返す言葉もありません
私がぽろぽろ泣いているのを見た数馬さんは、
「やれやれ、弥助さんに怒られちまう」
と言うけれど、あんまり困った風じゃない。
「もう……ほんとだよっ!」
泣いてるんだか、笑ってるんだか、自分でもわからないや。私の言葉に、数馬さんは軽く微笑み――顔をしかめた。見ると、右の肩と二の腕の筋肉がぴくっと動いているのが、包帯越しにわかる。腕を動かそうとしているんだろう。だが肘から先は、まったく動かない。神経と筋が、すっかりやられてしまっているからだ。
「ゆきさん、俺の手と足は、ちゃんとついているかい? 」
そう訊ねる数馬さんの表情には、戸惑いの色はない。それなりの時間を一緒に過ごしてきたから、私にはわかる。この人は――手足を失うことを、もう覚悟している。
「うん、どっちもあるよ。でも……」
覚悟を決めている男に、いまさら何も言えよう。数馬さんは今の私の言葉で、私が言わんとするところを察したのだろう。
「そうか……そんな顔するな、ゆきさん。手足があるかどうかもわからんが、おかげで痛みを感じずにすむ」
そう言って静かに微笑むと、数馬さんは目を閉じ、穏やかな寝息を立て始めた。よほど眠りが深いのか、その後も水を飲ませたり額を濡れた手ぬぐいで冷やしたりしたけれど、数馬さんは昏々と眠り続けた。床ずれにならぬよう、体を軽く横に傾けても、まったく目覚める気配がない。心配になるほどだ。
明六つの鐘がなってすぐに、巳之吉親分や荒木殿、それに鵜木様までが、様子を見に来てくれた。
「まだ安心はできませんが、山は超えたと思います」
と答えると、みなほっと胸をなでおろした様子だった。鵜木様いわく、七蔵殺しの下手人である勘助は、さっそく瑞江町の牢屋敷に移され、ちかぢか沙汰が決まる。かたや、おさよの様子は、というと、偽証をしたことは明白であり、やはり御咎めなしという訳にはいかないそうだ。
「だが、おさよは頑として口を割らぬのだ。さすがに、まったくのだんまりでは、奉行所としても沙汰を下せぬ。かといって、責め問をするほどのことでもなく、扱いに困っておる」
そう言い残して、鵜木様は帰っていった。
それから間もなく、数馬さんが目を覚ました。
「う……ん……」
気だるげな声に、数馬さんが起きたこと気づき、枕元に駆け寄る。
「おはよう、数馬さん。体の具合はどう?」
包帯の隙間から、数馬さんの脈をとる。浅かった脈も、すっかり普段どおりだ。驚いたな、こりゃ。
「ずいぶんと良く寝たから、すっかりいい調子さ。ありがとう、ゆきさん」
ちょっと掠れた声になっている以外は、至って元気そうだ。顔の腫れも、ゆうべからさらに改善している。数馬さんは、もぞもぞと体をよじった。膝から下がろくに動かないから、寝返りも打てないんだ。
「ちょっと待ってね。体を起こす前に、手足の傷を洗おう」
昨晩は、包帯と晒を変えても変えても、傷からの染みだしが多くて大変だったよ。でも、今はなんだか、やたら水気が少ないぞ。
傷を覆っている晒を剥がし、私は自分の目を疑った。夕べ、あれだけ腫れあがっていた腕と脛が、しゅっと細くなっている。筋の腫れを逃がすため、皮膚と筋膜を切り開いた傷も、ほとんど閉じかけている。
いやいや、これ、治りすぎだろ。おかしい。どう考えても、おかしい。ここまでよくなるには、五日間くらいかかるはずだ。
私があまりにも、ぽかーんと呆けていたせいか、数馬さんが怪訝な顔で問う。
「ゆきさん、どうした」
「え……、う、うん。数馬さんて、やたら傷が治りやすかったりする?」
と聞きながら、あることに気がつく。ええと、このまえ背中がざっくり斬られたときって、そんなにびっくりするほど治りが早かったわけじゃなかったよな。
案の定、
「まあ人一倍、頑丈な体質だが。ゆきさんが、そんなに驚くほど治っているのかい?」
と、呑気な答えが返ってきた。そ、そうだよねっ。
傷を水でよく洗い、清潔な晒と包帯で覆う。あまりの回復ぶりに動揺して、手が震えそうだ。いやはや、どういう超常現象だよ、これ。この調子だと、明日には傷が完全にふさがっちゃうぞ。
