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天狗

 数馬は、大きな伸びをして、薄曇りの空を見上げた。


「のんびりと先生を捜すとするか。いくら江戸が広いといっても、先生の知り合いの一人や二人、すぐに見つかるさ」


 自分自身に言い聞かせるように呟き、数馬は歩き始めた。


(名のある剣術の道場を訪ねるか。剣士ならば、きっと先生を知っている者もいるだろう)


 八田藩を出立し、旅すること二十余日。十九歳の数馬が、生まれて初めて踏む江戸の地だ。住谷橋(すみやばし)のたもとは、江戸を去る者を取り囲み名残を惜しむ人々や、大きな荷物を背負った商人(あきんど)たちでごった返している。


 小袖胴着に脚絆をつけ、編笠を被ってきょろきょろと辺りを見回しながら歩く数馬は、どこからどうみても『お上りさん』だ。ふと気を抜くと、すぐに肩と肩とがぶつかりそうになる。


「おい、目ん玉がついてるなら、ちゃんと前を見やがれ」


と、いかにも職人といった風采の男に口汚く罵られ、


「ちょいと、邪魔なお人だね。天下の往来で突っ立ってるなんざ、どこの田舎侍だい。しっかりおしよ」


と、恰幅のいい町人の女房につきとばされるたびに、


「お、すまん」


と、律儀に詫びるものだから、なかなか前に進めない。ようやく雑踏を抜けた数馬は、うんざりしたようにため息をつく。


(やれやれ、こう人が多すぎると、どうも調子が狂う)


 なにしろ、生まれは秦野、育ちは八田である。どちらも城下町とはいえ、のんびりとした土地柄だった。もっとも、生国である秦野の記憶はおぼろげだ。


 数馬の幼名を、新次郎という。藩士だった父は、不正をはたらいたかどで切腹を申し付けられ、家名は断絶。まだ七つだった新次郎も、嫡子として死なねばならなかった。


 父と母の顔すら、もう覚えていない。ただ、その日――白装束を着せられ、同じように白装束を纏った父の前で、母から手渡された白湯を飲み干したとたん、口いっぱいに広がる苦みとともに意識が朦朧とした。手の力が抜け、茶わんがゆっくりと自分の指から離れて落ちていく様だけは、やけに鮮明に覚えている。そして、その刹那、首筋に何かが叩きつけられるような衝撃を感じ――そのまま新次郎は気を失った。


 きっと、毒をあおった自分の首筋を斬り落とそうと、父が一太刀をいれたのだろう。だが、父の迷いか、それとも手元がくるったのかはわからぬが、その斬撃は致命傷とならなかった。


 首筋の鋭い痛みとともに目覚めたとき、あたりは血の海だった。首からおびただしい血を流して倒れている父と母の傍らで、新次郎は誰かに抱きかかえられていた。


「おい、気がついたか」


 新次郎の顔をのぞきこんだのは、がっしりとした体つきの若い武士だ。男の日に焼けた顔が、ふと緩む。


 呻き声をあげながら傍らに倒れている三人の侍は、今にして思えば、介錯役と見届け役の者たちだったのだろう。


――これが、塚田千之助との出会いだった。


「塚田様、屋敷が取り囲まれていますぜ」


 若い男の声が、廊下から聞こえる。それを聞いた塚田は、落ち着いた声音で


「お前の父御にすべての咎を負わせた連中が、屋敷を取り囲んでいる。狙いは俺たち二人だが、お前もここに残ればただではすむまい」


 と言い、新次郎を抱き上げた。


「せっかく生き永らえた命だ。ここでむざむざと散らすことはあるまいよ」


 新次郎がこくり(・・・)と頷くのをみて、塚田も頷き返す。


「俺の背に、しっかりと掴まれ。何があっても、離れるでないぞ」


 塚田は新次郎をおぶい、新次郎は塚田の肩に固くしがみついた。塚田が部屋の外に出ると、若い男が油断なくあたりを見回している。旅装姿の町人に見えるが、ただの町人ではなかろう――若い男が纏う空気から、幼い数馬もおぼろげながら、そう思った。


「さ、塚田様。こちらへ」


 若い男にいざなわれ、塚田は庭に降り、身を屈めながら塀沿いに進む。屋敷の裏手に回り込むと、裏木戸がある。若い男は、その手前で動きを止め、塚田を見て頷いた。


 ひと呼吸おき、大きな爆発音が表門のほうから聞こえた。続いて、ひとつ、ふたつ。続けざまに、大音響とともに三筋の白煙が表門のほうから立ち上る。


 それと同時に、塚田達が身を潜める門の外も、にわかに慌ただしくなる。


「しまった、正面か」

「ええい、公儀の犬を逃がすな!」

「正面だ! 正面に回れ!」


 裏木戸の向こうから、口々に叫ぶ男たちの声と、大勢が駆けていく足音が聞こえる。


 若い男は塀に耳をあてながら、懐から三本の棒手裏剣を取り出す。その手裏剣を右手に握り、裏木戸を素早くあけた男は、勢いよく外に飛び出す。


「なっ!」

「おのれ!」


 男の姿を見た敵が発した声は、ぐしゃりという鈍い音と共に途絶える。


 塚田に負ぶわれて裏木戸をくぐった新次郎の目に、頭を砕かれて地に倒れ伏す、三人の侍の姿が映る。


 屋敷のほうからは、続けざまに爆発音が聞こえ、それに追手の男たちの怒声が入り混じる。

 

