俺の知らねえことだらけ
おさよを抱えた荒木殿とともに大番屋に行くと、じきに巳之吉親分が飛んできた。奉行所にも遣いを出して貰ったから、おさよの家に転がっている忍び二人の骸にも、すぐに調べが入るだろう。
「おゆき先生、おさよが殺されかけたってえのは、本当ですかい」
ぐったりと座り込んだおさよの蒼白な顔を一瞥し、巳之吉親分が問う。
「ええ。賊は忍び装束でした。外堀で私を襲った連中の仲間でしょう。そいつらの懐に、この遺書が」
私が手渡した遺書を眺めながら、巳之吉親分がうなった。
「こいつは……なんとまあ、安っぽい芝居の筋書きみてえな話だぜ。つまり、連中はおさよを自害に見せかけて殺し、若先生は無罪でござい、ってことにするつもりですかい。だが、なぜ、わざわざこんな真似を?」
巳之吉親分の疑問はもっともだ。単に恨みを晴らすだけならば、数馬さんが死罪になるか、責め殺されるのを待てばいい。わざわざ解き放ちに持ち込む理由がたたない。
おさよに事の次第を問いただしている役人をちらりと眺め、巳之吉親分の耳に顔を寄せて、囁いた。
「連中は、数馬さんに深い恨みを抱いています。盗賊改の手を借りるのではなく、きっと、自分たち自身でなぶり殺しにするつもりなのではないか、って思うんです。でも、真っ向から立ち向かっても、数馬さんには歯が立たない。そう踏んで、まずは盗賊改に痛めつけさせるって算段でしょう」
巳之吉親分は、それを聞いて少し考え込み、再び口を開く。
「やっこさんが、実は凄腕の剣術遣いだってえのは重々承知してやすがね。そこまでしなきゃいけないほどですかい」
これを言っていいものかどうか、悩むなあ。だが、これ以上、巳之吉親分に隠し事をするのもおかしかろう。なにしろ、医者殺しのとき以来、散々世話になっているもん。これくらいは、いいよね。
「数馬さんとまともに斬り合ったら、私も勝てるかどうかわかりません」
これは本当だ。数馬さんとの立ち合いは、数え切れないくらいこなしている。お互い、手加減はしていない。でも、数馬さんの剛剣をまともに食らえば、木刀を使った立ち合いとはいえ、ただではすまない。本人は意識していないのだろうけど、やはり打ち込みの深さや速さは、真剣勝負のときには及ばないだろう。
「そんなに、ですかい」
巳之吉親分は目を見開き、しばらく絶句した。
「やれやれ、若先生とは長ぇ付き合いだが、俺の知らねえことだらけだぜ。これだから人ってえのは、わからねえ」
ため息をつく巳之吉親分は、どこか寂しそうだった。
おさよの身柄は大番屋に預かりとなった。おさよが再び襲われるやもしれん、ということで、しばらくすると奉行所からも人手が送られてきた。定町廻りの鵜木様もやってきて、忍びに襲われた理由をおさよに繰り返し尋ねたが、おさよは蒼白な顔で口をつぐんだままだ。
「これでは、乾殿の身の証がたたん。おさよ自身が殺しに関わっているわけではないゆえ、責め問で白状させるという訳にもいかぬ。どうしたものか。すまぬな、ゆき殿」
と、鵜木様が申し訳なさげに言う。西町奉行所の中でも、数馬さんが盗賊改に召し取られたのは、霞小僧の一件に対する意趣返しと見なしており、みな憤っているんだとか、なんとか。町奉行所と盗賊改が犬猿の仲というのは、テレビ時代劇と一緒だなあ。
「いえ、おさよさんが乾先生を恨んでいることは、本人から聞いております。すぐには、心を開いてくれないでしょうから」
そういって、鵜木様に頭を下げ、礼を述べた。
荒木殿は、大番屋で鵜木様たちと一緒に寝ずの番をしてくれるらしい。得体のしれない人だけれども、少なくともこれまでの事件では、私たちの裏をかいたり、邪魔をしたりってことはなかったからな。手を借りられるのはありがたい。
