修羅の道
数馬さんは、私の顔を見つめながら、口を開いた。
「ゆきさん。俺が盗賊改に召し取られたあと、おさよのこと、そして染弥のことを巳之吉親分から聞いたね」
ああ、そのことか。そりゃ、数馬さんだって私が何をどこまで聞いたか、気になるよね。
「うん。その染弥ってひとが、めった斬りにされて殺されたことも、そのあとに数馬さんが江戸から姿を消したことも聞いた。あとは、おさよが染弥の妹芸者で、数馬さんが染弥を殺めたと信じ込んでいることも」
数馬さんが染弥の情夫だと聞いたことは、言わなかった。というか、私の口からは言えないよ……そう思ったところで、数馬さんのほうから、
「俺と染弥が、男と女の仲だったということも、聞いたろう」
と話を振ってきた。とくん、と心の臓が跳ねる。
「うん……」
たぶん、私の返事はすごく小さかったと思う。返事に困り、目を伏せる私を見て、数馬さんはどう思っただろう。
「そうか」
数馬さんの顔をおそるおそる見上げると、少し困ったような表情で私を見ている。あ、しまった。気を遣わせちゃったかな。
「あ、うん、気にしてないから! ごめん! なんか、へんな雰囲気になっちゃったね!」
とりあえず明るく笑い飛ばしてみたけれど……数馬さんは顔をほころばせもせずに、私を見ている。ううう。余計に気まずい。弱り果てて、再び下を向き黙り込んだ私に、数馬さんは静かに告げた。
「そのときにいったい何があったのか、そして俺がなぜ江戸に戻ってきたのか。ゆきさんに話しておきたい。聞いてくれるかい」
驚いて数馬さんの顔を見ると、灰色がかった瞳がじっと私を見つめている。少し透明感のある瞳に、吸い込まれそうな心持ちだ。
居住まいをただし黙って頷いた私に、数馬さんは話し始めた。
「染弥は、俺と同じ、上柴様の配下だった女だ。立浪一の売れっ子芸者とまで呼ばれていて、大物相手の座敷に声がかかることも多くてな。そういう客から話を聞きだす腕にかけては天下一品だった――」
上柴様配下の隠密は、数馬さんをいれて十一人。そのうち三人は、荒事にはまったく関わらない染弥のような者たちだ。みな、江戸の市井の人々に紛れて暮らし、上柴様の目となり耳となって、幕閣や要職にある者たちの悪事や不正を探る。必要とあらば、その者を抹殺するのも、江戸市中隠密廻りの役目だった。
師である塚田千之助殿を追って江戸にきた数馬さんは、若年ながら剣の腕を見込まれ、上柴様の配下となった。だが、上柴様の命を受けた数馬さんが命じられたのは、見習い医者として養生所で働くことだった。探索には不向きな養生所勤めを命じられた理由は、数馬さんも知らないそうだ。
「養生所勤めの俺は、人目につかず仲間達と繋ぎをつけるのが難しい。だから、染弥を通じて仲間と繋ぎをつけていたんだ。染弥が若い医者を囲った、という筋書きでな。だが――」
ここまで淡々と話し続けていた数馬さんが、言いよどむ。
「周りを欺くためとはいえ、染弥と情を交わしていたのは本当だ」
その言葉に、ちくりと胸がいたむ。一瞬、私が唇を噛み締めたのを、数馬さんはきっと見逃さなかっただろう。
「ちょうど九年前の今頃、俺たちは村上主膳の腹心が抜け荷に絡んでいると踏み、探りをいれていた。だが、俺は隠密廻りの首領だった留次郎さんに呼び出され、俺だけがその一件から外された。仲間達が何を突き止めたかも、俺は知らない。そして、あの日……」
いつものように染弥の家に行った数馬さんは、染弥が何かに怯えていることに気がついた。だが、数馬さんがいくら問い詰めても、染弥はその理由を話そうとしない。しまいには、数馬さんに江戸から逃げろと言い出す始末だ。
「頑なな染弥の態度に、俺はついつい声を荒げちまった。俺も若かったからな。あとは売り言葉に買い言葉さ。染弥は気の強い女だったよ。染弥の家を飛び出した俺は、そのまま養生所に戻った。それが、生きている染弥を見た最後だった」
数馬さんの声が、心持ち沈む。
