閑話 とんだ唐変木
時は少し遡る。
ゆきが荒木に養生所の守りを任せて往診に出かけたのは、正午をまわった頃だった。
「数馬さん、すぐに帰ってくるからね」
と言いながらも、ゆきが不安げに数馬を振り返る。弥助が作った椅子に座っている数馬は、木枠を使って立つ訓練をしているところだ。
「大丈夫さ。頼むよ、ゆきさん」
数馬が笑いかけると、ゆきは口を真一文字に引き結んで頷き、薬箱を手に走り出していった。
その後ろ姿を見送りながら、これが今生の別れになるかもしれない、と数馬は思う。
(今の俺の身体では、志乃や、村上主膳の手の者に襲われればひとたまりもない。ゆきさんも、それを心配しているのだろう)
だが、養生所まで来ることのできない重病人を、放ってはおけまい。ゆきが荒木に助力を請うたのは、苦肉の策だ。養生所を出ていくときの、ゆきの物言いたげな表情を思い浮かべる。
(ゆきさんは、いったい何を言いたかったんだろう。俺がこのまま命を落とせば、俺がそれを聞くこともない。ゆきさんは、そのときいったい、どう思うだろう)
そして、数馬は己の胸を締めつけるような想いに気がつく。
盗賊改に捕えられ、いつ終わるともわからぬ苛烈な責め苦を受けている間、己の胸のうちをよぎっていた想い。
それは、江戸に戻ってきた目的を果たさねばならぬ、と己に課した誓いだけではない。
(俺が死ねば、ゆきさんが悲しむ。俺は……ゆきさんを泣かせたくはなかった。そして、この手で剣を持てなくなれば、ゆきさんの隣に立てぬ、と思った)
己がなぜ、そう思うのか。数馬にはわかっている。
(俺は、ゆきさんと共に生きたいと思っている。だが、ゆきさんは弥助さんたちと為さねばならぬことのために、江戸にいる。俺とて、己の誓いのために、この江戸にいるだけだ。俺とゆきさんの進む道は、共に剣をとることで交わっているに過ぎない)
ゆきの傍にいるとき、数馬は心が安らぐ。なぜかはわからないが。そして、ゆきの強さと優しさに惹かれる。
幼いころから人を斬り続けた修羅の道であっただろうに、なぜ、この少女はこんなにも優しいのか。
考えるまでもない。弥助や周りの大人たちから注がれた情が、ゆきをまっすぐに育んだのだ。数馬には、それがまぶしくて仕方がない。
だが、ゆきの傍で剣を振るう以上のことを、数馬は求めてはいない。九年にも及ぶ逃避行で、人を信じられなくなった己が、ゆきにだけは気を許せる。それだけで数馬は満ちたりた気持ちだ。むしろ、それ以上を望んだところで、己には手に入るまい、と、はなから諦めているのだ。
いつか、ゆきと別れるときが来たとしても、生きていればまた会える。だが、死んでしまえば、それっきりだ。
(俺は生き延びる。そのために、剣を持つ。だから、いま俺ができることをしよう)
数馬は木枠に腕をかけ、一気に立ち上がる。そのまま、用心深く足踏みをする。手の指と同じように、足にもかすかに痺れが出てきている。だが、まだ己の足があるのかどうかすら、よくわからぬ始末だ。当然、床を踏みしめる感触もない。まるで、宙に浮いているような不思議な気分だ。だが、ゆきが言うには、こうすることで治りが早くなるらしい。
数馬の剣は、師であり命の恩人でもある塚田千之助譲りの剛剣だ。力強く地を踏みしめ、鍛え上げた体から放つ一撃で、相手を一刀両断する。どこまで自分の手と足が戻るのか、元のように剣を振るえるのか。今の己の身体からすれば、夢のまた夢、だ。
(だが、俺は諦めん。あがいて、あがき続けてやる)
そう己に言い聞かせ、数馬は一心不乱に鍛錬を続ける。半刻を過ぎる頃には、噴き出る汗が顎から滴り落ち、脚は泥沼に踏み入れたように重くなる。
そのとき――
何者かが戸口に近づく気配に気がついた数馬は、動きを止めた。
「ごめんくだせえ」
戸をがらりと開けたのは、巳之吉だ。巳之吉は、診療室の中を見回し、数馬に声をかけた。
「若先生、おゆき先生は留守ですかい」
「ああ、そうだよ。どうしたんだい、親分」
額の汗をぬぐう数馬の、頭のてっぺんから足の先までを、巳之吉はしげしげと眺めた。
「あの大怪我が、もう治っちまったんで?」
数馬はにっこりと笑った。
「ああ。ゆきさんの手当のお陰さ。それはそうと、何か用でも?」
巳之吉は気を取り直したように、数馬に告げた。
「若先生、おゆき先生がいねえ間に、折り入って話がある。まあ、そんなとこで立ちんぼもなんだ。さ、座りねえ」
数馬は木枠に腕をかけながら、椅子に腰かけた。木枠を横にどけた巳之吉は、数馬の前に座り込み、あぐらをかく。
「何はともあれ、お前さんが無事で何よりだ。話ってのはな、おゆき先生のことよ」
ゆきの名を聞いた数馬の頬が、ぴくりと動いたことに、巳之吉はきっと気がついだだろう。
「お前さんが召し取られたあと、おゆき先生にいろいろと訊かれてな。おさよと、染弥のことを話したぜ。あっしの知っているかぎりのことを、な。それに、お前さんが染弥の情夫だったってぇことも、染弥が殺されたことも、だ」
「そうか……」
数馬の胸に、苦い想いが広がる。偽の証言をしたおさよや、おさよが自分を恨む原因となった染弥について、ゆきが巳之吉に訊ねるのは当然だろう。
(だが……ゆきさんには、知られたくなかった。仕方のないことだが)
ゆきは聡いとはいえ、まだ十五の少女だ。耳年増な色街の女ならともかく、色事に関しては見るからに初心だ。そして、女の身ながら根っからの武辺者だ。そんなゆきが、男と女の仲の話などを知ったら、なんと思うか――そう考えてしまう数馬も、初心といえば初心だ。
数馬は思わず、目を伏せる。
「それでな、お前さん、目を覚ましてからその辺のことを、おゆき先生に話しなすったかい」
「いや。訊かれてもいないし、話してもいない」
巳之吉は軽く頷き、深いため息をついた。
「そんなところだと思いやしたぜ。あっしが染弥のことを話したときの、おゆき先生の切なそうな顔ときたら。こっちまで胸がぎゅーっと苦しくなりやしたぜ」
(ゆきさんが?)
