焼きサバ定食の味
武道場を出た私たちは、とりあえず腹ごしらえをすることにした。機動隊が行きつけにしている飲み屋で、ランチ営業もやっていて個室もある、おあつらえむきの店だ。
向き合って昼ご飯を食べている間、お互い無言だった。ううう。焼きサバ定食の味がまったくしないぞ。
焼きサバを注文したときに、
「気分が悪くて倒れたあとに、そんなもん注文して大丈夫か?」
と、高木さんに聞かれ、
「大丈夫っす。問題ないです!」
と答えて、またまた疑わしそうな目つきで見られた。実際は、メニューを選ぶときに気もそぞろで、今日のおすすめ定食を頼んだだけなんだけど。うう……食事中に刺さる高木さんの視線が痛い……
定食を食べ終わって、熱い日本茶を運んできた店員が部屋から出ていくと、高木さんが口を開いた。
「全部、話してくれるな?」
ええい、ヤケクソだ!
こんな話、信じてもらえるかどうかわかりませんけど、と前置きをして、私は全部話した。
十年前、私が退院したときに、先生の道場で体験したことの一部始終を。そして、先生の守護の力の期限が切れると、私の寿命がくること。医者になろうと思った理由。そして――半年前から幽体離脱が始まり、徐々に頻繁になってきて、そろそろ自分の寿命の限界だな、と覚悟していること、を。
三十分くらい、ぶっつづけで話している間、高木さんは眼を閉じて腕組みをしながら、じっと話を聞いていた。おこっているかな? それとも、あきれているかな? 高木さんがどう反応するか、怖くてしょうがなかったけれど、とにかく私は話し続けた。
「――で、これが最後の機会だと思って、今日、高木さんに立ち合いをお願いしたんです」
よし、一気に話しきったぞ。すっかりぬるくなった日本茶を、一気に飲み干す。湯呑みをガタンとテーブルに置いた勢いで、黙っていてすみませんでした! と謝ろうとしたときに、突然、高木さんが私に頭を下げた。
「気づいてやれなくて、すまん……」
高木さんの声が、すごくかすれていた。
「いや、悪いのは、十年間も黙っていた私で……」
「小さい頃からお前のことをずっと見ているのに、気づいてやれなかった自分が情けないよ。本当にすまない」
高木さんは本当に、責任感が強くて、自分に厳しくて、面倒見がいい。これまで、うだうだ悩んでた自分が恥ずかしくなる。だから、今度こそ、後悔しないように、今、私が思っていることを、ちゃんと伝えなきゃ。
「高木さん」
「ん?」
「私ね、先生が貸してくれた命をどうやって使おうって、いつも考えてたよ。だから、この十年で、人の四十年分くらい生きた感じ。よく頑張ったって、思いっきり胸をはれるよ」
「そうか」
一番大事な言葉は、今度にとっておく。飲み屋で話したくないもん。
そして、それから二週間後――勤め先で循環器内科の先生に、ちょっと調子が悪いので診てもらえませんか、とお願いした。心エコーや心電図の結果をみたその先生が真っ青になり、問答無用で強制入院さ。ちゃんとアパートも解約してきたし、予定どおり。
入院する直前は、倦怠感が強くて、ちょっとでも歩くと眩暈がしていた。入院してベッドの上で大人しくしているぶんには、問題ない。まあ、うつらうつらしていると、ちょっとした拍子に幽体離脱してしまうのだけど。
今日は主治医の先生から病状説明があった。原因不明の心機能低下があり、手の施しようがない、という内容だった。まあ、そうだろうね。うん。
で、DNAR(Do Not Attempt Resuscitation)の同意書にサインをした。というか、こっちから催促をして、サインさせてもらった。つまり、心肺停止状態になったときに、昇圧剤、心臓マッサージ、気管挿管を含む人工呼吸器装着のような諸々の蘇生行為をやらないでね、という念押しだ。
これでいい。あとは、寿命が来る、そのときを待つだけだ。
身体が動かなくなると、その分、全身の感覚が鋭くなる。幽体離脱していないときも、自分の身体と外界の境界が曖昧になるような感じがして、自分の感覚がどこまでも広がっていく気がする。
お、ナースステーションにいる看護師さん達のヒソヒソ話が聞こえるよ。私の噂をしているみたい。
「六号室にいる、整形外科の相原先生、DNARなんだって」
「ええっ あんな若いのに」
「気の毒にねえ」
おーい、気の毒じゃないよ、私は自分の人生に満足しているよう。
「そういえば、相原先生のお兄さん、見た?」
「見た見た! めっちゃイケメン! タッキーを渋くした感じ!」
「よく面会に来ているよね!」
まあ、実の兄ではないんだけど。説明が面倒だから、そういうことにしている。
高木さんは、相変わらず世の女性陣にモテモテだ。そして、相変わらず独り身である。
私が入院してから、高木さんはほぼ毎日、面会に来てくれている。あ、噂のヌシが、ちょうど来たぞ。
「よう! 調子はどうだ?」
「動かなきゃ、大丈夫! 油断すると、幽体離脱しまくっているけど」
「そうか」
「さっきね、病状説明があった」
「うん」
「心臓が弱って、手の施しようがないって。ま、予想どおり。あと、心臓と呼吸がとまったときに蘇生しないで、って書類にサインした」
「そうか。お疲れさん」
三週間前に事の次第を洗いざらい話したとき、高木さんはすべてを受け止めてくれた。私の言葉を否定することもなく、私が十年間も黙っていたことを責めるでもなく。
葬式とか墓とか、その他もろもろの身辺整理も含めて、私が準備万端であることを説明したら、
「そんなところは先生にそっくりだな」
と、妙に感心された。
面会のときは、たいてい、他愛のない話をして過ごす。ちょっとした言葉を交わすだけで、とっても温かい気持ちになるよ。自分が医者になってからは、高木さんとゆっくり話す機会も少なかったから、昔に戻ったみたい。懐かしいなあ。
こうやって来てくれるのはありがたいんだけど、この人の一日は、仕事六割、剣道三割、わたしの面会一割で、出会い成分がゼロである。妹分としては、非常に心配である。うむ。いっちょ焚きつけるか。
「高木さん、結婚しないの?」
「しない」
おい! 即答かい!