ひょっとして、あれかい。テレビ時代劇の主人公が、わざと敵に捕まってボコボコにされたあと、ラス殺陣では傷一つ無いという、謎の超回復と同じ現象ですかい。
あ、いかん、いかん。思わずテレビ時代劇ファンの妄想が全開になっちまったよ。
気を取り直して、冷静に考えよう。数馬さんは、新八さんが仕えていた塚田殿の弟子だ。もしかすると新八さんが何か術を施したのかもしれん。
でも……傷の治りを早くする秘術なんて、聞いたことないよ。それに、心肺停止から蘇生するのだって、守護の秘術と同じくらい術者に負担がかかりそうだ。むむむ。考えれば考えるほど、よくわからぬ。
「ゆきさん?」
ありゃ。考え事をしすぎたせいで、数馬さんが置いてけぼりだよ。
「あっ、ご、ごめん!」
慌てて、四肢の包帯を綺麗に巻き直す。
「そんなに上の空だなんて、久しぶりに見るな」
と笑う数馬さんの背中を支えて体を起こす。座った姿勢のほうが、背中の傷も手当しやすいからね。胸と背中を綺麗に洗って、晒と包帯とで元通りに覆うと、数馬さんが静かな声で尋ねてきた。
「どんな具合だい?」
「正直、治りが早くてびっくりしてる。傷は綺麗に治りそうだよ。でも、かなり痛めつけられているから、どれだけ動くようになるかはわからない」
正直に答える。なにしろ、運動神経も感覚神経もやられているんだ。この治り具合なら、ある程度は神経の障害も治るかもしれない。だが、治るにしても数か月単位の時間が必要だ。それに、自力で動かさなければ、関節がどんどん固くなってしまう。つきっきりでのリハビリが必要だ。
「そうか」
やはり私の答えを予想していたのだろう。数馬さんの顔には、驚きも悲しみもない。そして、静かに、言い聞かせるように、私に語りかけた。
「なあ、ゆきさん。俺のこの体では、ゆきさんの足手まといになってしまう。ゆきさんは、この江戸で、弥助さん達とやらなければならないことがあるんだろう。だから、俺のことは放って……」
怒りか、衝撃か――あっという間に、頭に血がのぼる。
「そんな……そんなこと、できるわけないじゃないか!」
数馬さんの両の二の腕を掴み、全力で抗議する。
「数馬さんを放っておくことなんて、できやしないよ!」
そのとき、診療室の戸がガラリと開いた。
戸口から現れたのは、弥助さんだ。うぐぐ。弥助さんてば、わざと気配を消して入ってきたな。
弥助さんは私達をじろりと見て、言い放った。
「なんでえ、痴話喧嘩かい」
「ち、ちがうよっ」
たちまち耳の先まで、かあっと熱くなる。また、弥助さんにからかわれちゃったよ。
にやりと笑った弥助さんは、私の隣に片膝を立ててどかりと座り、数馬さんを頭のてっぺんから足の先まで眺めまわした。
「数馬さん、思ったより元気そうだな」
数馬さんは神妙な顔をして、弥助さんに頭を下げる。
「弥助さんがくれた薬のお陰です。あれがなければ、耐え切れなかったでしょう」
軽く頷きながら、弥助さんは数馬さんの肩に手を置いた。
「なあに、いいってことよ。それよりも、よく盗賊改の責め問を凌ぎなすった。てえしたもんだぜ。しっかりと養生するがいい。それと……」
弥助さんは私を一瞥してから、ため息をつく。
「数馬さん。おゆき坊を泣かせたら、ただじゃおかねえと言ったはずだがな」
慌てて、目をごしごしとこする。いや、泣くまでいってないぞ。ちょいと涙がにじんでいるだけだぞ。
数馬さんは目を伏せた。
「返す言葉もありません」
その顔をじっと見つめ、弥助さんは言い聞かせるような口調で語りかける。
「なあ、数馬さん。すまねえが、おゆき坊との話をちょいと聞かせてもらったぜ。なにしろこの大怪我だ、お前さんの気持ちはよくわかる。それに、お前さんが、おゆき坊のことを大事に思っていることもな」
数馬さんは顔をあげ、黙って弥助さんの顔を見つめ返す。
