして傍にいなかった俺自身に、沸々と怒りを覚える。
学園内で騒ぎになっているが実際彼女が泣いていたところを見た人間はいないようだ。だがこの騒ぎだ。間違いなく誰かが彼女を見たのだろう。
しかしその人物を探す余裕はない。
俺は学園内で彼女の行きそうなところを徹底的に探し回った。本当に泣いているのなら、慰め、そして渡したい物がある。
そして、屋上のベンチに座りはらはらと涙を流していたお嬢様を見つけた俺は、頭を殴られたような衝撃を感じた。
本当に泣いている。
小さい頃ですら常に微笑んで、俺ですら泣いたところなんて見たことがなかったのに。
俺は小走りに彼女に近づいてハンカチを差し出した。買ったばかりの新しい物だから清潔です。そんな思いで差し出したそれを彼女は一瞥して。
「……いらないわ。放っておいて」
何かを堪え押し殺すような声で呟き、俺の脇を素通りしその場を去っていった。
俺は茫然と、しかし腹に湧き上がる嫉妬に支配された。
* * *
あたしは一部始終を見て青ざめ、震えた。
とある男爵令嬢が転び、膝を擦りむき、それを見かねた『女神』の従者がハンカチを貸した。「返さなくてもいいです」と言った従者に頷く令嬢。
後日、男爵令嬢は従者に礼と共に演劇のチケットを二枚用意した。彼が、主である『女神』・ルーティシア様を好きだと知っていたから、応援するつもりで彼女と行ってきてはどうかとそれを渡した。
彼女の好きだという劇団の物であったらしいそれに、従者は嬉しそうに笑い、受け取る。
偶々、そこに居合わせたルーティシア様がその場を見て泣いて走り去る。従者に伝えようにも、彼は足早にこの場を去ってしまった後だった。
あたしは慌てて友達にルーティシア様を見かけなかったかと問う。彼女が泣いていた事をつい零してしまったため、あの『女神』が。と騒ぎになる。
それを聞きつけた従者が彼女を探し回り、ようやく見つけたのも束の間彼女は従者を振り切り逃げる。
恐らく差し出されたハンカチを男爵令嬢からの贈り物だと誤解して――。
あたしは誤解を解こうとルーティシア様を追う。
まだ治っていない擦りむいた膝が痛んだけど、無視してひたすら走った。
* * *
恥ずかしい! 恥ずかしい!
全部わたしの早とちりの勘違いだったなんて――!
勝手に恋敵だと思い込んだキャスリィ・メリダ様に全て経緯を聞いて、わたしは彼女と同じくらいに青ざめた事だろう。心配してくれた彼を突き放すような事をしてしまったのだから。
そしてキャスリィ様の仰った通り、彼がわたしに演劇のチケットを差し出して。
「共に出掛けてはくれませんか。そして、元気を出して下さい……」
切なく目を細め、そうわたしに言い募る彼に頷くしかない。
言えるわけない……!
勘違いして勝手に傷付いて泣いていたなんて……。
わたしは出来る限り笑ってそれを受け取った。
「あのね、あれは……間違いなの! わたしの勘違い。だから、わたしはもう元気よ?」
彼は眉をひそめたと思ったら、差し出したチケットをわたしが触れる直前に、持ち上げた。
「……勘違いだろうが何だろうが、貴女が泣いていたのは事実です。俺には言えない事ですか? 一体誰が原因で泣いていたのですか?」
本気で心配してくれている彼に嬉しくなる気持ちと、やっぱり恥ずかしいと思う気持ちでぐちゃぐちゃになり、赤くなった顔を両手で隠した。
彼はわたしの両手を無理矢理はがし、見られたくない情けない顔を覗き込んできた。
「お嬢様……お嬢様。俺は貴女が好きだ。愛している。貴女を泣かせた相手に嫉妬して、殺意すら沸くほどに」
衝撃の事実にわたしは浸る暇もなく取り乱し。
「あなたとキャスリィ様を誤解して嫉妬したのよ!」
思いっきりの叫びをぶつけ、わたしはまた彼から逃げた。
すぐに我に返った彼に捕まる事になるのだけど。