養生所への帰路を急ぐ。敵がいないか周囲を警戒しながらも、頭の中ではずっと、考えごとだ。おさよが偽証を認めない以上、数馬さんを助けるための手立てが別に必要だ。町方の役人と荒木殿がおさよを守ってくれるから、ようやく自由に動けるぞ。
囚われの身の数馬さんが、どんな目にあっているか……ついつい想像しそうになり、歯を食いしばって余計な想像を払いのける。考えたって、今はどうしようもない。それに、弥助さんが様子を見に行ってくれる。私は、私にできることをしよう。
養生所に戻り、自分の部屋で膝を抱え、両目を閉じる。そろそろ弥助さんが来る頃だ。それまで、少しでも力を蓄えておこう。数馬さんにまだ余裕がありそうなら、次の一手を考える余裕がある。水無川衆の狙いが、数馬さんへの恨みを自らの手で晴らすことならば、むざむざと数馬さんを死なせることはするまい。おさよを自害に見せかけて殺すという策が失敗した以上、連中も次の手を考えてくるだろう。いずれにせよ、今、私があせって動いても、何も変わらない。
入院している患者もいないし、数馬さんもいない。鈴虫の鳴く音が寂しく響くのみだ。
数馬さんは、天気が荒れていなければ、毎晩のように部屋を抜け出すのが常だ。九年前の隠密狩りを逃れた数馬さんが、江戸に戻ってきた理由を詳しくは知らない。夜の江戸の町をひとりで駆けるのも、なにか手掛かりを求めてということだけど、何を探し求めているのかすら、私は聞いていない。話す必要があるときに、きっと話してくれるだろうから。
でも――
もし、このまま数馬さんが帰ってこなかったら? 私は、数馬さんが何に命をかけているのかを、ずっと知らぬままだ。
おっと、いかんいかん。どうも悪いほうに考えちゃうぜ。頭では、数馬さんは大丈夫なはずだと思っていても、心の内は正直だな。やれやれ、私も修行が足りん。平常心、平常心、と。
そう自分自身に言い聞かせ、そのまま深い眠りに落ちた。
ふと気配を感じて目を開けると、音もなく部屋の引き戸が開き、柿渋色の忍び装束が見える。弥助さんだ。
弥助さんは戸を閉めて、土間の上がり框に座った。私も起き上がり、弥助さんの傍に座る。
「おゆき坊、数馬の野郎なら大丈夫だぜ。まあ、手ひどく痛めつけられちゃいるがな」
まずは、その報せにほっとする。痛めつけられ具合が気にならないわけではないが、いま聞くことではなかろう。
「まったく、たいした野郎だぜ。ただの青ちょろい若造かと思ったが、性根が座ってやがる」
なかば独り言のように呟いた弥助さんは、少し笑っているように見えた。弥助さん、数馬さんのことをかなり気に入っているからなあ。こんな状況だけど、弥助さんの様子に、ちょっと嬉しくなる。
「おゆき坊、そっちの首尾はどうでぇ」
「うん。読みどおり、おさよが二人組の忍びに殺されそうになったんだ」
弥助さんに、事の顛末をかいつまんで話す。おさよが自害にみせかけて殺されそうになったこと。連中が、自分たちの手で数馬さんに恨みを晴らしたがっているらしいこと。そして、荒木殿が手伝ってくれたこと。
一部始終を聞いた弥助さんは、私の顔をじーっと見つめる。
「おい、おゆき坊。数馬を助けるつもりなら、そのおさよって女を連中の目論見どおり、殺させたほうが良かったんじゃねえのか」
むむむっ、考えつきもしなかったぞ。
「うーん、でも、おさよって人が数馬さんを恨んでいるのは、染弥って芸者を殺したのが数馬さんだと、思い込んでいるからだし」
数馬さんを陥れた張本人だけど、悪い女じゃない。姉と慕った染弥を殺され、その仇をとるために人生を台無しにしようとしている、一途でまっすぐな人だ。いくら数馬さんを助けるためとはいえ、見殺しにはできないよ。
