失われた日々の記憶
暮れの押し迫った江戸の町は、活気に満ちている。今日は師走の十三日――武士も町人も、一斉に年越しの用意をし始める日だ。
昨日は小雪がちらついていたが、今日は快晴だ。商家の戸口では奉公人たちがせわしげに出入りし、景気づけの酒や食材などを売り歩く者たちで往来は賑わっている。
往診の帰りみち、数馬はゆきが物珍し気にきょろきょろと辺りを見回す様子を見て、頬を緩めた。
「ゆきさんの故郷では、正月の支度はどうしていたんだい」
ゆきは、少し上気した顔で答える。
「里では、かまどや、畑仕事に使う道具の手入れくらいかなあ。五ノ井まで出れば、もっと賑やかなんだろうけれど」
なにしろ山里だから、と笑うゆきに数馬は笑みを返す。
「年に一度の賑わいだ。せっかくだから、少し足をのばすか」
「うん!」
ゆきの弾けるような笑顔を前に、数馬の心も弾む。
――水無川衆の一件が解決してから、ふた月が経った。数馬の手足は、すっかり回復して何の不具合もない。ゆきの見立てでは、二度と手足が使い物にならぬほどの怪我だったし、数馬もそれを覚悟していた。
だが、いまでは近くでよく見ないとわからないくらいのの、うっすらとした傷跡が残るのみだ。
(ゆきさんは、俺の躰には、俺自身も知らぬ力が宿っているのかもしれない、と言っていたな。そして、その力をけして過信してはいけない、とも)
ゆきによれば、仮にそういう力――尽きようとする命を呼びもどし、傷を癒すような力があったとしても、なにかの対価を要するらしい。そう告げたときのゆきの顔は、真剣そのものだった。
ゆきは、そのような『力』に、何か心当たりがあるようだ。それが何かは、語らなかったが。きっと、言えぬ訳があるのだろう、と数馬もそれ以上は訊いていない。だが、今も数馬の心の片隅にくすぶる疑問がある。
(対価とは、なんだろう。俺自身の命ならば、いくらでもくれてやるが)
そう思ったところで、ちくりと疼く胸の痛みに数馬は気がつく。
(だが……俺は、ゆきさんと共に生きたい)
ふた月前、ゆきを両の腕で抱きしめたときの温もりが、今も数馬の胸のうちに残る。数馬自身の想いを言葉で伝えた訳ではない。だが、はじめは驚いたように身を強張らせていたゆきの身体が、数馬に身を任せるようにぐにゃりと柔らかくなり――そして、その両腕を数馬の背に回して抱きしめ返してきた。そのまま時が過ぎるのを忘れ、身じろぎもせずに抱き合っている間ほど、満ち足りた気持ちになったことはない。
己の胸のなかにいるゆきを、狂おしいほどに愛おしく思った。そして、この少女が、己の使命を果たすなかで命を散らすことのないよう、心から願った。これほどに熱い想いが、己の身の内にあることに、数馬は戸惑う。
だが、ゆきを娶り、子をなす――そんなことは今の数馬にとって、夢また夢だ。
それどころか、あれっきり、ゆきを抱きしめてすらいない。互いに避けているわけではないが、そういう雰囲気にならないからだ。
(俺は、己に立てた誓いを果たさねばならん。それに、ゆきさんも、弥助さんや小平太さんたちと為さねばならぬことがある)
きっと、ゆきもそう考えているのだろう、と数馬は思う。
だが、共に本懐を遂げた暁には――
(いつか、俺とゆきさんが手をとりあい、夫婦となる日がくるのだろうか)
そう思いを馳せ、隣を歩くゆきの横顔を見つめる。江戸市中隠密廻りの仲間達は、みな独り身だった。周りの目を欺き、市井の人々に紛れて役目を果たさねばならぬ。それに、いつ命を落とすともわからぬ身の上だ。所帯を持つことを禁じられていた訳ではないが、みな、他人と必要以上の関わりを持たぬようにしていた。数馬自身も、仲間と同じように一生を独り身で過ごすものと思っていた。
「ん? どうしたの、数馬さん」
視線を感じたのか、屈託のない表情で問うゆきに、数馬は笑顔を返す。
「いや、なんでもないさ。そうだ、帰りに精のつくものでも買って、三好先生を見舞うとしようか」
「うん、そうだね。三好先生、最近は少し疲れているみたいだから」
三好宗哲の容態は、一進一退を繰り返している。いまは積聚――胃の腑の激痛も小康状態だ。だが、病は着実に三好の身体を蝕んでいる。春の芽吹きまでもつかどうか。三好自身も、そう見積もっている。
できることなら、三好が生きているうちに、養生所を任せられる医者を見つけたい。医術の心得がなくとも、三好の伝手で修行に出すことができれば、いずれは養生所を任せられるようになるだろう。定町廻り同心の鵜木や、目明しの巳之吉にも、医師を志す者がいないかを当たってもらっているところだ。
「卵や山芋がいいかな。ね、数馬さん、浜井の市場に寄っていこうよ」
いつもは、養生所にやってくる振り売りから、野菜や魚などを買っている。浜井には、近くの飯屋へ野菜や魚などを卸す店が立ち並んでおり、どんな品でもよりどりみどり、だ。
ゆきと肩を並べて食材を見繕っていた数馬は、二間ほど前を通り過ぎていった、男の姿にふと目をとめた。灰色の着流しを纏い、編み笠を被った浪人者だ。どこか見おぼえのある体躯に、数馬のは目を見開く。
(顔は見えなかったが、あの背格好――もしや)
そう思うや否や、数馬はすでに駆け出していた。
「ゆきさん、すまない。人を追う」
ゆきの顔を見る暇もない。手短かに言い残し、行き交う人々の肩とぶつかりながら、数馬は男の姿を目で追う。雑踏の中を人の流れに逆らって進むのは、容易ではない。数馬が人混みを抜けた頃には、男の姿はもう十五間ほども離れており、商家の角を曲がるところだった。
(見失うわけにはいかん)
浪人の後を追って角を曲がった数馬は、道行く人が何事かと振り返る勢いで、渾身の力を振り絞って走った。ようやく浪人者に追いつき、その背に声をかける。
「中原さん――もしや、中原さんか?」
呼び止められた浪人者は、立ち止まって振り返り、編み笠を少し持ち上げて数馬を見た。
「いや、人違いであろう」
五十絡みでがっしりとした体つきの男だ。灰色の着流しは、新しくはないがよい仕立てに見える。編み笠から除く顔は、どこか品の良さを感じさせる。
浪人の顔を見た数馬は、かすかに落胆の色を浮かべて頭を下げた。
「いや、お手前の後ろ姿があまりにも懐かしい知り合いに似ていたゆえ、ついつい声をかけてしまった。無礼の儀、ひらにご容赦願いたい」
丁寧に詫びる数馬に、男は鷹揚に「構わぬ」と言い残し、その場を立ち去った。
その背に、もう一度深く一礼をする数馬を、気だるい疲れが襲う。探し求めていた相手をようやく見つけたと思ったが、空振りに終わったからだ。
(俺が中原さんと出会ったのも、十年前の師走だったか)
数馬は空を仰ぎ見る。
(十年前、江戸に出てきたばかりの俺は、右も左もわからず、こうやって空を見上げていた――)
つん、と心の奥底で、かすかな痛みがうずく。
(俺は、この江戸で仲間と出会い、そして――仲間を失った)
数馬は、失われた日々の記憶に想いを馳せる。十年前の己が歩んだ、眩しく、苦い日々のことを。