「おゆき坊は、とんでもなく情が深ぇし、一途な子さ。お前さんが四の五の言ったところで、聞かねえよ。なあに、歳はまだ十五だが、頭はまわるし肝も据わっている。お前さんにのぼせあがって、下手をうつような真似はしねえから、安心しな。ま、こいつの好きにさせておくんだな」
ううう。のぼせあがって、のところに、なんだか引っかかるが……援護射撃に感謝だぜ。
数馬さんは弥助さんの言葉に黙り込んだ。
「数馬さん、お前さんも男の意地ってぇのがあろうが、今は黙っておゆき坊の手当を受けておけ。放っておいたら、治るもんも治らなくなっちまうからな。落ち着いてから、これからのことを二人でしっかりと、話し合うがいいさ」
とりあえず、数馬さんは納得した様子だった。
「わかりました。ゆきさん、よろしく頼むよ」
数馬さんの微笑みが、どことなく力なく見えて、胸がずきんと痛む。でも、あの回復具合からすると、もしかして――そう期待する気持ちも芽生えてきている。
「わかったところで、ちょいと、おゆき坊を借りるぜ」
そう言いながら立ち上がった弥助さんのあとを追い、診療室を出る。建屋の戸口の前で、弥助さんは尋ねる。
「数馬の野郎、存外に元気そうじゃねえか。で、本当のところ、どんな具合だ」
少し離れれば聞き取れなくなる、忍び特有の話術だ。数馬さんに聞かれる心配はない。
「うん。ほんと、びっくりするくらいの治りだよ。でも、変なんだ。昨夜、数馬さんの心の臓は確かに止まったんだ」
そのときの様子を弥助さんに話す。そして、傷の治りがとんでもなく早いことも。一通り説明し終えたころには、弥助さんも思案顔だ。
「そいつは、確かに妙な話だ。話だけきくと、確かになにかの術がかかっているかもしれねえ。だが俺も、そんな秘術は聞いたことがねえ。知らねえだけってことは、あるだろうがな。だが、数馬が塚田様に助けられたのは、二十年以上も前の話だろう。新八が秘術を施したにしても、そのころの新八の腕前は、そこまで練れちゃいねえ筈だ」
数馬さんの体には、何か秘密がある。本人が知っているかどうかはわからないけれど。
その秘密が、気になってしょうがない。別に、興味本位じゃない。
たぶん、私は怖いんだ。前世の私自身が、先生の秘術のおかげで十年もの間、生き永らえたように――数馬さんに、何かの術がかかっていたとしたら。そして、ある日突然、その術の効きめが切れたとしたら。
それを想像するだけで、胸が押しつぶされそうだ。これまでも、無茶ばっかりする数馬さんに、ハラハラしっぱなしだった。いつか、この人が死んでしまうんじゃないか、と思うだけで、心がざわめいたよ。でも……昨夜、数馬さんの心の臓が止まったときの慟哭を、今も鮮烈に思い出す。
人はいつかは死ぬけれど、死んだり生き返ったりってのは、何かの力が働いているようで、落ち着かない。それが怖い。怖いのは、正体がわからないからだ。それに、前触れもなく寿命が来るってのは勘弁願いたいよ。死ぬほうも、残されるほうも、心の準備ってのが必要だもん。手がかりは新八さんだけかあ。
「うん。いずれ新八さんとも会えるだろうから、そのときに聞いてみるとするよ。弥助さん、ありがとう」
まあ、考えても仕方がない。いま考えても、わからんものは、わからんよ。私にできることは、数馬さんの身を守ることと、手当てをすることだけだよね。
弥助さんが帰ったあと、数馬さんと朝餉にする。両手を使えない数馬さんに、一匙ずつ粥を食べさせる。
「やっぱり、ゆきさんの作る飯は旨いなあ」
と言いながら、粥をすする数馬さんの笑みが、やっぱりどこか無理をしているように見える。この人に、どうやって、何を話せばいいんだろう。私は、数馬さんが生きていてくれて嬉しい。でも、数馬さんは、本当はどうしたいんだろう。訊こう、訊こうと思っても、なかなか切り出せない。
朝餉が終わり洗い物をしに行こうと腰を上げたところで、数馬さんに呼びとめられた。
「ゆきさん、話がある」
「ん? なに?」
布団に横たわる数馬さんの前に、腰をおろす。
「ゆきさん、俺のこの手も足も、元通りにはならない。そうだね」
数馬さんの顔も声も、とっても穏やかで――だからこそ、聞いているこっちもつらい。
