やくそく
一味の打ち合わせをあらかた聞き終わったあと、そっと本堂から離れて木々の間に身を隠す。
連中の策はわかった。それに、水無川衆が何故、佐々木劒持の手の者に狙われているのかも。勘助って男が七蔵を殺めた下手人として、仲間の手で奉行所に突き出されるという訳かい。ふう……連中が佐々木劒持の手の者にやられでもしたら、台無しになるところだったぜ。
荒寺の周りに怪しい連中が来ないかを見張りながら、とりとめもなく考える。
村上主膳は、数馬さんが死んだものと思っているだろう。今の話だと、佐々木劒持か――あるいは、その家来が、数馬さんを仕留めそこなっているらしいからな。確かに、江戸に戻ってきてから数馬さん自身が狙われたのは、今回を除けば医者殺しの一件のときだけだ。あれも、薬事奉行の黒田がたまたま気がついただけだった。
とりあえず、数馬さんに村上主膳の手が伸びることは、しばらくはなさそうだ。
銀次って男の行先は気になるなあ。忍びの一族を抜けた者の先行きに、あまり明るい未来を思い描けないもん。桐生の一族を裏切った三次さんしかり、私の知るもう一人の源太にぃしかり、だ。でも、今は構っている場合じゃないな。
本当は、いったん小平太さんや弥助さんたちに繋ぎをつけたいところだけど、この場を離れる訳にもいかない。
夜が明けてからも、水無川衆は本堂に籠ったままだった。そして、佐々木劒持が差し向ける追手も、荒寺の周りには現れなかった。しんがり《・・・・》の男が、自分の命とひきかえに、追っ手を食い止めきったのだろう。
朝五つの鐘が鳴りしばらくの後、本堂の中からガタンという大きな音が聞こえてきた。そっと本堂に近寄り、壁に耳をつける。どうやら、勘助を奉行所に突き出す前に、男衆が勘助を縄で縛って殴りつけているようだ。
「勘助さん、すまねえ……あんたに、こんなことをしなきゃならねえなんて……」
すすり泣いているのは、勘助を殴っている男か。
「いいってことよ。一族の恨みを晴らすためだ。さ、手加減したら、奉行所の役人に疑われるじゃねえか」
口の中が腫れあがっているのか、さっきよりもくぐもった声だ。
西町奉行所に行けば、この男は七蔵を殺した咎で間違いなく死罪になるだろう。銀次が言ったとおり、みな本当の仇が佐々木劒持だと思っている。だが、立ち向かうにはあまりにも強大な敵だ。遣り場のない怒りと恨みを、すべて数馬さんに向けざるをえなかった。主からも捨てられたれ、守るべき一族の者たちを殺され――数馬さんを自分たちの手で葬るためだけに、生き延びてきた。そして今、悲願を果たすために、仲間を自分たちの手で死地に送ろうとしている。
どうにもこうにも、やるせない思いが募る。だが、私にはどうすることもできない。連中が私や、私の仲間に刃を向けるならば、迷わず斬る。それだけだ。
佐々木劒持の追手が荒寺に現れることなく、刻が経つ。朝五つの鐘とともに、本堂の引き戸ががらりと開いた。見張り役らしき男が出てきて、用心深くあたりを見回し、戸口に向けて手招きをする。続いて出てきた男衆が本堂の戸板を外し、その戸板の上に筵と縄で簀巻きにした勘助を横たえた。
「じゃあ勘助さん、行くぜ」
男衆が声をかけ、四人がかりで戸板を持ち上げる。このまま西町の奉行所に行こうって算段か。
すでに、江戸の町は往来を行き交う人々で賑わっている。立ち止まり、簀巻きにされた男を運んでいる一行を好奇の目で見る者もいるが、関わらないほうが身のためとばかりに、さっと視線をそらす。
これだけ人通りがあれば、佐々木劒持の手の者には襲われまい。奴らは、人目につくのを避けているようだったからな。
予想違わず、水無川衆の一行は誰にも邪魔だてされず、奉行所に一番近い舟切町の大番屋へと辿り着いた。一同が大番屋の中にぞろぞろと入っていくのと入れ替わりに、岡っ引きが一人、奉行所のほうにすっ飛んで行った。じきに、定町廻りや吟味方与力がやってくるだろう。こうなったら、佐々木劒持の手下も、手出しできまい。他の水無川衆も、お調べのため、大番屋にしばらく留め置かれるはずだ。
