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きっちりと正装に身を包んだ男が一人、立っていた。
こちらを向いているはずなのに、その目の中に私は映っていないようにも思う。
表情がぼんやりと霧がかっていてよくわからない。
音のない世界の中で、男は何かを話しているようだった。
その背後、夕暮れの窓の外で、地上のことなどどこ吹く風と一羽の鳥が大きな弧を描く。
──憎たらしい。
やけにはっきりとした姿だった。
聞こえないはずの甲高い鳥の鳴き声が、長く尾を引いて聞こえた気がした。
目を覚ますと、もう日はずいぶんと傾いて空を橙に染めていた。
少しだけ仮眠を取るつもりが、どうやらかなり眠ってしまっていたらしい。
何か夢を見ていたような気もするけれど、内容もよく覚えていなかったので、私はすぐに興味を失ってまた街へと足を運んでいた。
酒場の明かりがぽつぽつと灯り始める。
昼より人通りはいくらか落ち着いていたけれど、その分あちこちの建物から活動する人の気配は漂っていた。
かなり大胆に財布を盗ってから半日も経たない、念のため昼間の通りとは場所を変えてある。
今のところ特に騒ぎになっている様子も、見回りの兵士も見当たらない。
せっかくだし何か美味しいものでも食べようかと思ったけれど、この感じだともうひと稼ぎできるかもしれないな。
どうしようか、と悩んでいた矢先、視界に一人の男が映った。
古びたローブを羽織り、なにやら重そうな荷物を背負っている。
フードのせいで表情はよく見えないが、物珍しそうにきょろきょろと辺りを見つめる様子から察するに、冒険者か旅商人か──まず間違いなくこの街の者ではなさそうだ。
しかも不用心なことに、硬貨の入っていそうな小袋は腰に括りつけられている。
地の利も警戒心もない、絶好のカモ。
迷う余地はなかった。
私は帰り路を急ぐ子供を装い、すれ違いざま店先の商品に気を取られたふりをした。
「っと、わるい兄ちゃ──」
ぶつかった弾みに男のフードが脱げる。
その下から現れた顔に、ふと目を奪われた。
日に焼けた褐色の肌、長めの襟足を一つにまとめた癖のある黒髪、宝石のようなエメラルドグリーンの瞳。
異国の者だろうか、ぱっと華やぐ印象ではないけれど、整った顔立ちをしている。
どこかで見覚えのあるような気がした。
知り合いではない。でも、何か引っかかるような。
どこで見た?
「大丈夫か?」
声をかけられてはっと意識を戻す。
まずい、今は感づかれる前に立ち去らないと。
「あ、あぁ……わりぃな、兄ちゃん」
私は足早にその場を立ち去ろうとして、
「ちょっと待ちぃ」
独特なイントネーションを持った男の声に、どくりと心臓が高鳴る。
ひどく嫌な予感がした。
すぐにでも走り出そうとする私の気配を察知したのか、男が続けざまに言う。
「まぁ待ちって、これ──」
差し出された男の手にあるものを見て、私は目を見開く。
「忘れ物とちゃう?」
おかしげに笑う男の手には、懐にしまっていたはずの、私の財布が握られていた。
「放せ! はな、せっ──てば!」
「そない暴れたら怪我すんで、子猫ちゃん」
「誰が子猫だ!」
油断した!
足なんか止めずにさっさと逃げれば、もっと言えば欲をかいて手を出さなければよかった。
後悔しても遅い。
私は財布に目を奪われたその一瞬で、男に捕まった。
軽々と首襟を持ち上げられて、男の言う通り、まるで親猫に首を咥えられた子猫のように運ばれている。
私の必死の抵抗も男は全く意に介さない。
「どこ連れてく気だよ! てかオレの財布返しやがれっ!」
「気性の荒い猫やなぁ、最初に盗もうとしたんはそっちやろ?」
言われてうっ、と言葉に詰まる。
その間も、男は私を連れて人気の少ない路地の奥へと来ていた。
「……ほんとに、どこ連れてく気なんだよ」
まさか地獄だなんて言わないよな?
