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人知れず生き、人知れず死ぬ

 往診を終えたあと、留守を守ってくれていた荒木殿に礼を述べ、数馬さんと外に出る。数馬さんの回復は順調だ。両手で杖をついて、なんとかそこそこの距離を歩けるようになったから、外を歩く訓練を始めることにしたんだ。


 数馬さんが、おさよに九年前のできごとを話してから、二日が経った。あれからおさよは、志乃という女に唆されて偽の証言をした、と鵜木様に話したらしい。おさよへの沙汰は、まだ下っていない。


 養生所から外堀沿いに続く道を、数馬さんと歩く。今は、私達以外にひとっこ一人いない。数馬さんは、一歩一歩をしっかりと踏みしめるように、前に進む。足の裏の感覚が戻ってきたから、ふらつきが少なくなった。歩みは、赤子が這うくらいの速さだけれど。


 まだ握力は戻らないから、剣を握れない。数馬さんによると、上柴様に仕えることになった際に、忍びの術はある程度仕込まれたけれど、剣術以外はさほど自信がないそうだ。まあ、なんとなくそんな気がしていたよ。身のこなしは並外れているけど、走り方も跳躍の仕方も、やっぱり生粋の忍びとは違うんだよね。それに、手裏剣や弓矢もつかえないし、体術の経験も乏しいとか、なんとか。まあ、あれだけ剣の腕がたつから、他の武芸に手をつける必要もなかったんだろうな。


「俺は、剣が使えないとからきし(・・・・)だなあ」


と、数馬さんは歩きながらつぶやく。


「じゃあ、もうちょっと体が動くようになったら、片っ端から修行だね!」


「おいおい、お手柔らかに頼むぜ」


 鼻息荒く檄を飛ばす私に、数馬さんは苦笑いだ。こうやって冗談交じりに笑えるようになるくらい、数馬さんの回復は目覚ましい。最初は、本当にどうなることかと思ったけれど。


「数馬さん?」


 数馬さんに囁くと、数馬さんは頷いた。


「ああ。尾けている奴がいる」


 今感じる気配は、二人。ひとりは刺々しい殺気を隠そうともしない。志乃だ――そう確信する。


 身を隠す場所がなさそうなところで立ち止まり、二人で堀の水面を眺める。潜んでいる敵を、誘い出すためだ。話にのめりこんでいるように見せかければ、きっと仕掛けてくるだろう。


 背後から近づいてくる何者かの気配を感じる。足音を潜ませる術すら知らない。間違いなく志乃だ。どう出てくるか――数馬さんと話しながらも、感覚を研ぎ澄ませる。だが――


「乾数馬!」


 悲鳴のような女の叫び声に、意表を突かれる。こんなに正面きって現れるとは思わなかったからだ。


 数馬さんと背後を振り返ると、五間ほどのところにいるのは、まさしく志乃だった。着るものは汚れ、髪も乱れている。あの日、数馬さんを仕留めそこなってから、よほどひどい暮らしをしていたのだろう。爛々と光る眼は、前に見たように怨嗟で満ち満ちている。だが、どこか泣きそうな――追い詰められているような切なさを感じるのは、気のせいだろうか。


「父や幼い妹と弟の仇! いざ、尋常に勝負!」


 志乃の手には、直刃(すぐは)の刀が握られていた。だが、いかにも刀を持ち慣れていない感じだ。やはり、武芸に関しては素人だ。


 白刃が日の光を怪しく照らし返す。きっとあの刃には毒が塗られている。少しでも肌を裂けば、直ちに死に至る猛毒だ。


 今の数馬さんは、相手がただの娘とはいえ、とても戦える身体じゃない。握力がないから、杖を武器にすることもできない。数馬さんを守るため一歩前に出ようとした私は、数馬さんの押し殺した声に制止された。


「まて、ゆきさん。手出しは無用だ」


 心の臓が、とくんと跳ねる。


「でも……」


「これは、俺が背負った業だ。俺がかた(・・)をつけねばなるまい」


 数馬さんは、いつになく哀しそうな眼をしていた。もしかすると志乃に斬られてやるつもりじゃないのか、という不安が、またもや胸をよぎる。その不安を見透かしたように、数馬さんは私に声をかけた。


「必ず戻る」


 静かだが力強い声に――その真摯な眼差しに、不安はたちまちのうちに消え去る。


「わかった。見届ける」


 数馬さんから三間ほどの間をあけたところまで、離れる。数馬さんは嘘をつかない。だから、私はその言葉を信じて待つ。


 両手で杖をつく数馬さんは、志乃に向かって一歩を踏み出した。まっすぐに志乃を見つめる瞳からは、愁いが消えている。


「水無川衆の頭領、長尾伊右衛門の縁者だな」


 志乃は答えなかった。泣きそうな顔で唇を噛み締め、白刃を振りかざしながら、数馬さんに駆け寄る。


「乾数馬、覚悟!」


 絶叫とともに、数馬さんの首筋に向けて振り下ろされた一撃は、宙を斬った。数馬さんがその場で身をかがめて、志乃の懐に潜り込み、右斜め前に踏み出しながら左の肘を志乃の脇腹に打ち込んだのだ。数馬さんは、そのまま地面に倒れこむ。


