隠密のお役目も芸のうち
数馬さんの想いを知った日から、三日の後。
朝餉のあと、いつものように数馬さんの胴を抱きかかえて椅子に座らせようとした途端、数馬さんがくぐもった呻き声をあげて、その場に倒れこんだ。
「わっ! ご、ごめん。大丈夫?」
慌てて数馬さんを助け起こすと、当の本人はしげしげと自分の手足を眺めている。
「数馬さん、どうしたの?」
「起きたときから気になってはいたが、今日は手と足がやたらと痺れるよ。いや――痺れというより、痛みか。今も、足に強い痛みが走って踏ん張れなくてな」
痺れから強烈な痛みに変わるのは、感覚を司る神経が回復してきているからだろう。電撃をくらったかのような痛みのはずだ。
「治りかけは、そうなるんだ。いつまで続くかは、わからないけれど。立てる?」
「やってみるよ」
今度は慎重に立ち上がる。激烈な痺れと痛みで床を踏みしめる感覚はないはずだ。いや、むしろ感覚がまったくないときよりも、ふらつきが強い。それでも、数馬さんは歯を食いしばり、椅子に腰を下ろした。木枠を使った足踏みの訓練を見守る。
しばらく訓練を続けたあと、再び床に戻り手足の関節をほぐす。今の数馬さんは、手や指を触られただけで激痛が走る。私に手足の関節を曲げ伸ばしされている間、数馬さんは目を閉じ、口から息を細く吐きながら身じろぎもしない。なにも言わないけれど、痛みを堪えているのがよくわかるよ。四半刻が過ぎることには、数馬さんの顔は汗だくだ。
もう……やせ我慢しちゃって。弱音を吐かないにも、ほどがある。でもまあ、黙って見守ることにするよ。
「終わったよ。数馬さん、頑張ったね」
そう声をかけると、数馬さんは朗らかに笑う。
「今日はちょっと堪えたがな。まあ、なんてことないさ。さ、今日から俺も患者を診るぞ。手が使えない分、ゆきさんに手間をかけるけれど、よろしくな」
数馬さんが盗賊改の手に落ちた日から、ずっと外来を畳んでいたんだ。往診は、荒木殿に留守を頼んで、私がひとっ走り行っていたんだけれど。
数馬さんの回復は目覚ましい。外来を再開してから三日の後には、手足の痺れがおさまり、手足の関節を自力で動かせるようになってきた。それから二日後の一昨日には、なんとなんと、両手で杖をつきながら壁にもたれかかるようにして歩けるようになった。まあ、筋肉が壊れて力が出ないから、ドンと肩を押せば、よろめいて転びそうな歩き方だけどね。それに、握力がないから普通の杖は持てない。弥助さんに頼んで、肘のあたりで体重を支える台のついた、特別な杖を作ってもらったんだ。現代でいう、ロフストランド杖ってタイプのやつさ。
志乃は、あれから姿を見せない。志乃が前に桂木与右衛門の娘と名乗ったが、秋月先生の伝手で調べてもらったところによれば、やはり山野国にそういった名前の藩士はいないらしい。
志乃は、ひょっとすると水無川衆の残党を追う者たちの手にかかったのやもしれん。だが、生きていれば、志乃は数馬さんを狙い、また現れるだろう。自らの身を守る術も持たぬ女が、どうやって仕掛けてくるかはわからないが。
おさよは相変わらず口を割らず、まだ大番屋に留め置かれている。偽りの証言をしたのは明らかだし、嵌められた養生所の医者が盗賊改のせいで半死半生の大怪我、となっては、西町奉行所としても無罪放免というわけにはいかない。
とはいえ、罪が明らかにならねば、牢屋敷にも送れない。このいかにも宙ぶらりんな状態に、ほとほと困り果てた鵜木殿が養生所にやってきたのは昨日のことだ。
「おさよに会わせていただきたく。姉芸者の染弥のこと、九年も前のことなれど、おさよに話してやりたいことがあるゆえ」
という数馬さんの頼みが聞き届けられ、今日は朝から大番屋に向かう。外来も往診も、昨日のうちに今日の分を済ませたよ。
