倫敦
物憂げな印象を与える「霧のロンドン」は、予想に反し、清潔で健康的な街であった。
街中に当然のように並ぶゴシック建築群は、重厚な歴史を感じさせ、それ自体が芸術作品のように美しい。その街並みと同じくらい存在感のある数々の自然豊かな公園には、アヒルやリスなどの小動物が溢れ、人々の生活に癒しを与えていた。
正直、期待を裏切られた、と思った。
ロンドンに来る前、俺は大学生活の意義と将来の自分の在り方を見失い、漱石さながら神経症気味になっていた。渡英前から神経症では世話ないが。
高校時代に課された全てが嫌だった。
親との同居、運動部のシゴキ、意味のない校則、何故か偉そうな教師、受験勉強、偏差値至上主義、教室空間の浅薄な友情、「仲良し」を強要する学校全体の同調圧力。
全てがくだらなく、そこから降りる事のできない自分をもっと情けなく感じた。
だから、大学に入ったら全て捨ててやろうと思った。
そして、入学を機に東京で一人暮らしを始め、予定通り部活・サークルなどとは一切関わらず、本ばかり読み耽った。
そこから、神経症に至るのはいとも簡単だった事は言うまでもない。
ある朝、突如として、「人生の方向感覚を完全に失った」という確信に似た感覚に襲われて、その日の夜にはロンドン行きを決めていた。
「ハ、ハロー。アイ、ウォン、トゥ、イクスチェンジ、マニー。」
予想と現実のズレはどこにだってある。しかし、その懸隔が広過ぎれば、私たちは理想と現実の狭間で身動きが取れなくなる。実存的な懊悩にどっぷりと浸るはずのロンドン旅行は、そのような目論見とは裏腹に、実際的な問題ばかりが生じていた。
成田で換金するのを忘れていたのである。手元に使える現金がなかった。
「メイ、アイ、イクスチェンジ、マニー?」
さっきから何度も話しかけているのに、金髪を後ろで一括りにした受付の白人女性は、顰めっ面のままひと言も発しない。
確かに俺の英語は下手だけど、無視することはないだろう……。
ロンドンにおいて自分は異邦人なのだという事を、この時強く意識させられた。
もう一度声を掛けても、ガラス越しの仏頂面は一向に変わらない。むしろ怒っているようにしか見えない。
せっかくロンドンまで来たのに、なんでこんな、みじめな思いをしなくちゃならないのか。
たどたどしい俺の英語に、相変わらず受付の女性は応えてくれない。通行人の視線が痛い。……もう帰りたい。
「ソーリー。アイム、ソーリー……」
最後はほとんど涙声だった。
もう諦めてその場を去ろうとした時、中東風の顔立ちをした褐色の中年男性が声を掛けてきた。
俺は思わず身構えたが、男は気さくに「何かあったか?」と尋ねてくるので、心が折れかけていた俺は渡りに船とばかりに事情を身振り手振りで説明した。
事態を把握した男は、俺を連れてもう一度同じ換金所に行った。
男が受付の女性に何かを話しかける。そして、振り返って俺のことを手招きした。
驚くほどあっさりと換金が済んでしまった。俺の掌中にはカラフルなポンド紙幣が揃っている。
通常こういう時は、チップのように、お礼に幾らかお金を渡さなければならないものなのだろうか。
俺がまごついていると、やはり男はズボンのポケットから財布を取り出した。
しかし、ちがった。彼は自分の財布から地下鉄専用のマネーカード「Oyster Card」(なぜオイスターなのか。スイカも大概だが…)を抜き取ると、それを俺に渡してくれたのだ。
「ぜひ使ってくれ。金も、少しだが入っている」
カードを受け取りながら、俺は震える声で、初めて心のこもった「Thank you」を発音した。日本語でも、久しく言ってない言葉だった。
そんな俺の様子に、慈愛に満ちた目を向け、男は何も言わず笑った。
もう一度礼を言い、手を振って男と別れた。
地下鉄に揺られながら群青色のオイスターカードを眺める。
何とかロンドンに受け入れられた、と思った。
物憂げな印象の「霧のロンドン」は、予想に反し、神経過敏なものへの愛が転がっていた。