 志乃は、その場にしゃがみこんだ。その場で激しく咳き込んでいた志乃は、急に左胸を押さえながら苦しみ始めた。おそらく気胸だ。折れた肋骨が、肺に刺さったんだろう。


「おの……れ……いぬい、かずま……!」


 涙を流しながら切れ切れに言葉を発した志乃は、自らの刀を右の首筋にあてると、残された力を振り絞って、一気に引き斬った。己の首から噴き出る血を浴びながら、志乃はがくがくと大きく痙攣した後、事切れた。


 一瞬の出来事だ。杖を頼りに立ち上がった数馬さんも、私も、言葉もない。


 その私達に、近づく者ひとり。


「すまねえな。その女の亡骸を、引き取らせちゃくれねえか」


 背は私と同じくらいだろう。歳は十六、七ほどに見える。とりたてて癖のない顔立ちだが、歳に似合わぬ落ち着いた雰囲気が漂う。着流しの町人姿を装っているものの、引き締まった身体つきと、身のこなしは忍びのそれだ。まだ若い声に聞き覚えがある。水無川衆を抜けた、銀次という男だ。


「銀次さん、だね。佐々木劒持の追手がかかった日に、荒寺の本堂ですべてを聞かせてもらったよ」


 銀次は狐につままれたような様子だったが、


「そうかい。あの日、芝居小屋から俺たちを逃がしてくれたのは、あんたの仕業かい」


と、納得したようだ。


「なら話ははええ。あんたが聞いてのとおり、俺は一族を抜けた身の上さ。俺の弟も、その乾数馬ってお人に斬られたと聞くがな、役目の上でのことさ。いまさら怨みも何もねえよ」


 そう言って、志乃の骸の傍らに膝をつく。


「まあ、抜けたといっても、一族の行く末は気にならあな。勘助さんが奉行所に捕まり、他の連中も、その女医者の先生と浪人者の手にかかって死んだって聞いたぜ。そうなると、お志乃さんは天涯孤独の身さ。さすがに放っておけなくて、匿っていたんだがよ。どうしてもあんたにとどめを刺したいって言い張るから、しょうがなくここに連れてきたのさ」


 銀次はそう言いながら、ため息をつく。


「お志乃さんも、哀れな女さ。最後の最後、ここに来る前に心のうちを話してくれたがな。数馬さんとやら、あんた、頭領の長尾様を――お志乃さんの父御を斬ったとき、お志乃さんが隠れていることに気づきなすっていたな」


 数馬さんは黙って頷く。


「お志乃さんはな、返り血を浴び朱に染まったあんたをみて、すっかり魅入られちまった。この世に、こんなに美しいものがあるのか、と思っちまったらしいぜ。親が殺されたのに、そう思ってしまった手前(てめぇ)を、お志乃さんはどうにもこうにも許せなかった。だが、ふと気が緩むと、血まみれのあんたの姿を思い浮かべちまう。そうしないために、お志乃さんは、あんたを恨んで、恨んで、恨みつくすしかなかったそうだ。あんたを殺せなければ、自分が死ぬしかねえ、と言っていたよ」


「そうか……」


 数馬さんは言葉少なだ。


「とんだ懸想があったもんだぜ。俺にはさっぱりわからねえがな。まあ、これでお志乃さんも、人を恨まずにはいられねえ浮世と、綺麗さっぱりおさらばさ。せめて、ちゃんと葬ってやりてえ」


 数馬さんは銀次に頭を下げた。


「そうしてやってくれ。俺からも、頼む」


「すまねえ、恩にきるぜ」


 軽く頭を下げた銀次は、志乃の刀を鞘に納めて腰に差し、志乃の骸を肩に担ぎ上げた。背を向けた銀次に、思わず声をかける。


「銀次さん、これからいったい、どうするつもりだい」


 銀次の行く末が気にかかるのは、たぶん、もう一つの世界の源太にぃ――先生の生き方と重ね合わせてしまうからだ。一族を抜けた源太にぃは、その後、非業の死を遂げたから。


 振り返った銀次は、にっと笑った。


「さて、どうするかな。俺が恨んでいるのは、俺たちの一族を根絶やしにしようとした、佐々木劒持の野郎さ。いつか、野郎に一矢報いてえとも思うがな。成り行きに任せるさ。気にかけてくれて、ありがとうな」


 そう言い残し、銀次は足早に去っていった。


 どこか飄々とした言動だ。この男ならば、無茶はするまい。そう思いながら銀次を見送る私に、数馬さんが声をかける。


「俺たちも帰るか」


「うん」


 外堀沿いの道を連れたって歩く私達は、風車を手に走り回る五、六歳の幼子とすれ違う。少し後ろを歩いているのは、母親だろう。この親子連れは、ここでいま、恋とも恨みともいえぬ想いを胸に若い娘が命を散らしたことなど、知る由もない。


 人知れず生き、人知れず死ぬ。


 せめて、その者たちのことを心に刻もう。私には、それしかできないから。

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