数馬さんは、外を歩けるほどには回復していないから、鵜木様が巳之吉親分と下っ引きの平吉さんを寄こしてくれた。大八車に数馬さんをのせ、平吉さんが引き、私と巳之吉親分とで大八車を押しながら、あたりを見張る。
大番屋につくと、鵜木様が待ち構えていた。
「乾殿、まだ体も癒えてなかろうに、こんなところまですまぬな」
と、心底済まなさそうだ。
「いや、こちらこそ無理をお聞き届けくださり、感謝の言葉もございません。あと、できれば人払いを。おさよと、私とゆき殿とだけで話をいたしたく」
と頭を下げる数馬さんの言葉に、鵜木様はしばし逡巡する。
「決まりでは、そなたらだけにしておく訳にはいかぬが……そうだ、巳之吉ならばどうだ。乾殿ともつきあいが長かろう」
数馬さんは、巳之吉親分を一瞥したあと、鵜木様に深々と頭を下げた。
「それならば、問題ないかと。重ねての御配慮、かたじけない」
しばらくすると私達のいる詰所に、おさよが連れてこられた。万がひとつにも逃げられることのないよう、巳之吉親分が目を光らせている。
下役と鵜木様が部屋を出ると、詰所の中にいるのは、おさよと数馬さん、巳之吉親分、私――の四人だけだ。数馬さんを見たおさよは、顔をこわばらせた。
「梅千代さん――いや、今はおさよさんか。久しいな」
静かに話しかける数馬さんの声に、おさよは堪らず目を伏せる。無理もない。自分が偽の証言をしたため、半殺しの目にあった当の本人が目の前にいるのだ。だが、気丈な女だけに、顔をそむけながらも啖呵を切ることを忘れない。
「数馬先生かい。いったい、なんの用だい。こっちは、あんたに用なんてないよ。それともなにかい、私に恨み事でもいいに来たのかい?」
おさよの憎まれ口を気にする風でもなく、数馬さんは話を続ける。
「染弥のことで、おさよさんは俺をずっと恨んでいたんだろう。無理もない。何も知らず、何もわからず、ひとり残されたんだ。あのときは、ああするよりほか、なかった。だが今となっては、おさよさんに隠し立てする必要もあるまい」
おさよが、ためらいがちに数馬さんの顔を見る。
「おさよさん。染弥は、今は亡き御老中の上柴様に仕えていたんだ。染弥ほどの売れっ子なら、大身の旗本や大名などの席にも声がかかる。それに、大店との伝手も確かだ。染弥は上柴様の手足となって、そういった者たちの秘密を探るのが役目だった。そして、俺も――上柴様に仕える者のひとりだった」
おさよが目を見開く。そして、巳之吉親分は驚きを隠せず、口がぽかんと開いている。
「染弥のところに俺が入り浸っていたのは、役目がらみさ。ただ、おさよさんも知ってのとおり、情は交わしていた」
巳之吉親分が、気づかわしげに私をちらりと見た。私が傷つくんじゃないかと、心配してくれているんだろう。うん、大丈夫だよ。心配ないよ――そういう気持ちを込めて、巳之吉親分にむけて頷く。親分は、少しほっとした様子で、また数馬さんに顔を向けた。
「そして上柴様が亡くなり、俺たちは後釜にすわった村上主膳に、狩られる立場となった。最初に殺されたのが染弥だ」
「なぜ……そんな……殺されるなんて」
おさよの顔は蒼白で、手の指もわなないている。
「俺も詳しくは知らない。最後の夜に会ったときの染弥は、何か知っているようだったが、何も言わずに数馬は江戸から逃げろ、の一点張りでな。それで、俺もかっとして染弥の家を飛び出したって訳だ。そして、その日――他の仲間も、みな村上主膳の手にかかり、命を落とした。俺は仲間の助けで、命からがら江戸から逃げ出したんだ」
巳之吉親分は、ふと思い出したように問う。
「染弥が殺された夜、弁天下の料亭に押し込みがあり、主の留次郎と、店の客が全員殺された。下手人の手がかりすら掴めず、なあなあでお開きになったってぇ、ひでえヤマがありやしたが、あれも……?」
「ああ。留次郎さんは、俺たちの首領だったお人さ。今となっては、上柴様にも留次郎さんにも義理立てする必要はあるまい。みな、三途の川を渡っちまったからな」