もう、ここで私ができることは何もないな。あとは、数馬さんが解き放ちになるのを待つだけだ――そう判断し、その場を離れ、弥助さんの家へと向かった。事の進捗を報せなきゃならないからね。
弥助さんが住む長屋の裏木戸までくると、金属を叩く規則的な音が聞こえてきた。お、仕事中だな。
「弥助さん、入るよ。いい?」
部屋の戸口を覗き込むと、簪の細工を彫っていた弥助さんが、仕事の手を止めて顔を上げた。
「おゆき坊、首尾はどうでえ」
隣に腰を下ろすと、弥助さんは再び仕事の手を動かし始めた。
「うん。あれから、水無川衆の連中、追分町の先にある寂れた寺に隠れてね。ずっと様子を探ってたんだ。さっき、仲間の勘助って男を、七蔵をやった下手人として、舟切町の大番屋に連れて行ったよ。勘助も、一族の恨みを晴らすためならって納得ずくだった」
そうして、弥助さんに一部始終をかいつまんで話した。佐々木劒持の手下が、水無川衆の女子供を皆殺しにしたこと。志乃の家族が数馬さんに殺されたこと。そして、銀次という若い男が、一族から抜けたこと。
弥助さんは、簪の細工をこしらえながら、黙って話を聞いていた。
「弥助さん、数馬さんは今日のうちに解き放ちになるかなあ」
私を一瞥した弥助さんは、手を動かしたまま答える。
「たぶんな。西町奉行所の連中は、数馬とお前に世話になっている。それに、盗賊改の遣り口には、連中も嫌気がさしているだろうよ。真の下手人でございってぇのが現れた日にゃ、飛びつくだろうさ。西町の連中は、意地でも今日のうちに数馬を解き放ちにさせるぜ。それに、今のお前の話をきいて、わかったことがある」
「ん、なになに?」
身を乗りだした私をよそに、弥助さんは簪の細工を凝視しながら答えた。
「水無川衆を狙った、佐々木劒持の手下だがな。ありゃあ、主の佐々木は知らねえことだろうよ。佐々木なら、水無川衆のかわりに子飼いにした忍びがいる筈さ。そいつらの姿が、影も形もねえからな。おおかた、数馬を仕留めそこなったってえことも、佐々木の耳には入っていねえだろうさ」
「あ、そうか」
「ま、そういうことだろうな」
いつもの、ぶっきらぼうな口調だけど、最後のほうはどこか安堵の色が混じっているように聞こえた。弥助さん、よくわからないけれど数馬さんのこと、気に入っているものね。
数馬さんは、二年前に水無川衆の頭領を斬ってから、命を狙われることがなくなった、って言っていたもんな。佐々木劒持は、村上主膳に命じられた隠密狩りが終わったと思っているんだろう。こいつは、ますます好都合だ。
「じゃあ、これから養生所に戻って、数馬さんが解き放ちになるのを待つよ。きっと、巳之吉親分が報せに来てくれると思うから」
そういって帰ろうとした私の背に、弥助さんが言葉をかけた。
「おゆき坊、数馬を養生所に連れて帰る途中、きっと水無川衆に狙われるだろう。俺も小平太さんも、こんな真昼間じゃ手助けできねえ。言うまでもねえが、じゅうぶんに気をつけるんだぜ」
痛めつけられた数馬さんは、きっと何もできない。連中にとっては、恰好の獲物だ。残る水無川衆は九人。志乃は、武芸はからきしっぽいから、戦力は八人か。私一人ならともかく、数馬さんを守りきるのは無理だろう。だから――
「うん。助っ人の当てがあるから、その人に頼むとするよ」
弥助さんは、口の端をわずかに持ち上げて、にやりと笑った。ちょいと安心してくれたみたい。
養生所に戻る間も、考えごとは尽きない。数馬さんは無事でいるだろうか。
それに、もし佐々木劒持の手下が数馬さんの存在に気づいたとしたら――そうなったら、私は数馬さんを守り切れないだろう。私は生きなきゃならない。源太にぃや爺や、里のみなと一緒に戦いたい。