「な、なんで?」
昔、同じことを訊いた時には、そんな暇ない、ですまされたけれど。
「俺は、後輩たちを鍛える義務があるし、自分自身も剣の道を究めたい。そうするとな、家族を養う暇も甲斐性もない」
予想通りの回答でした。筋金入りの剣道バカですよ、もう……
「それにな、正直、家族を持つのが怖いという気持ちが、俺の中にあるんだと思う。うちの死んだ両親が、絶望的に夫婦仲が悪くてさ」
ああ、それなら私も、よくわかるかも。夫婦ってのに、前向きなビジョンを描けないんだよね。うんうん。
「お前と初めて会ってしばらくたったとき、先生からお前の家族のことをきいてな。あんな家庭環境なのに、この子はなんて性格がまっすぐで、剣に一途なんだろうと、心底感動したよ。あとな、小学三年生なんてやんちゃな盛りなのに、人に頼ることを知らないし、人に気をつかいすぎなくらい気をつかう。そんな女の子を見ていると、ほっとけなくてなあ。ついついお前の世話をやいてしまった」
高木さんも両親のことで苦労したから、私のことが心配だったんだね。それにしても、高木さんが子供の頃の私のことを、そんなに気にかけてくれてたんだ、ってびっくりしたよ。ちょっと、ハートのへんがほっこりするよ。
「そんな風に可愛がってた子に、こてんぱんにされたときには、やっぱり堪えたなあ。憶えているか? お前と初めて組稽古をしたときのこと。」
「うん」
中学生になって、はじめて大人達の練習に混ぜてもらったときのこと、だ。高木さんと初めて立ち合って、高木さんは私に一本も打ちこめなかった。
「お前のことを凄いと思うのと同時に、自分のことが本当に不甲斐なくてなあ。いくら剣道で学生日本一になっても、見切りは中学生以下かよ! と思ってさ。それからは命を削る覚悟で、時間を惜しんで修行をしたよ。だから、杉先生には本当にお世話になったけれど、それ以上に――」
寝ている私の額の上に、ポンと大きな手が置かれた。
「今の俺があるのは、お前のおかげだよ、有希」
私は一瞬、呆気にとられた。
ちがうよ、全日本選手権で二回優勝したのも、それからずっと腕を上げ続けているのも、全部高木さんが頑張っているからだよ。こんなストイックな人を、私は知らない。
「ううん、高木さんは本当に凄いよ。この前の立ち合いでね、人って幾つになっても、どんどん強くなれるんだ、てわかった。わかって、よかった。ありがとう」
「こら、人をおっさんみたいに言うな」
高木さんは照れたように、頭をかいた。こういう癖、初めて会った時から変わらないなあ。
「この間の立ち合いのときなあ、最初にお前から、久しぶりに練習したいんで、と頼まれたときには何ごとかと思ったぞ。でも、最初に相対して構えたときから、お前と剣を交えるのがこれで最後になる、という予感がしてな。だから、今の俺のすべてを出して、お前に見せることにしたんだ」
「うん、気持ちはしっかり受け止めたよ」
にっこり、サムズアップを兄弟子に返す。よいしょっと。手が重いぜ。
この人は、いったいどこまで強くなるんだろうなあ……そう思うと、なんだか視界が涙でぼやけてきた。
「高木さん、私ね、死ぬのは怖くない。自分の人生には満足している。でもね、本音をいうと、高木さんがどこまで強くなるのか、見届けられないのが残念……かな」
「そうか」
「あとね、さっきの話だと、まるで高木さんが結婚しないで修行僧みたいな生活送ってるの、私が原因じゃん!」
「ば、馬鹿! お前も人のこと言えたクチか!」
もう、泣き笑いだ。久しぶりにゲラゲラ笑って、すっかり心が晴れた。
「じゃあ、今日はこれくらいで帰るな。また、明日も来る。沢山話して疲れただろうから、ゆっくり休め」
「うん、ありがとう。待ってるね」
「ああ」
高木さんが帰ったあと、私はすぐに眠りに落ちた。
夢の中で、私は冷たい地面の上に横たわっていた。
これは、この間、道場で見たビジョンの続き……だ。
「……き! ゆき!」
誰かが呟くように私に呼びかけて、私の身体を抱きあげて、歩き出した。
ん? 高木さん……じゃないよね。でも、なんだか懐かしい感じがする。私を抱える両手が小刻みに震えている。その人の顔を見たいけれど、自力で身体を動かせないから、見えないや。かわりに、空が見える。満天の星空と、燃えるように真っ赤な月に見とれる。
そして、私の身体は、地面に穿たれた穴のなかに、膝を抱え込んだ姿勢で置かれた。
「ゆき、ごめんな」
誰かの声がする。すごく悲しそうな声に、胸が締めつけられる気がした。
土をかけて、穴の中に埋められたのだろう。視界が暗くなるのとともに、私の夢はそこで途切れた。