「うん、確かなことは言えないけれども。いまは、数馬さんが自分でもわかるとおり、動かそうと思っても動かないし、触ってもわからない状態だ。でも、諦めずに日々の手当と修練を重ねれば、もしかすると、ある程度は動かせるようになるかもしれない」
今は、筋肉に指令を出す神経も、感覚を受け取る神経も、まるっきり機能していない。だが、何日か……あるいは何か月かかけて、少しでも神経がよみがえる兆しがあれば、回復を見込める。
医者としては、患者にやたらと期待を持たせることは避けなければならない。やってみて駄目だった場合には、患者を絶望の淵に叩き込んでしまう。それに、猛烈な勢いで回復している理由がわからないし、今後も同じように回復し続けるとは限らない。
でも――
数馬さんには、隠し事をやめよう。
「理由はわからないけれども、数馬さんの傷の治りが信じられないくらい早いんだ。このまま腐り落ちると思っていた肉が、さっき手当をしたときには、元に戻りかけていたよ。だから、数馬さんの手と足は、私の見込みよりも、よくなるかもしれない」
この人は、地獄の責め苦を耐えしのいで、戻ってきてくれた。私との約束を、守ってくれた。だから、私が抱いている回復への期待を、隠さずに伝えよう。つらく長い治療を、共に歩んで行くために。
「でも、その手と足とを元の具合に近づけるためには、つらい修練と治療を根気よく続けなくちゃならない。いいね」
数馬さんは、力強く頷く。
「わかった。ゆきさん、俺はどんな治療でも耐え抜いてみせる。やってくれ」
数馬さんが、晒でぐるぐる巻きの左手をもたげた。その手を、両手でそっと握りしめる。
「数馬さん、やろう。一緒に頑張ろう」
朗らかな笑みが、数馬さんの顔に戻る。
この笑顔を最後に見たのは、いつだったろう。いろいろありすぎて、大昔のような気がするよ。
ありゃ、また視界が涙で滲んできちゃったよ。嬉しくても悲しくても涙が出るなんて、人間の身体ってホント、水気がたっぷりだよ。
その日のうちから、数馬さんのリハビリを始めた。
まずは、関節が固くならないように、しっかりと肘や膝から先の関節を曲げ伸ばしして、ほぐすんだ。数馬さんの場合、神経と筋が駄目になっていて、自力で手首・足首や指を動かせない。放っておくと関節が固まってしまう。いったん関節がカチンコチンに固まってしまうと、このあと神経の機能が戻ったとしても、関節を動かせなくなっちゃうからね。
数馬さんの手は、すでに五本の指が曲がった状態でかたまりかけている。指を一本一本、はがすように伸ばす。
「不思議なもんだな。触られている感じがまったくないよ」
と、数馬さんは為されるがままだ。四半刻くらい、念入りに関節をほぐす。
あとは、昼過ぎに様子を見に来てくれた弥助さんに、リハビリ用の道具を作ってもらったよ。椅子と、手すりみたいな形の木枠さ。床から直接立ち上がるのは無理だけど、椅子に腰かけた姿勢からなら、木枠に腕をかけて体を支えることで、自力で立つ訓練ができる。
椅子と木枠ができたところで、数馬さんの体を起こして、椅子に座らせる。だが、足の感覚も踏ん張る力もないから、助けなしでは立ち上がることすらできない。
「やれやれ、自分がこんなに動けないとはな」
と苦笑いする数馬さんの胴体を、お腹側から抱きかかえる。
「数馬さん、腕を私の肩に回して」
ちょうど、対面で抱き着いているような恰好だ。この状態が、一番力を入れやすいんだよね。ここから、おりゃあ! と気合をいれて立ち上がり、数馬さんを立たせる。案の定、足の感覚がない数馬さんは、バランスを取れずグラグラと体が揺れる。私が支えていないと、あっという間に倒れてしまうだろう。その状態から慎重に誘導し、数馬さんを椅子に座らせた。
ふう。なんとかなったぜ。やっぱり数馬さんって筋肉がついているから、体つきの割に、体重が重いよなあ。一息ついて数馬さんの顔をみると、なにやらうつ向いて、痛みを堪えている様子だ。はて……あっ、やっちまった!