いささか不安になってきた。
大の男相手に私が力で勝てるはずもない。
最悪、この男は私を殺すことだって今この瞬間にでもできてしまう。
「……さぁ、どこやろうね?」
そんな私の内心の不安を知ってか知らずか──おそらく全てわかってのことだと思うが──男は意地の悪い笑みを浮かべて横目で私を見た。
男の目に妖しげな光が灯る。
「っ、わかった、盗った財布は返す。オレの金も欲しけりゃくれてやる。だからもういいだろ」
「ん……まぁこの辺でええか」
すると男はあっさりと私を降ろし、解放──
「え、ちょ、」
してくれなかった。
どこから取り出したのやらロープで私を後ろ手に縛り、手近にあった木箱の上に座らせる。
「何で縛るんだよ!」
「だってあんた絶対暴れて逃げ出そうとするやろ。それにお兄さんそろそろ手疲れてきたわ」
ふざけてるのかこの男は。
ぶらぶらと私を持ち上げていた右手を揺らしながら、男は本当かウソかわからないようなことを言う。
「さて」と男は呟いて、私の正面に立ち、逃げ道を塞いだ。
「じゃあちょっと仲直りのおしゃべりでもしよか、子猫ちゃん?」
私は余裕たっぷりに笑って見せるいけ好かない男を睨みつけた。
「その子猫ちゃんって呼び方やめろ!」
「だって俺あんたの名前知らんし。あんた、名前は?」
子猫呼びをやめてほしけりゃ教えろ、と。
「……ノア」
しぶしぶ、口を開く。
「歳は? 10か?」
「12だ! 馬鹿にしてんのか!?」
「わるいわるい、軽いしもっとちっこいかと思ったわ」
見え透いた挑発だとわかってはいるが、本当の歳が15だと突っ込まざるを得ない。
……本当に10に見えるとか、ないよな。
背丈の小さい自覚はあるし利用もしてるけど、さすがにそれはかなりショックだ。
「じゃあノア、この辺で隠れた遺跡とか知らへん?」
「は? 遺跡?」
唐突に投げ渡された質問に、私は目を瞬かせた。
むかしむかし、この世界には今よりもっと文明の進んだ国々があったらしい。
人々はあらゆる魔法と道具を使い、豊かな世界があった。
それがどういうわけか一度滅び、新たに発展したのが今の世界だ。
今もなお、魔法を扱える者は王族や貴族を中心としたごく一部の中には存在する。
しかし火や風を起こすといった今の単調な魔法に比べると、昔はもっと複雑で多岐にわたる無限の可能性を秘めた力が魔法というものだった。
その魔法の名残として、古代の建築物や都市に眠る魔道具は今の人々の暮らしの中で重大な役割を担う。
だから大抵発見された遺跡は国が調査、管理を行うことが多い。
「せや、でも俺が探してんのは国の所有する遺跡やなくて、まだ誰も立ち入ったことのない遺跡や」
「いくら今より発達してた文明って言っても、ここは王都だぜ? そりゃ世界にはまだ隠された遺跡はごろごろ残ってんだろうけど、周辺の遺跡はあらかた見つかってるだろ」
「やんなぁ……」
それに、例え新たな遺跡を発見したとして、勝手に立ち入ることは禁じられている。
魔道具の重要性という理由もあるが、一番の理由は危険だからだ。
高度な文明による罠や仕掛け。
そんなものが溢れた場所に一体何の用があるのだろう。
「ちょっと仕事でな」
訝しむ私に男は片眼を瞑る。
国の調査官とかか? とてもそうは見えないけれど。
「あ、そういえば……」
「なんや?」
「むかし、一度街の外で仲間と遊んでいたときに、地下遺跡の入り口みたいなのを見つけたことがあったな。その時はたいして気にも留めないまま今まで忘れてたけど、もしそれが本当に遺跡で、まだ誰にも見つかっていないとしたら──」
「それほんまか!」
どこにあるんや、と詰め寄る男の背後に向かって、私は顎をしゃくって見せる。
「確か、あの時もちょうど太陽の沈む方角に歩いてったはずだから……」
「街を出て向こう側か」
男は私の指した方角に体を向けて、その向こうを見つめた。
「よし、ノア。解放したるかわりにそこまで案内──って、」
男が振り向いたその先に、私は既にいない。
縄抜けした後のロープだけを木箱の上に残し、私は適当な路地裏へ駆け込んでいた。
この街の路地裏は私の勝手知ったる縄張りだ。
複雑に入り組んだ道を利用すれば、地の利のない男に追いつかれることはまずない。
あんのクソガキ──
背後から微かに聞こえた声に、私はべ、と舌を突き出して逃げ去った。