ならば、数馬さんを見捨てて逃げるのか? そう思い至ると、胸が締めつけられるように苦しい。ああ、こりゃ無理だ。そんなことは、できやしない。頭をぶんぶんと振りながら歩く私を、すれ違った家族連れが不審そうな目で眺めているのに気がつき、思わず赤面する。まずいまずい、頭を切り替えなきゃ。
――まあ、そのときはそのときさ。数馬さんを匿う算段をつかなきゃ。いざとなったら、佐々木の手下を相手に、大立ち回りをせざるをえまい。腹をくくろう。。
養生所に戻り、数馬さんを迎える準備を整える。診療室に布団を敷いて、と。あとは痛み止めや強心の薬湯を用意しておこう。化膿止めの軟膏もいるな。爺から教えてもらった、秘伝の薬湯ってやつも、有り合わせの材料で作ってある。ちょいと効き目が足りない気もするが、ないよりましだろう。体を洗うための湯を沸かすのに水も汲んでおかなきゃ。それに、清潔な晒もたくさん必要だ。晒を細く裂いて、包帯も作っておくか。
ひととおりの用意が終わったころには、昼九つを回っていた。
お、ばたばたと足音をたてて、誰かがやってきたぞ。
「ごめんくだせえ!」
と言いながら現れたのは、巳之吉親分だ。
「あ、おゆき先生、いらっしゃいやしたかい。若先生が解き放ちになりやすぜ!」
全速力で駆けて、報せにきてくれたのだろう。巳之吉親分の顔は、晴れやかだ。よし、待ち人きたる、ってやつだ。ここからが、正念場さ。
巳之吉親分が言うには、七蔵を殺した下手人として捕らえられたのは、同じ軽業一座にいる勘助という男だ。仲間が探しだし、舟切町の大番屋に突き出したのだという。
すぐに鵜木様や吟味方の与力が飛んできて、取り調べをしたが、勘助や一座の者たちの証言に、なにひとつ不審な点はなかった。
さきほど、西町奉行所から盗賊改あてに数馬さんを一刻もはやく解き放つよう、書状を送った。盗賊改も、無実の者に責め苦を続けるのは如何にも外面が悪く、急遽解き放ちが決まったそうだ。
「その勘助って男も、一座の連中も忍びです。おさよを下手人に仕立てそこなったから、仲間の一人が下手人だと名乗りでたんです。やつらは命を賭しても、数馬さんに己の手でとどめを刺したいのでしょう」
「ああ、道理で下手人と名乗る男も、周りの連中もすらすらと話しやがると思ったぜ。鵜木の旦那も、あんまりにもお調べが簡単に行くもんで、首を傾げていなすった。だが、それほどまでに若先生を恨んでいるんですかい」
巳之吉親分は何とも言えぬ、表情だ。
「おゆき先生ひとりじゃ、大の男を運ぶのはほねでござんしょう。あっしも一緒に行くよう、鵜木の旦那から仰せつかっておりますんで」
鵜木様と巳之吉親分の心遣いが、心に染み入る。でも……
巳之吉親分は度胸もあるし、父親仕込みの十手術はなかなかのものと聞く。だが、忍び相手の立ち回りなど、やったことはなかろう。
「親分さん、放免になった数馬さんを引き取り連れて帰る途中で、きっと連中が襲ってくるでしょう。だから、親分さんの気持ちは嬉しいけれど――」
巳之吉親分は、片手をあげて私の言葉を遮った。
「おっと、その先は言いなさんな。そりゃあ、この巳之吉、先生のように腕が立つわけじゃねえ。だが、あっしはこれでも、若先生のことが気に入ってるんだ。いざとなりゃあ、若先生を負ぶって逃げるくらいのことはできる。おゆき先生が来るなといっても、あっしは行かせて貰いますぜ」
親分の意思は固そうだ。それに、力仕事に関しては、男手ってのはありがたい。私は、巳之吉親分に向かって、深々と頭を下げた。
「それでは、親分さんのお言葉に甘えます。でも、連中は忍びだ。毒の矢を使うし、匕首などにも毒を塗りこんでいるかもしれません。危なくなったら、私や数馬さんには構わず、逃げてくださいね。連中の狙いは数馬さんだけだ。親分さんを追うことは、しないでしょう」
巳之吉親分は、にやりと笑った。
「さすがは、おゆき先生だ。話が早ぇ。じゃあ、行きますかい」
腰を上げかけた巳之吉親分に、
「親分さん、おさよはその後、何か言いましたか」
と尋ねた。