「ご、ごめん! あばらが折れていたっけ。忘れてたよ!」
こともあろうに、折れた肋骨を全力でハグしちまった。骨折した端が肺にでもささったら、一大事だ。慌てて調べたけれど、まあ大丈夫そうだ。うぐぐ、面目ない。私の焦りっぷりをみて、数馬さんには
「そんなに慌てなくても大丈夫さ」
と笑われちゃったよ。
座っている数馬さんの前に、木枠を置く。腰を支えながら数馬さんを立たせて、木枠の横木に腕をのせ、体を支える練習から始めてもらう。おお、ちょいとグラグラ揺れているけれど、なんとか立てたな。横木に体を預ければ、なんとか足踏みらしき動作もできているぞ。
「足も手も、自分の体じゃないような感じだが、なんとかなるもんだな」
と、数馬さんも俄然やる気だ。
翌日。傷の手当をするため、数馬さんを布団の上に座らせる。はらり、と晒を剥がした私は、またまた仰天した。
胸や腹のえぐれた肉は盛り上がり、うっすらと皮ができ始めている。腕や脚は、というと、筋肉の腫れを逃がすために縦に裂いた傷はすべて塞がり、朱を引いた線のような傷口が残るのみだ。そして、血の巡りがとだえ、真っ黒に変色していた手や足も、肌色に戻りかけている。
なんだこりゃ、いくらなんでも治りすぎだろ。こんな……こんなことがあるのか?
手当をすることも忘れ、口をぽかんと開けて茫然とする私に、数馬さんが不思議そうに話しかける。
「どうしたんだい、ゆきさん。ぽかーんとして」
さすがに、これは捨て置けん。数馬さん自身に問わねばなるまい。ごくり、と唾を飲みこむ。
「えっとね、数馬さん。昨日も思ったんだけど、体中の傷が、とんでもないはやさで治っているんだ。ほんと、人間業とも思えないよ。なにか、心当たりはないかい。あと、今までに同じようなことはあった?」
いやはや、びっくりしすぎちゃって、声も手も震えているよ。まいったな、こりゃ。
「俺はてっきり、弥助さんの薬とゆきさんの手当がよく効いているものだと思っていたが。違うのかい?」
動揺する私を見て、さすがに只事ではないと察したのだろう。数馬さんは真剣な表情で考え込む。
「心当たりはないが……同じようなことは、これまでに二回あったよ。一度目は、九年前だ。俺が江戸から逃れるとき、追手に囲まれた俺は、体中に深手を負った。血を失いすぎた俺は、このまま死ぬのだと覚悟し、そのまま気を失った。だが、目を覚ましたときには敵の姿はなく、斬られた傷もすっかり塞がっていたよ。あのとき俺の身に何が起きたのか、今でもわからん」
記憶を辿るように、数馬さんは虚空を見つめる。
「そして二回目は、水無川衆の手にかかったときだ。追い詰められ、毒の矢を太腿にくらったとき、心の臓が握りつぶされるような感じがして、息が吸えなくなった。目の前が暗くなり、俺はそのまま気を失った。だが、気がつくと敵はすべて骸となっており、腿の矢傷も癒えかけていた」
水無川衆の使う毒は、神経毒だ。心の臓を止め、呼吸するための筋肉を麻痺させて、速やかに死に至らしめる。数馬さんは、一度心肺停止になってから、自力で蘇生したに違いない。
「つまり、数馬さんが死にかけたときに、治りがやたら早くなるってことだね」
「そういうことになるな。俺にもさっぱりわからん」
私と一緒に首を捻っていた数馬さんは、ふと何かに気が付いたかのように、自分の両手をじっと見つめ始めた。
「どうしたの、数馬さん」
数馬さんは顔をあげる。
「ゆきさん、ほんの少しだけど、指先がぴりぴり痺れているような感じがするぞ」
なんてこった。感覚神経が、回復してきているんだ。体の回復の具合からみて、もしかしてと思ったけれど……それにしても、予想以上にはやい。正常な状態に戻るかはどうかは、まだわからないけれど、これならば手足を動かす神経も、戻ってくる見込みがある。