「それに、おさよを殺せないときは、数馬さんを盗賊改の手から逃れさせるために、連中も別の手を考えると思うんだ。牢破りみたいな荒事は、いくらなんでもしないよね。別に下手人を仕立て上げるとか、かなあ」
盗賊改の牢を破るなんざ、そもそも忍びの発想にはないのだよ。目立つのは嫌だもん。
私の話をきいた弥助さんは、ふっと口の端を緩ませた。
「まあ、おゆき坊のことだから、おさよを見殺しにするなんざ、考えつきもしなかったってぇところだろう」
うぐぐぐ。図星である。
「それでいい。汚れ仕事なんぞ思いつかねえほうが、お前らしいからな。それに、連中が次の手を考えてくるのは間違いねえと、俺も思っているぜ」
そう言って、弥助さんは私に向けてにやりと笑いかけたあと、すぐに真顔に戻った。
「盗賊改の調べは、昨日よりもきつくなるに違ぇねえ。さすがの数馬も、体がもたねえだろうさ。連中が動くとすれば、今日中だな。どう出てくるか、あらかじめ目星をつけてえところだな」
そういいながら、弥助さんが立ち上がろうと手足に力をいれるのを感じた。思わず、その横顔を見ると、目はしっかりと戸に向いている。確かに、戸の外に何者かの気配を感じる。
「なんだ、小平太さんかい」
そういって、弥助さんが体の力を抜くのと同時に、戸が音もなくするりと開いた。
「すまねぇな、弥助。なんだ、おゆき坊も戻っていたか」
紛れもない、忍び装束に身をつつんだ小平太さんだ。でも、小平太さんが養生所に来るなんて、聞いていないぞ。
「小平太さん、どうしたの?」
小平太さんは、戸口に立ったまま話しかけてきた。
「おゆき坊、そのままの恰好でいいから一緒に来い。水無川衆が根城にしてる芝居小屋が、何やら騒がしいぜ」
腰を上げた弥助さんが、私に向かってにっと笑う。
「連中、おさよを仕損じたことに気がついたのかもしれねえ。なあ、おゆき坊、こいつぁ、願ってもねえ。連中の策ってやつを、ちょいと聞きに行くとするか」
戸口をくぐりながら、弥助さんは小平太さんの肩を叩いた。
「なんでえ。小平太さんまで、この件に手ぇ出すとは思わなかったぜ。あんたも物好きだな」
「いやな、村上主膳の腹心で大番頭の佐々木って野郎の配下が、妙な動きをしていてな。ここのところ探りを入れていたんだが――そいつの手下が、今日になって、水無川衆の根城のまわりをうろうろしてやがる。どうやら夜討ちをかけるようだぜ」
それを聞いた弥助さんは、腑に落ちなさそうな顔だ。
「水無川衆といや、大番頭の子飼いじゃなかったのかい。どうやら、俺たちの知らねえからくりが、あるようだな。まあ、それはそうと、水無川衆が始末されちゃ、数馬の身の証を立てるのが面倒になるぜ」
小平太さんは頷いた。
「ああ。俺だけじゃ、どうにも手が足りねえ。それで、お前たちを呼びに来たってわけよ」
なんとなく状況はわかった。これは一大事かもしれん。ちょいと、急がなきゃな。
闇の中を音もなく駆ける。目指すは、水無川衆が根城にしている芝居小屋だ。小平太さんと弥助さんは、一足先に向かっている。私は忍び装束ではなく、いつもの小袖と小袴のままだ。
本当は、こうやって小平太さんや弥助さんたちが私を助けてくれるのも、だめなんだよなあ。桐生の里の長から、お互い別行動、って言われているもん。でも、この二人がいると、本当に心強い。
さて、そろそろ件の芝居小屋の近くだ。まわりには、佐々木劒持の手下たちがいる筈だ。ここからは身を潜めるとしよう。
頭巾で顔を隠し、あたりの気配を探りながら芝居小屋に近づく。まわりはさほど大きくない商家が並んでいる町並みだ。そこら中に身を隠している佐々木劒持の手の者は、ざっと十人というところか。もうすぐ暁七つの鐘がなる。早起きの職人たちが、そろそろ起きだす頃合だ。連中は、それまでに仕掛けるつもりだろう。