「いいや、おさよの奴、まだ大番屋に留め置かれているが、これぽっちも口を割らねえ。やれやれ、若先生を恨むにしても、偽の証言はまずいぜ。七蔵殺しの下手人が現れたんだ。おさよも、御咎めなしってわけにはいかねえでしょう」
「そう……ですか」
できれば、偽証だったと白状して貰いたかったけれど、やむをえまい。それに、九年前に染弥と数馬さんの間で何があったのか、私が口を挟めることじゃない。いずれにせよ、おさよの件は後回しだ。数馬さんが放免になれば、おさよが連中に狙われることはあるまい。
巳之吉親分の命令で、下っ引きの平吉さんが近くで大八車を借りてきてくれることになった。平吉さんが戻ってくるまでの間、巳之吉親分に助っ人の件を相談してみるか。
「なるほど、荒木の旦那ですかい。荒木の旦那なら、腕っぷしは強いし、揉め事に首を突っ込むのは得意中の得意だ。まあ、なんでまた、揉め事ばっかり嗅ぎまわってるのかはわかりやせんがね」
巳之吉親分も、納得の人選だ。まあ、ちょいちょい留守にするみたいだから、もしかすると会えないかもしれんが。
「じゃあ、私は今から荒木殿のところへ行ってきますので」
と、養生所の門をくぐったところ、なにやら遠目にも見覚えのある人影が、こっちにやってくるではないか。ややや、あれは……
「これはこれは、荒木殿。ちょうど、今から荒木殿の家に伺おうかと思ったとところです」
駆け寄って挨拶をすると、荒木殿は懐に手を入れたまま、満面の笑みを浮かべて挨拶を返す。
「なんと、ゆき殿からそれがしのところに来てくださるとは、世は秋でも、この身は春が来たよな気分でござるな」
なんか、この軽口にもだんだん慣れてきたけど、やっぱり何度聞いてもげんなりするよ。だが、ここで怯む私ではないわ。自らを鼓舞する私をよそに、荒木殿は言葉を続ける。
「ときに、七蔵殺しの下手人が西町奉行所に捕えられ、乾殿が解き放ちになると聞き及んでな。身柄を引き取るにも男手が要るであろう。それがしも、ゆき殿とともに盗賊改のところに行くゆえ、ご安心めされよ」
にこにこと笑う荒木殿を見て、またもや体の力が抜ける気がする。やだ、どっから聞きつけてきたの、この人。
まあ、そんなこんなで、荒木殿を探す手間が省けたよ。
大八車を引く巳之吉親分とともに、盗賊改のもとに向かう。荒木殿は、少し離れて、ついてきて貰うことにした。私たちとぐるだと思われて盗賊改に目をつけられるのは、申し訳ないからね。それに荒木殿が近くにいると、帰り道に水無川衆が仕掛けてこないかもしれない。人手がある今、水無川衆に仕掛けてもらったほうが、連中の人数を確実に削れるだろう。荒木殿には、敵の手口について、あらましをざっと説明しておいた。もちろん、数馬さんの過去については、私は知らぬ存ぜぬではぐらかしてある。
盗賊改の牢は、頭の役宅に併設されている。激しい責め苦が行われているのと同じ敷地で暮らすのって、なんだかなあ……と思うけれど。
さて、到着だ。門をたたき、大きな声で呼ばう。
「養生所の医師、冴木ゆきと申します。乾数馬の身柄を引き取りに参りました」
門の向こう側から、
「今、連れてくるゆえ、しばし待たれよ」
と声がして、人の気配が消えた。待っている間は、やたらに時の流れが遅く感じる。あたりに敵の気配がないか探ったけれども、さすがに盗賊改の役宅の近くで待ち伏せをするような、大胆な真似はしていないようだ。武家地と商家の境目か、養生所の近く――外堀のあたりで仕掛けてくる、とみた。
「親分さん、ここには、連中はいません。大丈夫ですよ」
そう囁くと巳之吉親分は、にっと笑った。
「ありがてえ。若先生を乗せて、いきなり襲われたんじゃたまらねえ」
いつ襲われるかわからない状況では、気の休まるときがない。みたところ、巳之吉親分は少し表情が険しいものの、いつもどおりの態度だ。さすがに、肝が据わっているな。