「さ、塚田様、行きましょう」


 塚田は背後の屋敷を一瞥したあと、男に向かって頷き、駆け出した。


 それからどう追手の手を逃れたのか、数馬も覚えていない。血を流しすぎたせいで、ずっと眠り続けていたのだろうか。


 断片的な記憶のなか、数馬は若い男に負ぶわれて、山中の道を塚田とともに旅している。


 塚田も若い男も、言葉を交わすことなく、足早に険しい道を歩いていた。


 若い男が、ぴたりと歩みを止める。


「塚田様、後ろから三人ばかり、追ってきやしたぜ」


 塚田は頷き、男に声をかけた。


「お前は新次郎を連れて、隠れておれ」


 その言葉に頷き返した男は、新次郎を抱きかかえた。


「さ、坊。舌を噛まないように、口を閉じてるんだぜ」


 言われるがままに歯を食いしばった新次郎を抱えて、男は道端にそびえる杉の大木の根本にいくと、無造作に跳躍した。


 ぐん、と体全体に重くなったような力がかかり、目に映る木々の枝が、猛烈な勢いで下に流れる。男はそのまま、太い枝のうえに、ふわりと降り立った。


 人間業とも思えぬ手並みに、新次郎は呆気にとられる。


「すごいや。おじさん、まるで天狗みたいだ」


 思わず漏れ出た感嘆の声に、男はにっと笑った。糸を引いたような細い目が、もっともっと細くなる。


「そうかい。坊、今からちょいと大立ち回りがあるが、怖かったら目を閉じてな。だが、声は出すんじゃねえぜ」


 そう言って、男は新次郎を枝の上に座らせた。


 しばらくののち、二人が見守るなか、塚田の前に三人の侍が姿を現した。戦いの口火を切ったのが塚田だったのか、追手の侍達だったのか、新次郎はよく覚えていない。


 裂帛の気合とともに斬りかかってきた侍にむけて、塚田が大きく踏み出す。塚田が敵の首に向けて抜き打ちで放った一刀で、敵は動きをとめた。一拍ののち、その頭部がぐらりと傾ぎ、項の皮一枚を残して垂れ下がり――鮮やかな首の切り口から鮮血が噴き出す。


 塚田はそのまま残る二人の侍に向けて駆け寄り、右の八相から一人の胴を薙ぎ払い、そのまま真向うから振りかぶった刀を斬り下ろす。


 胴を両断された敵は、そのまま上体ががくんと後ろに折れ曲がり、のこされた体がゆっりとその場に崩れ落ちる。左の肩口からの斬撃を受けた敵は、そのまま左腰までを削ぎ落され、心の臓から血を噴き出しながら真後ろに倒れこんだ。


 その様を、新次郎は瞬きもせずに見ていた。あまりにも鮮やかな太刀筋に、身体の底から震えがくる。


「おい、坊。大丈夫か」


 目の前の惨状を凝視しながら身動きひとつしない新次郎の顔を、男が心配そうにのぞき込む。我にかえった新次郎は、男に向けて問う。


「ねえ、天狗のおじさん。俺も、あのように強くなりたい。強くなれるだろうか」


 男は新次郎の頭をなでながら、微笑んだ。


「ああ、一心に修行に打ち込めば、きっとなれるとも。だがな、坊。どうして強くなりたい?」


 新次郎は、一瞬躊躇した。自分はなぜ、強くなりたいのだろう。なぜ、強さを欲するのだろう。


「強ければ――きっと、父上も母上も、死なずにすんだ。俺も、こうやって逃げずに済む」


 そう答えた新次郎の声は、きっと自信なさげだったろう。


 男は新次郎の頭に手をおいたまま、再び優し気に微笑んだ。


「ああ、坊自身の身を守るにも、坊が守りたい相手を守るにも、坊は強くならないとな」


 それからの記憶も、おぼろげだ。八田藩についた塚田は、旧知の間柄である榊左門という浪人に新次郎を預けた。榊が新次郎の事情を塚田からどこまで聞いていたか、今となってはわからない。塚田は、新次郎に『乾数馬』の名を与え、自分の妹の忘れ形見であると榊に説明した。榊も、それ以上の詮索はしなかった。


 一年に一度ふらりと塚田が訪れては、数馬に剣の手ほどきをし、また何処とも無く去っていく。


 だが、そんなとき塚田はいつも一人で、あの天狗のように身の軽い男の姿はなかった。


 寺子屋の手伝いをしながら、剣の修行を続けた数馬は、いつしか十九歳となった。一年に一度、欠かさず現れていた塚田が姿を見せなくなってから、すでに一年半が過ぎようとしている。


(もしや、先生の身に何かあったのか)


 そう思い始めると、数馬はいてもたってもいられない。


(先生はもしかすると病に臥せっているかもしれない。役目で命を落としたかもしれない)


 数馬は、塚田が公儀の役目で諸国を巡り歩いていることを、塚田から聞いていた。いつかは、その役目のために命を落とすことになるかもしれぬことも、だ。


(役目で命を落とされたのならば、やむをえまい。だが、もし先生が病に臥せっていたり、手傷を負って動けぬのならば、俺は先生の役に立ちたい。なにしろ、俺は塚田先生にこの身を助けられたのだ)


 こうして、数馬は師・塚田千之助を探して、江戸にやってきたのだ。


 「さて、剣術で名高い道場でも、探すとするか」


 そもそも公儀の隠密である塚田が、剣術の表舞台で名を馳せるはずもない。だが、数馬はとことんうぶ(・・)であった。


 大きく伸びをして歩き始めた数馬が、怒号と悲鳴とをききつけたのは、このときである。


「あ、あぶねえ」

「どうしよう、あのお侍、殺されちまうよ」


 遠目に、野次馬達の人垣がみえる。数馬は咄嗟に、その方向へむけて駆け出した。



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