芝居小屋の中の連中は、気づいているのか、気づいていないのか――うーむ、ここからじゃわからんな。
それにしても、なぜ佐々木劒持が水無川衆を狙うんだろう。ぺらぺらと悪事を自慢げに語り始める黒幕ってえのがいたら、助かるんだけどな。数馬さんて、そういうのを引き出すのが上手いんだよね。さすが、元・公儀隠密。
芝居小屋の周りにいる連中の目をかいくぐって中に忍び込むのは、さすがに無理だ。途中で視界を遮るものがない。いまは、取り囲んでいる連中のほうを探るとしよう。
あるときは屋根を伝い、あるときは身を低くして慎重に身を隠しつつ、あたりに潜んでいる連中の風体や得物を覗き見る。うむ、こいつら浪人者じゃない。佐々木劒持の、れっきとした家来とみた。鉄砲や弓矢を持っている者はいない。ちょいと安心したぜ。周りに遮るものがない中で、飛び道具を使われちゃ、厄介だからな。まあ、町外れとはいえ、お江戸の町で鉄砲をぶっぱなすのは、いくら村上主膳の腹心でもまずかろう。江戸で鉄砲を扱っていいのは、江戸城を守る鉄砲百人組だけだ。
小平太さんと弥助さんも、どこかに潜んでいるはずだ。二人のような手練れが本気で気配を消したら、私にはさっぱり居所がつかめないよ。さすがだなあ。
さて、ここからどうするか。なにしろ相手は大物だ。こいつらを傷つけたら、きっと、大がかりな追手がかかるだろうし。
いろいろと思案していると、小平太さんが私の右手から現れた。
「おゆき坊、これをどう見る?」
「うん、飛び道具は持っていなさそうだから、こいつらを傷つけず水無川衆を逃がせると思う。でも、夜の闇に乗じてってことは、こいつらも大事にはしたくないんじゃないかなあ。村上主膳に知られたくないか、それとも佐々木劒持の知らないところで、こいつらが動いているか」
頭巾の奥で、小平太さんの目が細く光る。また、にやりと笑っているんだろう。
「上出来だ。俺もそう思うぜ。まずは、佐々木劒持の手下をひきつけるとするか」
小平太さんは策の仔細を告げると、弥助さんにも報せに行くと言い残し、瞬きをする間に姿を消した。六尺近い長身がもの凄い勢いで動いたというのに、木の葉一つ揺れない。やっぱり小平太さんの身のこなしはすごいや。
息を殺して、刻を待つ。佐々木劒持の手下たちは、じりじりと芝居小屋の入口と裏口をかため始めたみたいだ。そろそろかな。
前触れなく、くぐもった爆発音が響き、芝居小屋の裏手に入道雲のような白煙が立ち上る。
「しまった! 奴ら、裏口の囲みを破ったぞ!」
「裏口だ! 裏口を固めろ!」
もう一度爆発音が鳴り響き、怒号が交錯する。さっきの声は、小平太さんと弥助さんだな。打ち合わせどおりだ。
芝居小屋の正面を固めていた連中が、浮足だって物陰から飛び出してきた。手勢は四人だ。裏口へ加勢に行くか、正面を固めるか、顔を見合わせて、迷っている風だな。
「ああっ、一人やられたぞ! おい、しっかりしろ!」
小平太さんが張り上げたダメ押しの一声で、正面にいた連中のうち二人が、意を決した様子で芝居小屋の裏手へと駆けていく。よっしゃ、この隙に、っと。
またもや、大きな爆発音が響く。ふふふ。弥助さん謹製の煙玉は、火は出ないけれども、音と煙が強烈なのだ。今頃、二人の手練れに翻弄された侍連中が、裏口で右往左往しているはずさ。
抜き身の刀を下げて、芝居小屋の入口で待ち構えている侍は二人きりだ。よしよし、裏手の騒ぎに気を取られているな。隙だらけですよ、っと。
一人の背後から忍びより、首の後ろから両手をかけて、喉仏の両脇をぎゅっと押さえつける。一瞬、相手の体に力が入り、私の手を振り払おうとする素振りをみせたが、すぐに力が抜けて、その場にへたりこんだ。