待つこと半刻。ようやく門が開き、同心が顔を覗かせる。その後ろからは中間が二人、数馬さんの両脇から腕を回して、その体をひきずるように連れてきていた。
うつむいているので数馬さんの顔は見えないが、口か鼻からの出血が、ぽたぽたと地面に垂れ落ちている。いつも着ている藍色の小袖は、ところどころ黒々とした血で染まっている。
そして、小袖から除く両腕は真っ黒に変わり果てていた。
その様子に、身震いを抑えられず、思考が止まる。数馬さん、その腕は……
「養生所の者だな。連れて帰れ」
同心が言い捨てて背を向け、中間が数馬さんの体を乱暴に投げ出す。
「数馬さん、大丈夫かい?」
うつ伏せに倒れた数馬さんに駆け寄り、仰向けにした私は、またもや息を飲んだ。腫れあがった瞼で、人相がよくわからない。右の顎の骨も折れているな。ひどく腫れているぞ。
両の首筋には、赤い縄目の後が鮮やかだ。よほどきつく縛られていたんだろう。それに、小袖から除くあちらこちらに、深くえぐるような笞打ちの痕がみえる。手首にも、くっきりと縄目の後が残る。
口の端から血が流れ出ているので、顔を横に向けて、血を吐かせる。そうしないと、血が気道に入ってしまい、窒息してしまう。
「大丈夫? 息を吸えるかい?」
数馬さんは、微かに頷いた。
小袴から除く両脚も、脛から下が紫色に変色している。膝にも足首にも、縄が食い込んだような痕がある。
手も足も、神経や筋肉が完全にやられている。前世から引き継いだ能力で、それがわかってしまい、思わず震えがくる。きつく縛られたことにより血液の供給が絶たれていたことと、神経の圧迫が原因だ。
数馬さんは、もう、自由に歩けないだろう。そして、剣も振れない。言葉にならぬ感情が押し寄せ、思わず歯を食いしばる。
巳之吉親分が、呻く。
「こりゃ、ひでえ……」
私が震える手で数馬さんの体を調べている間、巳之吉親分が門に駆け寄り、同心の背に、言葉を投げかけた。
「罪もねえ先生を……こんな……こんなことが、許されるんですかね」
同心は振り返りもしなかった。巳之吉親分の抗議もむなしく、門が再び閉じられ、私たち三人が取り残された。
「おゆき先生、若先生の容態はどうですかい」
心配げに訊ねる巳之吉親分に、前向きな答えを返せない。
「よくありません。脈も弱い」
頸動脈の拍動が弱々しい。これはいけない。
「まずは、養生所に連れて帰りましょう。あと、体はなるべくそっと動かしてください」
この状態で体に刺激を与えると、死に至るような不整脈を起こしかねない。本当は、大八車に乗せてガタガタ揺らすのも避けたいぐらいだ。
巳之吉親分と一緒に、数馬さんの体を持ち上げて、筵をしいた大八車に乗せる。口の血は、頬の内側が切れただけだから、いずれ止まるだろう。
「若先生、よく頑張りなすったなあ。さ、しっかりしなせえ。もう大丈夫だ」
数馬さんの唇が、微かに動く。
「ん? 数馬さん、なに?」
口元に耳を寄せる。水も飲んでいないだろうし、下顎も腫れている。声にならない声だが、なんとか聞き取れた。
「や……く……そ……く」
あっという間に、私の視界は涙で曇る。
「数馬さん、きっと戻るって言ったもんね」
この人は、約束通り責め苦に耐え抜いてくれたんだ。
「数馬さん、ありがとう」
耳元で囁いて、顔をなでると、数馬さんは微かに頷いた。
涙を拭って、顔を上げる。泣いている場合じゃない。ここからが正念場だ。
「親分さん、行きましょう」
巳之吉親分と一緒に、大八車を引いて進む。平常心、平常心、だ。焦りや怒りは、剣を鈍らせる。子供のころからずっと、心を鎮める修練を積んできた。戦いを前に、私の心は十分に冴えわたっている。
武家地を抜け、町屋を通り過ぎる。私たちを追う者たちの気配を感じるぞ。
「親分さん、現れましたよ」
親分さんの顔を見ずに、ひとりごとのように話しかける。大八車を引く親分さんの手に、少し力がこもるのが見えた。
町屋を抜け外堀の道に差し掛かったとき――俄かに、敵の殺気が強まった。




