誓い
県立美術館で、師・杉正巳の手による絵を見たときに高木を襲った異変――あの日から、ひと月が過ぎた。
前触れもなく失神したことには違いないから、あの後、念のため県立病院を受診した。不整脈がないかとか、頸動脈が狭くなっていないかだとか、数回通院してあれこれ検査されたものの、結果は『シロ』だ。つい先ほど、医者から、
「またなにかあったら、電話で予約して外来を受診してください」
と告げられ、終診となった。
(すると、やはり先生の絵がきっかけとなった出来事だな)
高木は、すんなりと納得した。有希や師のおかげで、超常現象には慣れっこだ。
(まったく、俺には霊感なんぞこれっぽちもないのにな。神崎君に会ったときに、話してみるか)
官舎に戻った高木は、自室の書棚に挟んであった小冊子に目を止めた。県立美術館のパンフレットで、師の遺作を集めた特別展示が開催されたときのものだ。
(そういえば、あの絵の写真が載っていたな)
パンフレットを手にとってページを繰り、あの『慟哭』と題された絵の写真を見た瞬間――高木は強烈な眩暈をおぼえた。描かれた赤い月が眼前いっぱいに広がるような錯覚とともに、ブーンという耳鳴りが起きる。
急に足もとの床が無くなったように感じながらも、高木はその場に膝をつき、倒れそうになるのを堪えた。意識が途切れそうになるのを、強靭な意思で引き戻す。数十秒ほどが経過しただろうか。眩暈も耳鳴りも、いつの間にかおさまっていた。
(もしや、あの絵の本物だけではなく、写真でも同じ現象が起きるのか)
そう推測した高木は、ベッドの上に身体を横たえて、先ほどのパンフレットを手にとる。
例の絵の写真を見つめたとたん、先刻と同じように強い眩暈と耳鳴りに襲われ、絵に吸い込まれるような錯覚にとらわれた。
(やはり、な)
高木は、再び己の意識を引き戻す。要領さえつかめば、さほど苦労しない。
(やはり、杉先生は俺に何かを伝えようとしている)
死の間際に不思議な術を使ったという、師の顔を思い浮かべる。この超常現象も、師の術によるものだろう――高木は、そう確信した。
(写真を見ただけでもこの現象が起きるなんて、きっとかなり強力な術だ。有希が思う存分に剣を振るっている様を見せるためだけなら、そこまでの術はかけまい)
師がこの術を施した理由を、つきとめねばなるまい、と高木は思った。
(己の命と引き換えに、有希を助けたくらいだ。この術も、きっとただの戯れではないだろう。先生の意図を知る鍵は、あのビジョンの中にあるはずだ)
再び師の絵を見つめた高木は、眩暈の訪れに合わせて目を閉じた。ブーンという耳鳴りとともに、平衡感覚がなくなる。自分の身体が宙に浮かんでいるような、不確かな心地だ。高木は、その感覚に身をゆだね、今度は抵抗することなく意識を手放した。
しばらくの後、高木はゆっくりと瞼を開いた。
森の中だ。広葉樹に新芽が芽吹いているところをみると、季節は初春か。肌をなでる風は、まだ少し冷たい。
目の前には、作務衣のような柿渋色の着物を纏った、有希がいる。そして、高木はまたもや、杉と思われる少年の視点で、有希を見ている。この有希は、八歳くらいだろう。ちょうど、高木が有希と出会ったときの年頃に見える。有希は、疲労困憊した様子で、木の幹にもたれかかっていた。
その有希に向かって、少年が言葉を発する。
「ゆき、疲れたならば、そろそろ休むか。木渡りの術は、まだ難しかろうよ」
少年の声に、有希は首を横に振る。
「ううん、源太にぃ。もう一回つきあって。明日、伊佐次さんに見てもらうまでに、コツをつかみたいんだ」
その言葉を聞いた少年の胸のうちが、ふと緩む。この少年の身体に宿った高木には、それがわかった。
「まったく、お前はいつも頑張りすぎるくらい頑張るから、俺は心配だぞ。よし、手本を見せるから、一緒にやってみろ」
有希の顔がぱっと輝く。
「源太にぃ、ありがとう!」
(やっぱり有希は、変わらないな。有希が小学生の頃、俺もこんな風に心配していたっけ)
懐かしい日々を思い返した高木は、次の瞬間、瞠目した。
少年が軽く地を蹴り、跳躍したのだ。目の前の風景が、猛烈な勢いで下に流れる。少年は、そのまま太い木の枝の上に、ふわりと降り立った。七、八メートルは飛び上がっただろう。
(なんだ、これは……)
人間業とも思えぬ跳躍力に、高木は呆気にとられた。
地上を見下ろした少年の視界に、有希の姿がうつる。有希も、同じように跳躍し、少年の隣に来る。
「来い、ゆき」
少年はそう言い残すと、今度は数メートル離れた枝から枝へと、飛び移り始めた。ぐん、と膝をたわませて枝を蹴った瞬間の、風を切る感覚が心地よい。枝を蹴るたびに、少年の身体は加速し、まるで宙を飛んでいるかのようだ。少年が振り返ると、有希が歯を食いしばり、必死の形相で後を追っている。