「数馬さん、よかった……よかったよ……」
思わず涙ぐむ私の顔を、数馬さんが覗き込む。
「なんだ。まだまだ、これからだろう? ゆきさん」
「うん、そうだね……」
拳でごしごしと目をこする。晴れやかな笑顔が、視界に映る。
「とことん、俺の治療につきあってもらうぞ。いいね」
「望むところさ。数馬さんが嫌だって言っても、厳しくいくからね」
笑顔を交わしながら、思う。まだ、どうなるかわからないけれど、かすかな希望がどんどん大きくなるよ。とことん、付き合おうじゃないか。
その日の午後は、巳之吉親分の言伝で荒木殿が来てくれた。いつ、志乃が数馬さんの命を狙ってくるかもわからない。今の数馬さん相手なら、子供でも簡単にとどめを刺せてしまう。一人にはできないから、往診に行く間、荒木殿に見張りを頼んだんだ。
秋月先生に頼もうかとも思ったけれど、荒木殿ならこの一件、最初から関わっているから説明も不要だ。相変わらず得体のしれない人だけど、とりあえず敵ではなさそうだし、ね。
本当は、数馬さんを一人残していきたくない。次に会うときには、物言わぬ骸となっているのではないか……と、不安ばかりが募る。
「数馬さん、すぐに帰ってくるからね」
そう声をかけたときの数馬さんは、いつもと変わらぬ様子だ。数馬さんとて、不安がない筈がない。ただ、心のうちを隠すことに長けているのだ。
患者の家を四人ほど駆け足でまわってから、大急ぎで養生所に戻る。
「おお、ゆき殿。早いな。何事もなかったぞ」
門の前でにやりと笑う荒木殿が、やたら頼もしく見えるよ。いやはや、人の印象って、こっちの気分で変わるもんだねえ。
「荒木殿のおかげで、安心して往診に行けました。かたじけのうございます」
と丁寧に礼を述べると、荒木殿は、
「なんのなんの。ゆき殿のためなら、たとえ火の中、水の中でも馳せ参じるゆえ、なんでも頼まれよ」
と言いながら、意気揚々と帰っていった。ううむ。最後の軽口でやっぱりげんなりするぞ。一言、余計なんだよな。
診療室に入ると、数馬さんは穏やかな寝息をたてて眠っている。
その傍らに行き、寝顔を覗き込む。うんうん、よく寝ているよ。傷の治りがいいとはいえ、かなり衰弱している。それに、筋肉が壊れているから、ちょっと動くだけですごく力を使わなきゃいけない。そのぶん、とても疲れやすいんだよね。気を許しているわけでもない荒木殿しかいないのに、数馬さんが、こんなに熟睡するなんて。よっぽど体に負担がかかっているんだろう。
そう思いながら数馬さんの顔を眺めていると、いきなりぱっちりと目が開いた。
「わわっ!」
おもわず、一間ほど飛び退る。数馬さんは腕でごしごしと目をこすり、私のほうを向いた。
「ああ、ゆきさんか。今、帰ったのかい?」
「う、うん、ちょうど、荒木殿に帰ってもらったところだよっ! 数馬さん、起こしちゃってごめんね」
「ああ、構やしないよ。俺もちょうど、寝たところさ。少しでも力を蓄えなきゃいけないからな」
傍で寝顔を見ていたのがばれると、ちょいと恥ずかしいけど、気づかれていない……かな。ふう。
内心、とっても焦っている私をよそに、数馬さんは自力で体を起こし、布団の上にあぐらをかいた。こうやって動けるのも、肘と膝が、しっかりと曲がるようになってきたおかげだ。
「ゆきさん、話さねばならないことがある」
数馬さんの顔から、いつもの朗らかな笑みが消えていた。愁いを帯びた眼差しが、私を捉える。
その眼差しに吸い寄せられるように、私は数馬さんの傍らに腰をおろした。