「俺は染弥殺しの下手人と疑われ、大番屋で取り調べを受けた。だが、三好先生が俺の身の証を立ててくれたおかげで、すぐに無罪放免さ。染弥の骸を検分した俺は、その足で留次郎さんのところに向かった。染弥殺しが、ただの私怨ではなく、俺たちの役目に絡んでの一件だろうと踏んでな」
留次郎という男の表の顔は、料亭の主だ。自分が役目から外されている間に、何が起きているのか――それを確かめるために、留次郎の店に向かった数馬さんは、仲間が何者かに襲われ応戦している現場に出くわす。
「仲間はみな、それなりの遣い手だった。だが、多勢に無勢だ。留次郎さんも、ほかの仲間も、みな深手を負っていた。加勢しようとした俺を、留次郎さんは止めたよ。そして、上柴様がすでにこの世になく、村上主膳が俺たち上柴様の隠密を狩っていることを俺は知った。そして、留次郎さんは俺に生き延びるように告げ、仲間達が自ら盾となり、活路をひらいてくれた。それからは、江戸を離れ、追手から逃れる日々さ」
数馬さんは目を閉じ、深いため息をついた。感情を押し殺してはいるが、すぐ傍にいる私には、数馬さんが内に秘めた苦悩の深さに息がつまりそうだ。
仲間が目の前で命を散らしていくのを見たとき、数馬さんはどう思ったろう。そしてこのときの、生き延びろ、という仲間の言葉が呪縛となり、数馬さんは長い年月を苦しむことになった。初めて会ったころの、死に急いでいるような危うさはすっかり影をひそめたけれど、すぐにはふっきれないよね。
目を閉じた数馬さんの手に、そっと手を添える。数馬さんは驚いたようにびくっと体を緊張させたあと、ふっと力を抜き、弱々しく笑った。
「ありがとう、ゆきさん。もう気にしてはいないつもりだったが」
ううん。無理もないよ。上手く言葉にできないから、そういう気持ちで数馬さんの手を軽く握った。頷いた数馬さんは、話を続ける。
「俺は前に、仲間はみな隠密狩りで殺された、と言った。だが、仲間が襲われたとき、その場にいなかった者が二人いる。もしかすると、留次郎さんの店に集まる前に、敵の手にかかって命を落としたのかもしれない。だが……」
数馬さんの顔に、苦悩の色がよぎる。
「留次郎さんは用心深い人だった。むざむざと敵の手にかかるとは思えん。俺は――その二人が俺たちを裏切ったのではないかと思っている。もしそうならば、俺は……俺は、裏切ったやつを許せん」
吐き捨てるような、だが、どこか悲しそうな数馬さんの言葉に、何も言えない。上柴様の隠密といえば、少数精鋭だ。諸国隠密廻りだった父・冴木源次郎も塚田千之助殿も、上柴様に惚れこみ、その配下となった。それはきっと、数馬さんたち江戸市中隠密廻りにしても同じだろう。もし、同じ志のもとに集った仲間に裏切られたのだとしたら……
「その二人が生きているのかどうか確かめるのさえ、雲をつかむような話だ。もしかすると、ほとぼりがさめるまで江戸から離れているかもしれん。だが、もし俺たちを裏切り、村上に飼われているのだとしたら、そいつはきっと、江戸に舞い戻ってくるだろう」
一理ある。熟練の隠密廻りは、村上にとっても使い勝手のいい道具となるだろう。無論、一度、仲間と主を裏切った者を村上が信頼するとも思えんが。それをさっぴいても、江戸の裏の世界を仕切るのには恰好の人材だ。
「それに、隠密狩りは、きっと仲間が追っていたヤマに関わりがあると踏んでいる。仲間が何をつかんだのか、そして俺たちを裏切った仲間がいるのか――それを確かめるために、俺は江戸に戻ってきたんだ」
「そう……なんだ……」
相槌をうつことしかできない。九年も前の出来事だ。手がかりといっても、何から当たればいいんだろう。あるかどうかもわからぬ手がかりを求めて、数馬さんは夜な夜な江戸の町を探って回っている。すべては、真実を明らかにするため、か。
これは、きっと数馬さんにとって、けじめなんだ。
「数馬さんは……役目から外されている間に、仲間が死んで、追われる身となって――それに納得がいかないから、本当のことを知りたいんだね」
