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現 ~うつつ~

 真夜九つの鐘が鳴った。診療室の壁にもたれかかり、膝を抱えて寝ていた私は、ぱっと目を覚ます。


 目の前で寝ている数馬さんは、ときどき苦悶の表情を浮かべる。痛みを感じているのか、それとも悪い夢にうなされているのかは、わからない。


 急須一杯分の水を数馬さんに飲ませて、体から染み出る水気で汚れた晒と包帯とを交換し、再び眠りにつく。次に起きるのは半刻後だ。忍びの里で育った私は、だいたい狙った時刻に目を覚ますことができる。


 膝を抱えて、壁にもたれかかった瞬間に、すとんと意識が落ちるのがわかる。寝つきはいいんだよね。


 しばらくの(のち)、がたっという音が聞こえて、眠りから引き戻される。もしかして数馬さんが目を覚ましたのかなと思い、起き上がろうとしたけれど、私の体はぴくりとも動かない。


 あ、しまった。中途半端なときに目が覚めちゃったから、金縛り状態だよ。ええと、数馬さんの様子はどうかな、っと。


 数馬さんの横顔に視線を移し、たちまち血の気が引く。


 大きく顎を動かし、喘ぐような呼吸だ。死戦期呼吸、つまり心肺停止に陥ったときに見られる動きだ。恐れていたことが起きてしまった。原因は、血液中のイオンバランスが崩れたことによる致死的不整脈か、肺塞栓症――すなわちエコノミークラス症候群か。


――早く蘇生しないと!


 だが、私の手足は人形になったかのように、動かない。


――動け! 動くんだ!


 自分の心臓の鼓動と、数馬さんの喘ぐ声とが、やたらと大きく聞こえる。


 そして――数馬さんの動きが完全に止まった。


 静寂のなか、聞こえるのは私の鼓動のみだ。


 数馬さんが、死ぬ。死んでしまう。


 次第に数馬さんの顔から生気の失せる様を、私はただ、見つめることしかできなかった。数馬さんの、苦悶に歪んだ表情が緩み、口が力なく開く。それを見て、視界が一瞬にしてぼやけ、嗚咽を抑えきれない。


 私はまた、見ていることしかできなかった。前世の私が、桐生の里の滅びる様を、ただ泣きながら眺めていたように。


 数馬さんが、いつ死んでもおかしくない状態だということは、覚悟していたつもりだ。だけど、こっちがいくらハラハラしても、いつもみたいに「やあ」と言いながら、朗らかな笑みを浮かべて戻ってくる……心の底で、そう思っていた。


 あの笑顔も、優しいまなざしも、そしてときどき見せる寂しげな横顔も、もう二度と見ることができない。


 そして、数馬さんが命を賭してまで江戸に戻り、為そうとしていたことは、いったいなんだったのか。この人は、それも果たせずに、旅立ってしまう。


 それがつらくて、悲しくて……心が握りつぶされそうだ。


 ようやく、金縛りも解け始め、かすかに手と足が動く。


 今なら、まだ間に合うかもしれない。なんとか、数馬さんのところへ!

 

 だが、まるで手足に重りをつけて、泥沼の中を泳いでいるようだ。まともに動けるはずもない。少しでも数馬さんの傍に行こうと、床をじりじりと這う。だが、手足の踏ん張りがきかないから、床に顔から突っ伏す。くそっ、こんなことすらできないなんて。


 己の力の無さに、唇を噛み締め、それでも前に進もうとした刹那――


 頭に、ぽんと温かな手が置かれたような感触があった。


――大丈夫だよ


 声が聞こえたわけではない。誰かに、そう言われた気がしたんだ。


 頭を撫でられる感覚と、その温もりに、例えようもない懐かしさが押し寄せる。


 なんだっけ。なんで、こんなに気持ちがいっぱいになるんだっけ。


 涙がぽたぽたと床に落ちる音で、我に返る。手も足も自由自在に動くぞ。飛びつくように、数馬さんに近寄った私は、瞠目した。

 

 穏やかな寝息を立てている姿は、まるで何事もなかったかのようだ。脈はまだ少し速くて弱いながらも、心の臓は規則正しく拍子を刻んでいる。


 なにが……なにが起きた?


 仮に、心肺停止の状態から自力で蘇生したとしても、呼吸と脈がこんなに安定しているなんて。腫れあがっていた瞼も顎も、腫れが引いてきているじゃないか。本当なら、何日もかかるのに。


 なぜ、こんなに回復する。


 信じがたい光景を目の当たりにして、医者としての理性がはじけ飛び、畏怖の念が沸き起こる。


「か……ずま……さん?」


 ひょっとして、私はなにかの幻術にかかっているんじゃないか。これも、夢の中の出来事じゃないか――そう疑いを抱きながら、小刻みに震える手で数馬さんの頬に触れる。触ったとたんに、夢から覚めて絶望に叩き込まれるんじゃないか、と心の片隅で恐れながら。


 温かい。


 これは間違いなく(うつつ)だ。手から伝わる温もりも、頬から顎の骨へと手でなぞる感触も、幻とは思えない。


 そして――数馬さんがゆっくりと目を開いた。


 最初のほうこそ視線が定まらず、虚空を眺めるだけだった瞳に、たちまちにして意思の力が宿る。


「ゆき……さん」


 静寂のなか、掠れながらもしっかりとした口調で、数馬さんは私の名を呼んだ。


 その声に、全身が歓喜でうち震える。もう、二度と名を呼ばれることがないと、思っていた。なんだろう、胸がいっぱいになりすぎて、何も言えないや。視界がまたもや、涙で滲み始める。

 

 言葉もなく覗き込んでいる私に向けて、数馬さんは穏やかな笑みを投げかける。


「ゆきさん、帰ったよ」


 ええい、医学の常識なんて糞くらえ、だ。数馬さんは、約束どおり戻ってきた。卑劣な罠からも、そして、死の淵からも。


 そんな数馬さんに言わなきゃいけない言葉なんて、決まってるじゃないか。


――おかえり、数馬さん。

 

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