「ゆき、このまま里に戻るぞ」
そう声をかけ、少年は有希との距離が離れすぎぬよう加減をしながら、枝から枝へ飛び移る。だが、なんとか少年に食らいついていた有希が、次の枝に飛び移ろうとした刹那、その身体がぐらりと傾ぎ、頭から真っ逆さまに落下していく。
気を失っているのだろう。落下している有希の身体は、ぴくりとも動かない。頭から地面に落ちれば、ただではすむまい。
「ゆき!」
少年は全力で枝を蹴り、およそ十メートル後方にいる有希に、飛びついた。有希の頭が地面にぶつかる寸前で、少年はその身体を抱きかかえ、有希をかばいながら転がるように受け身をとる。
少年は有希をそっと地面に寝かせ、顔を覗き込む。
「おい、ゆき。大丈夫か」
少年が有希の顔を軽く叩くと、有希はゆっくりと目を開けた。
「あれ、源太にぃ。ここは……」
頭をもたげようとする有希の肩を、少年が押しとどめる。
「いいから、そのまましばらく休んでおけ。疲れがたまったんだろう。お前は木渡りの途中で、気を失ったのだぞ」
最初のうちはぼーっとした様子だった有希は、次第に意識がはっきりしてきたようだ。
「ごめん、源太にぃ」
しょんぼりした様子で横たわる有希に、少年は笑いかけた。
「気にするな。だが、無理をしすぎるのはよくないぞ。死んでしまっては、元も子もないからな」
「うん」
少年は有希の隣に腰をおろした。木々の隙間から、猫の額ほどの盆地が垣間見える。畑や田の合間に家が立ち並ぶ。
(この前のビジョンで見た、村里か。それにしても、この少年だけではなく、有希までが人間離れした身体能力だ。これは、いったい……)
その里を眺めながら、少年は大きく伸びをした。そのままごろりと横になった少年は、有希のほうを向き、快活な口調で話しかける。
「なあ、ゆき。俺たち一族の出ではないお前が、これだけ秘術を使えるんだ。修行を焦ることはないぞ」
「うん、心配かけてごめん。でも、私は早く強くなりたいんだ。里を狙う連中と、いずれはやりあうことになるもん」
有希の口調は歳に似合わず大人びている。だが、この少年はそれを不思議とも思っていないようだ。
「そうか。お前はずっと、冴木様や爺を守れるくらい強くなると、言っているものな」
少年の口調は楽し気だ。
「俺もそうだ。俺も、お前や里の皆を守るために戦うぞ。そのためには、どんな修行も厭わん。剣術ではお前にとうてい敵わぬが、俺には忍びの技がある。秘術の腕も、近頃はお婆から褒められるようになってきたぞ」
そういうと、少年は上半身を起こし、有希の顔を見降ろした。
「ゆき、お前の身になにがあっても、俺がきっと守ってやるからな」
少年の言葉に、有希が一瞬、少し困ったような――泣きそうな表情を覗かせたのを、高木は見逃さない。この少年はゆきの心の動きに、気がついていないようだ。
だが、それも一瞬のことだ。有希はすぐに弾けるような笑顔となり、明るい口調で答える。
「うん、ありがと! 源太にぃに何かあったときには、私が絶対に助けるからね!」
「こいつ! ああ、そのときは頼むぞ」
笑いながら有希の頭をこつんと小突いたあと、少年は立ちあがり、着物についた土くれを払い落とす。
「じゃあ、そろそろ行くか。ゆき、立てるか?」
「うん」
少年に手をとられて、有希が立ち上がろうとする。その瞬間、高木の視界が暗転した。
ゆっくりと瞼を開く。最初に目に映ったのは、官舎の天井だ。
(戻ってきたか)
高木は、ベッドに横たわったまま考え続けた。守ってやる、という少年の言葉を聞いたときの、有希の表情を思い浮かべる。生前の有希に聞いた話では、師の一族は何者かの手で焼き討ちにあい、全滅した。師は、前世で妹のように可愛がっていた少女を守れず、それを終生悔やんでいたという。
(あの有希は剣の技術だけではなく、この世界で生きた記憶も持ち続けているのかもしれない。そして、待ち受ける運命に抗おうとしている)
師が、なぜ前世の記憶を見せるのか、高木には皆目見当もつかない。
(そもそも、いまのビジョンの中の有希と少年が生き延びて、天寿を全うしたとしたら、俺の知る杉先生は存在しなくなるのか)
と、思考はタイムパラドックスの領域まで至ってしまう。考えが堂々巡りをはじめそうになり、高木はひとり苦笑した。
(まあいい。きっと、あの二人の身になにかが起きる。その先に、先生が俺に伝えたいことがあるかもしれん。先生の記憶を、追い続けよう)
そして――そこに、己の為すべきことがある。師が自分に託した想いがある。高木は、そう予感した。




