己の使命
数馬は中原が主と懇意にしているという料亭に、連れていかれた。田舎育ちの数馬にも、そこそこの格式があると知れる店構えだ。中原とともにその一室に通された数馬は、どうも落ち着かない。
居心地の悪さを感じつつ、天井板の木目や畳の目などを数えながら待っていると、亭主の留次郎が現れた。歳は四十手前か。背は数馬よりも三、四寸低いだろう。名の知れたであろう料亭の主にふさわしく、どことなく品がある。
「これはこれは、中原様、急なお越しで。お連れの方は、私どもの店に来られるのは初めてでおられますね」
やわらかな物腰で数馬に挨拶を述べた留次郎を押しとどめるように、中原は言葉を挟む。
「おい、留さん、堅苦しい話は抜きだ。実はな、この乾数馬殿を我らの仲間にできないか、と思うておる」
数馬からすると、寝耳に水だ。
「な……」
問いただそうとする数馬を気にする風でもなく、中原は話を続ける。
「この乾殿はな、見てのとおり歳は若いが、あの塚田千之助殿の弟子だそうだ。腕は俺の折り紙付きだ」
留次郎の顔から、客商売らしい穏やかな笑みが消えた。じろりと数馬を見つめる留次郎の目つきは、いかにも疑わしげだ。
「なに、塚田殿に弟子がいるなんてぇ話は、俺は金輪際きいたことがねぇぜ。旦那、それは確かかい」
先ほどまでとうってかわっての、留次郎の伝法な口調に、数馬は面食らう。
(この留次郎という男、ただの料亭の主かと思っていたが……何者だ)
状況が呑み込めず唖然とする数馬を後目に、中原は愉快そうに笑う。
「まあ、俺も初耳だがな。留さん、この乾殿の太刀筋は、塚田殿に生き写しだぞ。さきほど、ちょっとした勘違いで乾殿と仕合いかけたが、いやはや生きた心地がしなかったわ」
「ふうん、この若ぇお人がねえ。旦那がそこまで言うんだ、腕っぷしは強えに違ぇねえが」
じろじろと眺めまわす留次郎の視線にたまりかねて、数馬は中原に訊ねた。
「中原さん、俺は塚田先生の行方を捜しているのです。訳もわからず、ここに連れてこられたうえに、仲間にするとか、しないとか。いったい何のことですか」
「ん? ああ、塚田殿は神出鬼没な御仁でな。おぬし、塚田殿の素性を知っているか」
その問いに、数馬は一瞬躊躇した。塚田が老中に仕える隠密だということは、塚田自身の口から聞いている。そして、そのことを誰にも伝えてはならない、とも。
(だが、中原殿も留次郎殿も、塚田先生のことを知っている。きっと塚田先生と同じく、御老中様に仕える者だろう)
そう考えた数馬は、
「塚田先生は、御公儀に仕える身、と聞き及んでおります」
と答えた。隠密や老中、という言葉を出さなかったのは、数馬なりの配慮だ。
数馬の返答をきいた中原は、満足げに頷いた。
「そこまで知っているなら、話は早い。塚田殿も我らも、御老中の上柴様に仕える身よ。もっとも、我らはこの江戸で暮らしながら、御老中の目となり耳となるのが役目。かたや塚田殿は、諸国を巡りあるいて役目を果たしておられる。普段は顔をあわせることもないが、塚田殿は御老中の信篤き御仁ゆえ、その身に何かあれば、我らの耳にも届くはず。きっと息災であろう」
師が無事であろうことを知り、ふう、と安堵の息を漏らす数馬に、中原は畳みかける。
「どうだ、乾殿。塚田殿のように、上柴様のもとで、その剣を存分に振るてはみぬか。おぬしほどの腕前の者が仲間になれば、俺たちも心強い。それに、塚田殿が江戸に戻ってきた折にも、おぬしに知らせることができるぞ」
思いもよらぬ誘いに、数馬は戸惑う。その様子を見ながら、留次郎はあきれた様子だ。
「なあ、中原の旦那。乾さんは、狐につままれたみてえな顔をしてるじゃねえか。どうせ思いつきで連れてきて、まともに事情も話しちゃいめえ」
「む。ま、まあ、そうだな」
咳払いをしながら、もじもじと体を揺する中原を見て、数馬の胸のうちにおかしさがこみあけてくる。中原が勢いで数馬を連れてきたのは、間違いない。
(まあ、悪い連中ではなさそうだ。話を聞くだけ聞いても、よかろう)
「留次郎さん、中原さん、話をうかがいましょう」
居住まいをただして告げる数馬の顔をじっと見つめ、留次郎は頷いた。
「ようござんす。中原の旦那は、どうも後先があべこべでいけねえ。俺から改めて説明いたしやしょう」
留次郎は、主君である老中上柴忠隆の人となりを――そして、上に立つ者の不正を暴き、それを正すことで民草が安心して暮らせる安寧な世を作ろうと主君が尽力していることを語った。
「俺たちは、なにも御老中様に金で雇われているだけじゃねえ。まっとうに働いている連中が、安心して暮らせる世を作ろうっていう、上柴様の心意気に惚れたのさ」
少し照れ臭げな表情を浮かべる留次郎の言葉が、数馬の幼き日の記憶をよびさます。
――坊が守りたい相手を守るにも、坊は強くならないとな
塚田に命を助けられたあとの逃避行で、天狗のように身の軽い男が、数馬に告げた言葉だ。
(俺は、守るべき相手を持たぬ。塚田先生のように、この剣を、助けを求める者たちのために振るうことこそが、俺の使命なのではないか)