現代でいうところの、頸動脈洞反射で落ちる、ってやつだ。こういう体術は、小平太さんに仕込まれた。締め技はどんなに軽い力でも、要点を押さえれば確実にかかる。
もう一人の男は、完全に呆気に取られている。抜き身の刀も、だらりと下げたままだ。腰の愛刀に手をかけて、鯉口を切りながら一足飛びに懐に潜り込む。そのまま、刀身半ばまで鞘走らせ、相手のみぞおちを柄頭で穿つ。か細いうめき声をあげながら、男は崩れ落ちた。
すぐさま、その場を離れて隣家の陰に潜み、様子をうかがう。よしよし、中の連中が正面から出てきたぜ。先頭は、外堀で襲われたときに見た顔だ。用心深げに戸口から顔を覗かせ、侍がふたり倒れているのを見てぎょっとした顔をしている。だが、動く敵がいないと見るや、すぐさま表に飛び出して振り返り、戸口に向けて手招きをする。
ぱっと残りの連中が飛び出してきた。前後を男たちに守られながら、小走りに出てきたのは――志乃だ。あの身のこなしじゃ、やっぱり志乃自身は忍びじゃないな。数馬さんの読みどおり、上忍の娘ってところだろう。
中にいたのは志乃をいれて十人か。しんがりを務めている男が、抜き身の道中差しを手に、背後をちらちらと気にしている。志乃を連れているから、逃げ足が遅いのだ。
いつのまにか、裏口の騒ぎも収まっている。手筈どおりなら、騒ぎをきいて人が集まってくる前に、小平太さんと弥助さんはこの場を離れている筈だ。
「やつら、表口から逃げ出したぞ! 追え! 追うのだ!」
裏口から戻ってきた侍が、逃げようとする水無川衆を見つけ、仲間を呼ばう。騒ぎをきいて集まってきた、裏長屋の住人たちは、殺気だった侍を見て、触らぬ神に祟りなしとばかりに、遠巻きに眺めるばかりだ。
二人の侍が後を追ってくるのをみて、しんがりの男は志乃の背を一瞥した。志乃の足では、逃げきれぬと判断したのか、道中差しを手に侍たちに向かって行く。
男は、侍達にむけて、むちゃくちゃに斬りつける。型も何もないが、捨て身の行動に、侍たちもうかつに手がだせない。
これならば、足止めになるだろう。あの男は、もう助からないだろうけれど……とにかく、逃げた水無川衆の後を追わねば。
ちょいと離れてはいるが、志乃が足を引っ張っているせいで、じきに追いついた。曲がり角ごとに建屋の陰に隠れながら、あとをつける。まだ暁七つの鐘もなっていないから、人通りもない。一行は、人目に触れることなく、芝居小屋から一町半ほどの場所にある荒寺の本堂に逃げ込んだ。
こいつは立ち聞きをするのに、おあつらえ向きの場所だぜ。立てつけの悪い引き戸の傍で、聞き耳を立てる。
命からがらに逃げてきた一同は、しばらく声も出せない。荒い息遣いだけが響く。ようやく口を開いたのは、やや年配の男だ。
「ありゃあ、佐々木様のご家来衆だぜ。裏口で指図をしていた侍に、見覚えがある」
息が荒いせいか、少し離れた私のところにも、話している内容がよく聞こえる。
「乾の野郎にやっと止めをさせるってえ、こんなときに、佐々木様に見つかっちまうなんて」
同じく、やや年嵩の男の声だ。
「やめてくれ! 勘助さんも、金蔵さんも。あんたたちは乾、乾、って言うがな、佐々木様も、俺たちの身内を――刀も持てねえ女子供や年寄りを皆殺しにした外道じゃねえか」
いらだちを抑えきれない様子で、若い男が言い捨てる。
「おい、銀次! なんてこといいやがる! お前だって、弟を乾にやられているじゃねえか。あんな、年端もいかねえ子が、胴体をまっぷたつだ。乾を恨むならともかく、佐々木様を恨むなんざ、筋違いもいい加減にしろ」
そういいつつも、年嵩の男の声は弱々しい。銀次と呼ばれた男が、反論する。