数馬さんと巳之吉親分のやりとりを聞いていたおさよが、よくやく口を開いた。
「急には信じられない話だけど……たしかに染弥姐さんは、ちょいと悪い噂のある御大尽の座敷でも、嫌な顔ひとつしなかった。染弥姐さんなら、もっと筋のいい客から引く手数多なのに。それに、留次郎さんも、よく仕出しで出入りしていました。ほかにも思い当たることが……」
遠い記憶を辿るように、おさよがつぶやく。
「俺の素性が村上主膳の手のものに知られれば、今でもただではすまないだろう。だから、巳之吉親分にも俺の素性は言えなかった。だが、今度の一件のように、どっちにしろ親分に迷惑をかけてしまう」
数馬さんが盗賊改に捕えられるとき、巳之吉親分はせいいっぱいの抵抗をした。下手をすれば、斬られても仕方がない状況だった。それに数馬さんが解き放ちになった帰り、水無川衆に襲われたときも、巳之吉親分は数馬さんを守ってくれた。
巳之吉親分の身に何かあってからでは遅い。これまでの恩に報いるためにも、本当のことを話すことにした、と数馬さんが言っていた。
「あの志乃という女も、七蔵殺しの下手人ということになっている勘助も、村上主膳の命で俺の命を狙っていた忍びの一族の者だ。度重なる失敗に、お役目を取り上げられたらしいがな」
「そうですかい。連中は、それを怨みに思って、一族郎党でお前さんを……」
本当はもっと込み入った事情があるのだけれど、今の数馬さんの話でも大筋が変わらない。それに、巳之吉親分はすっかり合点がいった様子だ。
数馬さんは巳之吉親分に語りかける。
「今のところは、村上主膳も俺が死んだものと思っているようだ。だが、いずれは俺が江戸に戻っていることが、村上主膳の耳に入るだろう。きっと、俺は狩られる立場に戻る。親分、そのときは俺に構うな。俺を守ろうとしてくれるな。それこそ、取り返しのつかない迷惑をかけちまう。わかったかい」
だが、巳之吉親分は優し気な笑みをうかべ、数馬さんを見る。
「ま、そうなったときは、そうなったときだ。そのときに考えまさぁ。そんなことにならねえのが、一番だが。それよりも、よくあっしに話してくだすった。ありがとうよ、若先生」
数馬さんが微笑み返す。
「無理はしないでくれよ、親分」
もう……巳之吉親分の男気に、聞いているこっちのほうが泣きそうだよ。ほんと、江戸にきてから泣いてばかりだ。
「数馬先生、親分さん」
おさよのはっきりとした声が聞こえ、私達は一声におさよの顔を見た。
さきほどまで蒼白な顔で震えていた女は、震えも止まり、しゃんと背筋を伸ばして、きりりと私達を見つめている。
「数馬先生、お前様を信じることにしますよ。染弥姐さんが、御老中の上柴様に仕えていただなんて、粋な話じゃないか。あたしの自慢の姉芸者さ。只者じゃないと思っていましたよ」
いまや、おさよは満足げな笑みを湛えていた。
「芸に生きるのが立浪の女だ。隠密のお役目も芸のうちさ。そうでしょう、数馬先生。立浪一の売れっ子が、情夫に殺されたってのはぱっとしないけれど、そうじゃないとわかって、私は胸のうちの滓が、綺麗さっぱりと無くなった心持ちですよ」
一途がゆえに数馬さんを怨み、一途がゆえに数馬さんの言葉を信じる。おさよはきっと、そういう女だ。
隠密のお役目も芸のうち、か。まあ、数馬さんの討ち入りを二度も見ている身からすれば、けだし名言だ。相手に悪事を認めさせる手並みは、私にはとうてい真似ができん。
「数馬先生、親分さん。お役人様に、偽の証言のことをすべてお話しします。それと、染弥姐さんと数馬先生が上柴様の手先だったという話は、墓場まで持っていくことにしますよ。これは、立浪の女の意地さ」
おさよの表情には、自信が満ち溢れる。
きっと、己の進むべき道を見つけたんだね。女の意地の、かけどきってやつを。