数馬さんは寂しげに微笑んだ。
「そうさ。どうしても、わだかまりを抱えたまま生きていけない。馬鹿な男だろう」
「そんなこと、ない!」
思わず、強い口調で反論してしまう。
「自分の知らないところで何かが決まって、それで命を狙われるなんて嫌だもん。よく、わかるよ」
運命に抗おうとするのは、私も同じだしね。大事な人たちや私自身が死ぬはずの未来を回避するため、必死だったもん。
数馬さんに、初めて会ったときからどこか懐かしさを感じるのは、かつての自分自身と同じ空気を感じ取ったからかもしれない――ふいに、そう思った。
数馬さんの動かぬ右手をそっと両手で持って、握りしめる。
「数馬さん。話してくれて、ありがとう」
「ああ」
数馬さんは、少しほっとした様子だ。江戸に戻ってきた目的や、染弥のこと。それを、どうやって話すのかを――そしてその話を聞いた私がどう受け止めるかを、悩んでいたのだろう。
本当に、本当にありがとう。数馬さんの心の臓が止まったとき、私はこの人のことを何も知らないんだ、って思ったよ。だから、今は無性に嬉しい。
でも……
私の表情によぎったであろう翳りを、数馬さんは見逃さなかった。
「ゆきさん?」
数馬さんの怪訝な顔に、胸がちくりと痛む。
「数馬さんが、自分のことを話してくれて、とっても嬉しいよ。でも、私は――」
知らず知らずのうちに声が沈む。
「私がなぜ、なんのために江戸にいるのかを、数馬さんに話せない。私の一存じゃ話せないんだ。ごめん」
数馬さんが腹を割って話してくれたのに、その信頼に私は応えられない。村上主膳が桐生の一族を狙っていることや、一族が村上主膳に命を狙われるであろう白坂の殿様を守るために暗躍していること、そして私たちの狙いが村上主膳の失脚であることは、秘中の秘だ。
「ごめんね」
か細く呟き、うつ向いた私の左肩に、ふわりと手が置かれた。数馬さんの手だ。手首も指も動かず、触っている感覚も乏しいであろう手は、もどかしげに私の頬へと延びる。
びっくりして顔を上げると、穏やかに微笑む数馬さんの顔が目の前にあった。
「いいんだ、ゆきさん。きっと、深い理由があるんだろう。今は話さなくてもいい。だけど、事を為したら、ゆきさんの口から仔細を聞かせてくれるか」
突然、数馬さんの両の腕が私の背にまわり、ぐい、と引き寄せられる。
「わっ!」
顔を数馬さんの胸にくっつける体勢になり、咄嗟に離れようとしたけれど、頭の後ろに数馬さんの手が添えられていることに気がつき、私は動きを止めた。
「かず……ま……さん?」
数馬さんの鼓動が少し速い。だが、その声音はいつになく真剣で……そして優しかった。
「ゆきさん、今は何も聞かん。だが、ゆきさん達が危ない橋を渡ろうとしていることは、わかる。だから――」
そのまま抱き寄せられ、頬へ伝わる温もりに戸惑う。
「死ぬな。生きろ。何があっても、生き延びろ」
その言葉を聞き、私の双眸にたちまち涙が溢れる。
さすがに、鈍い私でもわかる。数馬さんは、私のことを好いてくれているんだ。
私も数馬さんも、踏み越えた屍は数知れず――いつ斃される立場になるかもわからない、修羅の道だ。ずっと死と隣り合わせだった数馬さんだからこそ、生き続けることの難しさを知っている。
そして互いに、為さねばならぬと己に誓った道がある。己の存在が相手の軛とならぬよう、甘い言葉はかけない。ただ共に剣を振るい、見守る――そういう数馬さんの覚悟と想いの強さを知り、身の内に熱い想いが満ちる。
「わかった。絶対に死なない。だから、数馬さんも死ぬな」
数馬さんの背に手をまわし、しっかりと抱きしめる。鼓動がやけに大きく聞こえるのは、数馬さんの心の臓か――それとも私自身のか。
本当に、しょうがないな。数馬さんも、私も。
こういう言葉でしか、想いを伝えられない。
でも今はこれでいい。生きて、生きて、生き抜いてやるさ。