染弥との過去を知られたら、ゆきはきっと眉をひそめるだろう――そう思っていた数馬は、呆気にとられる。
その数馬の様子をちらりと見ながら、巳之吉は畳みかけるように告げる。
「いくら凄腕の剣術遣いといっても、年頃の娘だ。おゆき先生にはきっと、きつい話だったでござんしょう。気丈なお人だから、けしてお前さんには気取られぬようにするでしょうがね」
ゆきが自分のことを、どう思っているのだろう――と思うこともある。妙に心配してくれるし、出会った頃に比べれば随分と気安く話せるようになった。弥助によると、数馬のことを守りたいから傍にいたい、と言っていたとか、なんとか。
(だが、ゆきさんが俺のことを気に懸けてくれるのは、ゆきさんが優しいからだ。弥助さんや、周りの大人たちから慈しまれたように、俺に情けをかけてくれているのだと思っていたが……違うのか?)
数馬は、心のうちを人に気取られぬことには長けている。だが、その数馬が動揺を隠せず、視線が落ち着きなく彷徨う。
その様子をみた巳之吉は、またひとつ大きなため息をついた。
「やれやれ、お前さんときたら、とんだ唐変木だ。いいですかい、おゆき先生は正真正銘、お前さんに惚れなすってるぜ。まさか知らなかったなんてこたぁ、言いなさんなよ」
「いや……それは……」
大の男が額に汗を浮かべて、しどろもどろになるのだ。数馬の戸惑いを推して知るべし、である。
「惚れた男が売れっ子芸者の情夫だったなんてぇことを聞いちゃあ、初心なおゆき先生からすりゃあ、内心穏やかじゃねえ。だが、まずはお前さんを助けにゃ、と、獅子奮迅の働きだ。え? 健気な話じゃねえか。歳は若ぇが、あんないい女はいねえ。そうでしょう、若先生」
「そ、それは……そうだが」
巳之吉は、容赦なく追い討ちをかける。
「それに若先生だって、おゆき先生のことを好いている。違いますかい」
「そ、それは……」
だんだんと声が小さくなっていく、数馬であった。
畳みかけるようにまくしたてた巳之吉が、ふと表情を和らげる。
「ま、いまの慌てふためきっぷりを見りゃ、お前さん、初めて会った十年前とまったく変わっちゃいねえ。まったく、ずいぶんといい男になりなすったと思えば、色恋沙汰に関しちゃ、初心なままってことですかい」
図星である。しょんぼりとうつむく数馬は、巳之吉の目に、きっとひと回り小さく見えただろう。
そもそも、隠密廻りの仲間だった染弥と、男と女の仲になったのだって、仲間内の首領格だった留次郎という男の策だ。留次郎は、田舎者の数馬が悪い女にひっかかって役目をおろそかにしないように、と気をまわして、染弥に数馬を押しつけたのだ。睦事の手管は染弥から仕込まれたが、この乾数馬という男、色恋沙汰に関しては初心なままである。なにしろ江戸を離れてからこのかた、他人に気を許すことがなかったのだ。
「お前さんが俺に話したくねえことがあるのは、仕方がねえ。人ってえのは、裏もあれば表もある。だがな、惚れた相手が何も言わずにおっ死んじまうんじゃないかって目にあった、おゆき先生の胸のうちも考えてみねえ」
(ゆきさんが? 俺を?)
まだその段階で考えの止まっている数馬は、だんだんと口の中が乾いてくる。何かを話そうとしても、喉の奥が張りついたように、声も出てこない。
その数馬の背を、巳之吉はぽんぽんと軽く二回叩き、優し気な声音で言った。
「言いたくねえことは、俺にゃ言わなくてもいい。だが、せっかく命拾いしたんだ。おゆき先生には、若先生の口から、ちゃんと話してあげなせえ。お前さんがどう思ってるかも、話しておかなきゃなんねえ他のことも、だ」
(俺が話さねばならぬこと、か)
巳之吉が帰っていったあとも、数馬は座ったまま、身じろぎもせずに考え続けた。