それから、五日が過ぎた。
赤い三日月がぼんやりと輝く淡い闇のなか、数馬は、留次郎と中原ら四人の仲間とともに、勝田藩の江戸屋敷に忍び込んでいる。
「勝田藩は知ってのとおり、米どころよ。江戸家老である榊原陣内が米問屋と結託し、米の値を吊り上げて莫大な利益をあげているのさ。これは藩主の赤木頼重殿も知らねえことだ」
と、留次郎からあらましを聞いた。留次郎たちの此度の役目は、この一件の黒幕を洗い、その者を始末することだ。黒幕である榊原陣内を、表向きは病死として届け出ることで、藩の取りつぶしは免れる。それに、大名や旗本が悪事に手を染めたと大っぴらに知られると、民草の御政道への信が揺らぐ。
「まあ、俺たちのやっていることは、正真正銘の汚れ仕事さ。だが、誰かがやらねえといけねぇ役目だ」
きっぱりと言い切った留次郎の言葉に、数馬は賛同した。だからこそ、数馬は留次郎たちと行動を共にしているのだ。
江戸家老の榊原陣内の身辺は、藩の武芸指南役である橘誠吾とその門弟たちが厳重に守っている。留次郎によれば、この橘誠吾もぐるらしい。そのほかに警護にあたる家臣がおおむね四十人ほどいるという話だ。
煮売り屋の男――辰三の先導で、闇に身を潜めながら、じりじりと榊原陣内がいる奥座敷へと近づく。奥座敷には灯かりが煌々とつき、中から何人かの笑い声が聞こえる。
着慣れぬ忍び装束に身を包んだ数馬は、手足の先が緊張で冷たくなるのを感じる。
己の息遣いが、やけに大きく聞こえる。まるで、わが身がすべて心の臓になったかのように、肩が大きく上下する。少しでも気を抜けば、歯の根が合わずガタガタと闇夜に音が鳴り響きそうだ。
数馬は必死に歯を食いしばりながら、恥じる。
(斬り合いを前に、この様か)
数馬は人を斬ったことがない。真剣での立ち合いすら、五日前の中原との一件が初めてだ。胸いっぱいに大きく息を吸い込み、口をすぼめて細く吐く。目を閉じて何度か息を調えるうちに、身体の震えは止まった。
「その様子なら大丈夫そうだな」
そう数馬に囁いたのは、留次郎だ。引き締まった身体に藍色の忍び装束を纏った留次郎は、数馬の顔を覗き込み、にっと笑った。
「いいかい、俺が先に斬りこむ。斬り合いが始まったら、存分にやってくれ。あと、逃げる相手は追うんじゃねぇ。向かってくるやつだけ、斬れ。乾さん、頼むぜ」
そう言い残し、奥座敷へ近寄っていく留次郎の背を見送りながら、数馬の胸のうちに新たな迷いが生まれる。
(言われるがままに、ここまでやってきたが……俺がこれから斬る相手は、本当に悪党なのか。米の値を吊り上げたのが榊原陣内だということも、俺自身が調べた話ではない。もしかすると、俺は罪もない相手を斬ろうとしているのではないか)
じっとりと、気持ちの悪い汗が数馬の脇を濡らす。
そのとき――
奥座敷の戸が勢いよく開く音に、数馬は我に返る。
「勝田藩江戸家老、榊原陣内。米問屋と結託し、米の値を吊りあげ私腹を肥やせし一件、こっちはとうにお見通しよ」
奥座敷の前で仁王立ちになった留次郎の声が、闇夜に浪々と響き渡る。
数馬は唖然とする。
(なにも、このような騒ぎを起こさずとも、榊原の首を取れるのではないか。留次郎さんはなぜ、このようなことを)
奥座敷の中で、驚愕のあまり目を見開き、腰が抜けたように後ずさりしているのが、榊原陣内か。その傍らで刀を抜きはらい、落ち着いた様子で留次郎を睨みつけているのが、指南役の橘誠吾だろう。
「おのれ、何者だ」
誰何する橘を気にもかけず、留次郎は口上を続ける。
「そればかりか、米を正当な値で売らんとした浜口屋、いさみ屋といったまっとうな米問屋を、これなる橘誠吾に命じて殺害せしこと、見逃すわけにはいかん。榊原陣内、いさぎよく腹を切れ」
榊原は侵入者がひとりだけと見て、落ち着きを取り戻したらしい。
「ふん、米問屋の一人やふたり死んだからといって、なんだというのだ。さては、公儀の犬か」
憎々しげに言い捨てた榊原は、大声で呼ばう。
「曲者じゃ。出会え、出会え!」
騒ぎを聞きつけ、家臣が続々と集まり始める。その家臣たちに向けて、またもや留次郎は大音声で告げる。
「この榊原陣内は、藩主赤木頼重殿に隠れ、米の値を不当に吊り上げて私腹を肥やす極悪人よ。それを知りながら榊原に与するものは、かまわず斬る」
集まった家臣の一部は、困惑した様子で互いに顔を見合わせ、言葉を交わしている。この者たちは、江戸家老の悪事を知らなかったに違いない。
その様子を、数馬は魅入られたように見つめていた。
(今の榊原の言葉――まちがいなく榊原が黒幕だ。留次郎さんは、この言葉を引き出すために、わざとこんな目立つ真似を?)
俄かに、数馬の迷いが消え去る。
(俺は、俺の為さねばならぬ役目を果たす)
奥座敷の前では、留次郎が抜刀した敵に囲まれている。あつまった四十人ほどの家臣のうち十五、六人は、留次郎の言葉に戦意を削がれ、成り行きを見守ることにしたらしい。ならば、斬らねばならぬ相手は、おおよそ二十五人か。
「乾殿、行くぞ」
中原の声に頷き、数馬は留次郎の元へと駆けだした。