「そりゃあ、弟のことは悔しいさ。だがな、それだって、長尾様が乾を仕留めるのに、まだ数えで十にもならねえ、うちの弟を使ったからじゃねえか。人でなしは、長尾様や佐々木様だろうが! 勘助さん、あんただって、わかっているくせに」
それを聞き、勘助と呼ばれた年嵩の男が激高した。
「銀次! お志乃さんだって、弟と妹を乾に殺られてるんだ。いくらお前でも、ただじゃおかねえぜ」
殺気だった言葉に、みなの緊張が走り、がたっと一同が立ち上がる。うわ、いきなりの仲間割れかい。
「おやめなさい」
割って入ったのは志乃だ。凛とした声に、男たちの動きがぴたっと止まった。
「銀次、お前の顔など見たくもない。もう、身内でもなんでもありません。今すぐここを出ていき、どこなりと好きなところで野垂れ死ぬがいい」
銀次、と呼ばれた若い男は、すうっと大きく息を吸い込み、一気にまくしたてる。
「お志乃さん、俺はもう、あんたや他の連中についていけねえ。一族の仇をとるっていいながら、本当の憎い仇の佐々木様には目もくれず、乾ばかり追いかけていやがる。乾が何をしでかしたかは知らねえが、俺から見りゃあ、奴は降りかかる火の粉を、振り払っただけじゃないのかい。俺たちは忍びだ。主が命じた相手を仕留めそこなって命を落としたところで、相手を恨むってえのは筋違いじゃねえのかい」
驚いた。声からすると、この銀次って男は二十歳そこそこの若造だろう。それが、年長の忍び達に向かって、ひるむところがない。まあ、十五歳の私が、銀次を若造と評するのもなんだが。
一同は銀次の権幕に、静まり返っている。銀次は、言葉を続けた。
「それに較べりゃ、佐々木は外道中の外道さ。長尾様が言うには、まだ乾を仕留めていねえことを隠すために、俺たち一族を皆殺しにしようとしてたっていうじゃねえか。罪もねえ、女子供や年寄りが、手向かいもせずに弄り殺しさ。え? ひでえ話じゃねえか」
「やめろ……銀次、もう言うな」
勘助の声は、どこか懇願するような響きを帯びていた。この男も、本音では銀次と同じ考えなのかもしれない。本当に憎い仇を討つにも手立てがなく、数馬さんを追うことで、自分たちを納得させてきたのではないか――そう思うと、この男たちの無念さが押し寄せてきて、胸の内に苦い思いが広がる。
「ああ。金輪際、あんたたちとはおさらばさ。一族の生き残りが肩を寄せ合って生きのびたんだ。力を合わせにゃなんねえ、と思って、ここまで付き合ってきたがな。乾だけじゃねえ、あの女武芸者にも仲間が斬られる始末さ。だいたい、その女武芸者様を捕えて手籠めにするってえお志乃さんの策もな、忍びのやることじゃねえ。外道の所業さ。お志乃さん、あんたはやっぱり、長尾様の血を引いていなさるぜ。とても、付き合いきれねえ。俺は抜けさせてもらうぜ」
そう言い捨てて、銀次は荒々しい足音を立てながら本堂から出ていく。
ううう。こいつら、やっぱり私を手籠めにするつもりだったのかい。小平太さんと弥助さんの読みどおりだぜ。
本堂の陰から、銀次の後ろ姿を覗き見る。銀次は本堂のほうを一度振り返り、踵を返して足早に立ち去った。
残された男たちは、黙り込む。しばらくして、勘助と呼ばれていた年嵩の男が、一同に話しかけた。
「明日になったら、俺をふん縛って、西町の奉行所に突き出せ。七蔵を殺した男は同じ一座の勘助でございって言えば、その日のうちに乾は解き放ちになるだろうさ」
皆を奮い立たせるように、勢いのある口調だ。だが、一同は頷きもせず、黙り込んだままだった。
志乃は、銀次が立ち去ってから一言も言葉を発しない。それがまた、不気味でしょうがない。思いつめた女ってぇやつは、何をしでかすか、わからないもん。




